契約ではない求婚
再調印の羽根ペンが最後の署名を受け取ったとき、長卓の上に置かれた季節契約は、静かに息をした。
紙が息をするなど、書簡庁に勤めていたころのミリアなら笑われるのを恐れて口にしなかっただろう。けれど今は違う。羊皮紙の余白に残っていた沈黙がほどけ、青銀の文字の間から淡い光が立ちのぼるのを、部屋にいる誰もが見ていた。
「春気返還、起動」
監査官が読み上げると、王都の窓辺で早すぎた若葉が一枚、力を抜くように枝へ沈んだ。同じ瞬間、北へ向かう配送印が卓上の地図を走り、フォルクレア領の谷へ細い金の線を引いた。
それは命令ではなかった。奪われていたものが、正しい宛先を思い出す動きだった。
北領へ戻ったのは、その三日後だった。
駅舎の屋根にはまだ雪が残っていたが、軒先から落ちる雫の音が違っていた。凍ったまま途切れていた水路は細く鳴り、白い畑の端には黒い土が顔を出している。馬車を降りたミリアの頬へ、冷たい風に混じって湿った匂いが触れた。
「土の匂い……」
思わずつぶやくと、迎えに出ていた子どもが両手を広げた。
「ミリア様、見て!」
子どもの指す先で、温室の扉が開かれていた。以前は霜で曇っていた硝子の内側に、薄緑の芽が並んでいる。まだ頼りない、けれど確かに上へ伸びようとする色だった。
領民たちは歓声を上げなかった。最初は、声にしてしまえば消えると恐れているように、黙って畑を見ていた。やがて一人の老婦人が膝をつき、雪解け水を手のひらで受ける。
「戻ってきたねえ」
その一言をきっかけに、あちこちで息を吐く音がした。泣く者、笑う者、ただ空を仰ぐ者。ミリアは代筆官として数えきれないほどの感謝の言葉を書いてきたが、言葉になる前の安堵がこれほど重いものだとは知らなかった。
レオナールは人々の輪から少し離れ、復旧の指示を出していた。水門の確認、種籾の配布、凍害を受けた家への薪の追加。春が戻っただけで暮らしが元通りになるわけではないと、彼は誰よりも知っている。
ミリアはその横顔を見つめた。王都で彼の名が冷たい侯爵として語られていた理由は、今ならわかる。彼はいつも、喜びより先に責任の方を見てしまう人なのだ。
「ミリア」
呼ばれて、彼女ははっとした。
「少し歩けるか」
「はい」
二人は城館の裏手へ向かった。雪の下に眠っていた小道はぬかるんでいて、靴底がたびたび沈む。レオナールはいつものように手を差し出しかけ、そこで一度止めた。
「すまない。もう、仮婚約者として当然のように手を取る立場ではないな」
その言い方があまりに真面目で、ミリアは小さく笑ってしまった。
「では、ミリア・アルトレン個人としてお願いしてもよろしいですか。転びそうです」
レオナールの目がわずかに見開かれ、それから静かに和らいだ。彼の手は温かかった。以前、雪の駅舎で握ったときは、必要な支えだと思っていた。今は、離したくないと思う自分の気持ちがはっきりわかった。
小道の先には、初代侯爵が春気返還の条項を結んだという古い標柱が立っていた。表面の文字は摩耗して読みにくい。けれど余白には、何世代もの領主と領民がここで雪解けを待った気配が残っている。
レオナールは標柱の前で足を止めた。
「仮婚約の契約は、春の返還を確認した時点で満了する」
「……はい」
胸の奥がきゅっと縮む。わかっていたことだ。最初から期限はあった。家門文庫へ入るため、北領の証人になるため、二人は契約を結んだ。
けれど、わかっていても寂しさは消えない。
レオナールは上着の内側から一枚の紙を取り出した。封印も飾り罫もない、上質だが白いだけの便箋だった。
「だから今日は、契約書を持ってこなかった」
ミリアは紙を見つめた。
「では、それは」
「私が自分で書いた手紙だ。代筆を頼むのではなく、君に宛てて」
差し出された便箋には、短い文字が並んでいた。整いすぎてはいない。何度も書き直した跡が余白に残っている。侯爵としての利益、領地の都合、家名の重さ。そうした言葉を書きかけては消し、最後には一つの願いだけを残した筆圧。
ミリア・アルトレン。
あなたの隣で、これからの春を数えたい。
どうか私の妻になってほしい。
読み終えた瞬間、余白がにじんだ。紙のせいではない。ミリアの視界が揺れていた。
「条件は、ありませんか」
「ない。君が北領に必要だからではなく、私が君を必要としている。もちろん、君が望む仕事も居場所も奪わない。王都へ戻りたい日があれば送る。書簡庁へ戻るなら支援する。北で新しい仕事を始めるなら、領主として邪魔をしない」
「領主として?」
「……伴侶としては、できれば隣にいてほしい」
不器用な付け足しに、今度こそ涙と一緒に笑みがこぼれた。
ミリアは便箋を胸に当てた。返事を代筆する必要はない。誰かのために整える文章でも、家に命じられて選ぶ宛先でもない。
「私も、あなたの隣で春を数えたいです」
レオナールの息が止まった。
「ただし、私の言葉で、私の仕事を続けます。あなたの妻になることで、私が私でなくなるのなら受けられません」
「それを望んだことは一度もない」
即答だった。
そのまっすぐさに、ミリアはうなずく。
「では、お受けします。契約ではなく、私の意志で」
レオナールは彼女の手を取り、指先に口づけた。誓約の形式ではない。封蝋も証人もいない。けれど春を含んだ風が二人の間を通り、標柱の古い文字のくぼみに小さな水滴を光らせた。
城館へ戻るころ、温室の前では領民たちが種の袋を分け合っていた。サビーネから届いた速達の封筒も、執務机に置かれているという。王都の監査は続き、季節管理局は組み直され、ミリアにも証言の追記が求められるだろう。
終わったのではない。
けれど、始められる。
ミリアはレオナールの隣で、北の空を見上げた。雲の切れ間から落ちた光が、雪と土の境目を柔らかく照らしている。
その余白に、彼女はまだ書かれていない未来を読んだ。




