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思い出は少々痛みを、現在は情に縋っているだけなのか

 働くということは、それだけ自らの精神を整えさせ、己の行動がわずかな人々だとしても波紋を広げさせるに充分な力があることを理解していくこと。

 そう思っていれば、短絡的な口論が減っていたかもしれない。それは今だからこそ、感じる結果論のようなもの。

 真剣に打ち込める仕事を見つけることは能動的にならないといけないと少ない社会人生活で学んでいた。

 そうだとしても、身内という存在だといくら上司といえども何かがぽろぽろと剥がれていく音が聞きやすくなるもの。



「なんでもっとやらんねん。甘えん坊のままか? 遅刻って、寝る時間あるやろ?」


 父親は身内だから甘くなるタイプではなかったし、それを期待していたわけではなかった。

 純粋にその背中から学べるものを期待していた。

 いや、褒められたい一心だった。

 ただ、それだけだった。

 だとしても、どんな気持ちにも限界がやってくるものだ。

 今が何時なのか──夕陽が世界を染めていくのか、それとも朝陽が上っていく途中の厳かな瞬間なのか分からなくなったある日、遅刻をした。

 着の身着のままで駆け込んだ事務所で、父親はさきほどの言葉を投げてきた。どんよりとした何かが心を覆っていく。


「帰ってからやることありますし。誰かがご飯作って置いておいてくれるわけちゃうし」


 頬裏を噛んでなかったら、泣いていたかもしれない。

 じわりじわりと悔しさが湧いて出てくる。遅刻への謝罪も忘れてしまい、ここのところ夜勤明けの夕方勤務が何度も続いて涙腺がすぐに決壊する寸前だった。


「どうでもええわッ。そんなんやから下に見られてまうねん」


 深呼吸を大きく一度する。続いて二度、してから答えないまま制服に着替えて売り場に出た。咎めもせずにキーボードを乱暴に叩く音がするだけ。

 気持ちを切り替えて売り場に出て、一通りの状況を確認する。

 品物が切れていないか、不審な動きをする客が居ないか、またそれをしてから一旦店を出た人間が後から回収に来るために品物をあり得ない場所に置いていないかどうか。それをしてからレジに行こうとした時、また一つ何かが折れる音を聞いた。

 苦心しながらも自分なりに見やすく、目に付く売り場を作成したコーナーが一部を除いて様変わりしていた。


「ああ、新商品だけは目立つからそのままやけど。ほかはごちゃごちゃした方がええやろし変えといたで」


 赤の他人でただの上司だったら、価値観や基準の違いで内心毒づくだけで終わる。そこに血の繋がりという切っても切り離せない関係があると頭の回転は鈍くなり、どす黒い感情が支配しようと躍起になる。折れた心の一部を補強してくるそのどす黒い感情は、粘り気があってまとわりついて容易に剥がせない。剥がせば、それだけでまた血が流れて痛みが伴って……嗚咽を漏らしてしまう。




× × ×



 いまさらホームシックというわけでもない。

 でも、どうしてだか古傷が痛むごとくで思い出してしまう記憶。

 そこにずぶずぶと引きずり込まれているとグレイシーが帰ってきていたようだった。グレイシーではなかったら、命の保証はないけれど。

 クラッチバッグを投げ捨てるようにソファに置いたグレイシーの背中はいかにも怒りを貼りつかせていた。

 今日は仕事関連の夕食会があると朝、言っていたので何かがあったのだろう。声を掛けない方が楽だが、それもまた諍いの種になることをここ数年で学んでいる。


「水、飲む? それとも違うのがいい?」


 違った言語、それも新発見された言語を口にした人間を見るかのような目で見てくる。その顔に水でもかけてみたくなる。

 そうすれば、たぶん、きっとすっきりとすると思う。

 ただ、噴火したものはすべてを呑み込んでいくだろうけれど。いまだにグレイシーの性格だとか気質を理解できない。グレイシーの親族に関してだと大体は把握してきたというのに。


「いらないわ。ありがとう」


 観察するような視線だったが、ついに興味を失せたようで最後の情けも掛けないまま着替えに行った。

 どこもかしこもグレイシーの私物があるから、どこでも着替えられる。そんなところが目に付くのか、グレイシーの娘であるエイヴィリーはよく小言を言う。

 だから言って、同盟を組んでもらえるような良好さはなく、私はただ同じ列車に乗り合わせた異教徒でしかない。


 グレイシーが消えた部屋の入口をぼんやりと眺めていると、この国で生活していることが夢ではないのだろうか。

 そもそも、グレイシーはどうして私と一緒に居るのだろうか。

 お互いに、何を得て失って、それでも静かに突き動かされる衝動に抗うこともできないほどの正体不明の感情をいまだに手にしているのだろうか。

 確実に言えることは、私はグレイシーが微笑む瞬間にうっすらと瞳が煌めくのが好きだし、ずっとその瞬間を記憶し続けたい。

 命尽き果てるまで、思い出していたい。叶うのであれば、その瞳と顔を見つめて永眠の旅に出たいとも思う。


 でも、悲しいことに私にはそれを願うしかできない。努力をしようにも、どうすれば良いのか分からない有様だった。

 この国に来て三年になった。来たころよりも話せるようになったし、専門的なものも増えた。生まれつき社交的でないせいで、ちょっとした書き物の仕事以外の人間関係は増えないけれど、苦にもならない。

 でも、グレイシーとの関係がぐらぐらとしていることが悩みでもある。



「ハロー、ハニー、ハリー、ハルゥ。どうしたの? 氷の塊を落としたシロクマみたいな顔して」


 ゆったりした大学トレーナーにアジアンボトムス──アジアイメージをでたらめに取り入れた逸品──でグレイシーが心配そうにのぞき込んでくる。

 帰宅早々の刺々しさは和らいでいた。それこそ人が変わったようなものだ。対岸では嵐、いつこちらに向かってくるかは分からない。母親に小言を言うエイヴィリーはグレイシーの性格や気質を完全に引き継いでいるといつも思う。


「グレイシーが微笑む瞬間の瞳がいっとう好きだなって考えてた」


 つたない言葉はグレイシーという嵐を停滞させ、綺麗な虹を見せることに成功した。キスの嵐と情熱の炎に変わりはしたけれど。


「ハルが傍に居ると満たされる。でも、もっと満たされたくなる」


 そう言ってグレイシーは深くキスをしてくる。それに答えるために顔の位置をずらす時、深緑の瞳が怖いくらいに綺麗すぎると思った。

 だから、だから揺らいでいても縋っていたいのだ。



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