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余白の代筆令嬢は、霜領侯爵に春を綴る  作者: 銀細工ナギ


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20/20

春を届ける代筆官

 雪解けの水音が、城下町の石畳を一日じゅう洗っていた。

 フォルクレア城の正門から少し下った通りに、古い郵便馬車の詰所がある。王都からの配送網が改ざんされていた間、閉ざされたまま凍りついていた小さな建物だ。その扉に今日、新しい看板が掛けられた。

 余白書簡工房。

 黒く焼き付けた文字の下に、ミリアは自分の名を入れた。ミリア・アルトレン。侯爵家の婚約者でも、男爵家の次女でも、書簡庁の末席でもない。手紙を預かり、言葉の宛先を整える者としての名だった。

「傾いていないか」

 脚立を支えていたレオナールが、真剣な顔で見上げている。

「少しだけ右です」

「右」

「行き過ぎです」

 彼が慎重に看板を戻すと、通りで見守っていた子どもたちが笑った。北領の人々は、春が戻ってからも急には浮かれなかった。畑の雪を割り、傷んだ屋根を直し、凍害を受けた苗を選り分ける日々は続いている。けれどその働く手の間に、手紙を出したいという声が少しずつ生まれていた。

 王都へ無事を知らせたい。遠い親族へ種を分けてほしいと頼みたい。失われた季節のあいだ口にできなかった礼を、隣村の誰かに届けたい。

 その声のための場所が、この工房だった。


 開業の最初の客は、温室で芽を見せてくれた少年だった。彼は両手で折り目だらけの紙を握りしめ、作業台の前に座ると、緊張で足をぶらつかせた。

「王都にいる姉さんに書きたいんだ。春が戻ったって。でも、怒っていることも書きたい」

「怒っていることも、大事な言葉です」

 ミリアが答えると、少年は少し安心したように息をついた。

 彼の話は途切れ途切れだった。姉が王都へ奉公に出てから、北領の便りは何通も戻ってこなかったこと。返事がないのは忘れられたからだと思っていたこと。けれど配送記録が改ざんされていたと知って、今度はどこへ向ければよいかわからない怒りが残ったこと。

 ミリアは羽根ペンを走らせる。整えすぎない。少年の声の勢いを殺さない。ただ、読んだ相手が受け取れる形へ、少しだけ橋を掛ける。

 余白に、少年が言えなかった言葉が浮かんだ。

 帰ってきてほしい。でも、帰れないなら、僕を忘れていないと言ってほしい。

 ミリアはその一文を、本文の最後にそっと置いた。少年は読み返し、耳まで赤くしてうつむく。

「これ、弱虫みたいじゃない?」

「いいえ。宛先を間違えない言葉です」

 封蝋を押すと、紙の端に小さな若葉色の光が宿った。季節契約が正しく流れ始めてから、北領の手紙にはときおり春気が混じる。魔法としては弱く、窓を開けるほどの力もない。けれど遠くの誰かに、こちらの土が温み始めたことを知らせるには充分だった。


 昼前には、サビーネからの書簡が届いた。

 王都書簡庁の監査はまだ続いている。ユーリス・ヴァルトの改ざんは季節管理局だけでなく、複数の配送窓口に及んでいたらしい。だが、白紙化された記録を復元したミリアの証言により、北領宛ての郵便路は正式に再整備されることになった。

 そして末尾には、サビーネらしい角ばった文字でこうあった。

 北方連絡工房としての登録を認めます。規則は守ること。無理はしないこと。あなたの余白読みを、あなた自身の仕事として扱いなさい。

 ミリアは便箋を胸に当て、笑った。褒め言葉ではない。けれど、認めるという言葉よりずっとサビーネらしい祝福だった。

 別の封筒もあった。アルトレン男爵家の紋が押されている。父オスカーからの短い詫び状だった。家のためという名で娘の宛先を奪おうとしたこと、改ざん側に利用されたこと、すぐに許されるとは思わないこと。

 余白には、まだ言い訳の影が残っていた。それでも、以前のように娘の返事を当然視する圧はない。ミリアは新しい紙を出し、すぐには返事を書かなかった。許すかどうかも、距離を置くかどうかも、今度は自分で決められる。それだけで、白い紙は怖くなかった。


 夕方、最後の客を送り出すと、工房の窓に淡い金色が差した。通りの向こうでは、領民たちが雪解け祭で使えなかった旗を春市の飾りに縫い直している。折れたものを捨てず、形を変えて使う。その手つきが、北領のこれからを語っているようだった。

 レオナールが扉を叩いた。領主の外套ではなく、作業で泥の跳ねた上着姿だ。

「初日はどうだった」

「忙しかったです。侯爵家からの依頼は、明日以降にしてください」

「では予約を取る。領内の復旧報告を王都へ送る代筆を頼みたい」

「料金表どおりです。侯爵家割引はありません」

「承知した」

 彼が真面目にうなずくので、ミリアは笑ってしまった。けれど、そのやり取りがうれしかった。彼は彼女の仕事を、愛情の付属物にしない。ミリアもまた、彼の隣に立つために自分を小さくしなくていい。

 レオナールは作業台の上に、小さな鍵を置いた。

「城館の東棟の鍵だ。君の部屋を整えた。だが、ここを閉める必要はない。帰る場所は一つでなくていい」

 ミリアは鍵を手に取った。冷たい金属は、掌の中ですぐに温まる。

「では私は、この工房の合鍵を渡します。領主として勝手に入らないでください」

「伴侶としては?」

「お茶を持ってくるときだけ許します」

 レオナールの目元が和らいだ。無口で冷たいと呼ばれた人の、静かな笑み。ミリアはその顔を見るたび、かつて余白にしか読めなかった本音が、今は言葉と行動で届くのだと知る。


 夜、工房の灯を落とす前に、ミリアは一枚の白い便箋を出した。宛先はまだ書かない。これから届く誰かのための紙であり、自分の未来のための紙でもあった。

 春は、ただ戻って終わるものではない。耕し、種を置き、水を引き、誰かへ知らせて初めて暮らしになる。

 ミリアは窓を開けた。冷たさの残る風が、インクの匂いを通りへ運んでいく。遠くで鐘が鳴り、配送馬車の鈴がそれに重なった。

 もう、彼女の言葉は家の都合にも、役所の机にも、仮の契約にも閉じ込められない。

 ミリア・アルトレンは、春を届ける代筆官として、明日もこの扉を開ける。

 そして仕事を終えた夕暮れには、同じ未来を選んだ人の隣へ、自分の足で帰っていくのだった。

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