愛だけに浸るには諸々が多いから、隅に追いやられていく
朝陽が上る瞬間を見るといつもここが日本ではないんだと実感する。
日常で使う言葉も目にする商品も食材だって全く違うし、それにいまだに慣れないというのに、この瞬間が一番実感する。
初めて夜更かしを覚えた中学生の頃、朝焼けを見て世界には美しいものが溢れていると思った。それもこんなにも身近に目にすることができるのだと。病みつきになり、インスタントカメラで撮りまくった思い出。その度に姉に叱られた。
──思えば、遠くに来たもんだ。
「ハル……? どうしたの……」
背中に手を乗せられて飛び上がりかける。完全に一人に浸っていた。
「朝陽がキレイだって、思って……」
私の言葉に半分閉じた瞼のまま、微笑んで頷く彼女は、腕を伸ばして後頭部から私の頬まで撫でる。
「そうね、この瞬間も夕方の瞬間も綺麗だわ。でも、今はまだ寝ていていいのよ」
ここがどこよりも安全であると、安心させて言い聞かせる声音は、すぐに夢の旅に向かって行った。
私も混ぜてほしくて、自分よりも年下の愛しい──普段は同年齢かそれよりも年上に振る舞うのに、実は十歳も下なのだ──肌に寄り添った。
寝て起きたら世界が変わり果てていたとかちょっと前の生活のままだったという展開は物語が好きな人間であれば、一度は妄想すると思う。
本を読まない人間でもルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』で描かれた結末である、夢オチという言葉を知ってはいると思う。
私もそうであればと何度か願った。
それは夏休み最後の日に必死の思いで課題に向き合っている時だとか、失恋した日の無力感に包まれた、何もしたくないという身体からも発してくる信号とか。
「聞いている? そろそろニッポンに一時帰国ぐらいはしてもいいんじゃない?」
私が目覚めた時にはグレイシーは慌ただしく出勤していく間際だった。夕べの名残りもないまま向けられた背中に寂しさを久しぶりに覚えた。
それでも世界という日常が続くからと回らない頭でコーヒーを淹れて飲む。前日にパラ読みした資料を手に取ろうとした時、スマホが鳴った。発信者は姉だった。
「聞いてるって。申請、出してみるけど……今年中に許可出るか分からんよ」
「ぐずぐずしとったらあかんよ? それじゃあね、身体に気を付けて」
お姉ちゃんも。その言葉も言わせてもらえないまま、電話は切れていた。嵐のような電話、しかも対話が不可能だった。最近は特にそんなことが多い。
姉とは定期連絡は交わすが、それ以上は付かず離れずとも言えない姉妹関係のままだった。
昔からお互いに遠慮に似たようなものがあった。
姉は関東の大学進学ができるくらいの意志の固さと見合う成績があって、それを父親も許した。
そんな姉を持ったせいか私はふらふらと落ち着きがない子どもだった。
何かに成らないといけない──何者にも成れない──自認できない自分と周囲が認識する己の差や隔てる壁が怖かった。自分という、村井 晴渡で良いのだと、自らを慈しみたいと願ったほどに。
そんな私を妹にもってしまった姉は、海外旅行に出ると伝えると感情を露わにして言った。
『日本を出て、期限を決めないで旅行って。あほちゃうの? 世の中のことほんまにわかってないんやから』
普段はあまり出さない関西弁は感情的になっている証拠だった。
姉の顔は、思春期の頃によく見た押し殺さないといけない長子の嘆きが貼りついていた。上塗りされるようにその顔がいまでは姉という単語で連想されるぐらいに。
確かに姉が言っていたように、私は自分が知りたい情報しか目の前で止めていなかった。
その時とそれからのことが色々あったものの、「終わりよければ全て良し」ではないけれど、今現在の私はとても幸せなのだと客観的に見て思う。悩みは尽きないままだけれど、胸は張れるはずなのだと。
だって、グレイシーは綺麗だと毎日見つめていたくなるし、その一族が私を胡散臭そうに眺めてきても一族の恩恵を与えてはくれている。
現在の仕事だってグレイシーが身元引受人になってくれたからこそだった。
何よりも、海外で生活して私は「同性愛者? ならこうでなくちゃ」だとかの意見に惑わされたり傷ついたりすることも、「女性と居ると身構えてしまう。だからといって男性と居ると楽でもない」──説明の難しい気持ちをどうにか噛み砕いて、他者が居る日常でどうにか生きるという感覚がない。
ずっと何者かになりたかった。
ずっと村井 晴渡という存在を認めてほしかった。
ずっとあるその想いがコンパクトになった気がする。
でも──満たされないというか現在で良いのだろうか? グレイシーに甘えているような状況で、焦燥感が募っていく。
いつか飽きられる可能性が膨らんでいく。
そう思っている自分が居る。
どうしてだか、姉との会話で自分のコンプレックスと弱さを見つけてしまった。
グレイシーは本当は落としどころを探しているのではないだろうか。
その考えを後押しするかのように、グレイシーの帰りはまちまちだ。
遅い時もあれば、早くに一旦帰宅してパーティだの会食会だのに出掛ける。その相伴に預かる時もあれば、欠席でも問題ない時もある。
二人の関係性がそうさせるわけでもなく、他の出席者もそうだからこそしている。
これが一族のしきたりに関連するものであれば、必ずや出席しなければならない。
一族での立場が弱い分、具合が悪いのであれば医療機関に出向いてまでも出席してきた。グレイシーとの喧嘩一位はそれでのことだった。
「自分を労わろうとしないのはなぜなの? ずっと父親と仕事してきたからってそれは言い訳だわ。反面教師にして、どうして今を生きないの?」
何度も何度も繰り返された言葉。擦り切れもせず、苛みもせずにただ厳しい優しさを向けられる。
反発と抵抗と諦め、そして苛立ちが次々と沸き起こり、どうにもならなくなる。自らの殻に籠ってしまいたくなるが、それは許されないことの方が多い。
一度だけ何も言わずに逃げで帰国しかけたことがあってから、グレイシーは少しだけその話題を避けていくようになった。
ただ、ただ、お互いの傷に消毒を振りかける行為だとしても向き合う方が健全なのかもしれない。
キッチンにある玄関ドア開錠サインが点ると、モニタに人が映し出された。
姉との会話からすでに五時間以上も物思いに浸っていたようだ。資料である本はページが繰られることもなく、またパソコンはスリープ状態に切り替わっていた。最近では珍しくなった、更新遅延を報告しなければならないかもしれないと苦笑する。
「嫌になるわ。会議に次ぐ、会議……果ては親族会議とか。兄と姉だけでやればいいのに」
そう言って書類鞄を手渡してきた彼女の瞳と表情を窺い見るようにして見つめるのはなんらおかしな行為ではないと思いたい。
「おかえり。なんかあったの?」
「あったのよ。二番目の兄さんが、ヨーロッパから逃げ出して来るかもしれないし、それに弟と妹が困ったことにそれぞれ入籍をしていたみたいなのよ」
デンジャラス。
お母さまはさぞや病室──設備を整えた別荘なのだが──を抜け出そうとするだろうし、一番上の兄姉はもう付き合いきれないとシャットダウンすると思う。だからグレイシーは頭を冷やしに帰宅したと思いたい。
「どうするの? 三人ともグレイシーに懐いてたでしょ」
私の言葉に顔から一切、表情を消した。
そのまま何事もなかったように少しだけ派手なネックレスを付けるために背中を向けた。無言で髪を上げて手伝いを促す姿は、いまだに胸を高鳴らせる。その姿にかつては、恋に落ちて愛への道のりを選択した思い出があったりもする。つけ終わると、ヨーロッパで付き合っていた頃によくしていたピアスに付け替えたグレイシーと鏡越しに目が合った。
「ハルこそ今日はどうだったの?」
逸らされることもなく、何処か揺らめく瞳は、まるで姉との会話のことを聞いているかのような口ぶりだった。質問には答えないが会話を打ち切ることは許さないと滲ませていた。こうなると私が答えてからの成り行きをみるしかないだろう。
「一回帰って来いって。たぶん、預けている本だとか売れないし処分に困る類の──」
「どうするの? 今年中には無理よ」
皆まで言わずに打ち切られ、口調にも言い切る言葉にも不機嫌さが溢れている。
「それは言った。申請は出すけどって」
「あたしは書かないですからね。それに──付き添いも」
グレイシーは荒々しく挨拶のキスをして親族会議に行った。定期的にメンテナンスに出されて大事にされているピアスを揺らしながら。その背中からも不機嫌さを示していることから、今日の親族会議では誰もがグレイシーにはねのけられるだろうことが容易に見て取れる。
申請書に自国の緊急連絡者及び法的パートナーのサインがないということは受理が遅れるか、もしくは不決裁されることは間違いないだろう。姉になんと言おうか。それもまた、頭が痛くなる問題である。