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ひとりが動くと周囲もつられるかのように動き出す

今話もグレイシー視点がございます。

 翌朝、姉とは顔を合わせないままだった。

 ダイニングテーブルには朝食が置かれていて、姉の頑な心とやさしさが見えた。



「ハルちゃん、おはよう。それたべてね」


 姉の夫が眉間に皺が深くなったものの、変わらない優しい表情で教えてくれた。


「おはようございます。頂きます」


 朝にこんな時間があるのかというくらい、姉の夫はのんびりと朝食を摂っていた。

 仕事柄、タブレットを手放せないせいなのか、それとも新聞を読んでいるのか画面から顔を上げないけれど。時たま毒づく声が小さく聞こえる。


「ニッポンが、どうやら同盟条約にサインしたようだ」


 先ほどまでニッポンのイントネーションだったのに、姉の夫は昔ながらの発音に変わった。私が何かを言うことは期待していないのか、そのまま無言でスクロールする指を止めもせず、顔も上げないままだった。


「義兄さん、少しの間でしたけどお世話になりました」


 同盟国条約にサインしたという単語に反応しないのは、世捨て人ぐらいだ。いや、世捨て人でも憂いを顔に覗かせるだろう。


「よしてくれ。ハルちゃん、ニンゲンカンケイはそうかもしれない。でもね、ヒトとヒトはチガウはずだよ。ぼくは愛した人の妹だからこそ、このサインがあっても……」


 言葉は続かなかった。だって、仕方がないことだからだ。私はÐ国の人間になることを決めた。宣誓書の名前を書いた瞬間から、何があろうとも祖国は祖国になった。


「それよりも……ユカリに言ったそうだね。同性を選んだことを反対したんだろうって」


 告げ口された日の気分がよみがえる。特に、その場には居たけれど実行犯ではなかったのに、さも実行犯のようにされた日の気分。


「ええ、言いました。私は私を愛した人を、ともに育ったユカ姉に居ない人も同然にしてほしくなかったから。嫌悪が出たって、別にええ。拒絶してもええ。でも、聞いていないふりや見えないふり、は、いややってん」


 やっぱり泣き虫はこんな時も泣き虫でしかない。姉の夫はただ、話をそのまま聞いてくれていた。それでも時間は過ぎる。


 姉の夫が出勤の時間になる前に、複雑な顔をして背を向けた。

 それでもちいさな声で、

「ユカリは認めたくないんじゃなんだよ。誤解しないであげて。ただ、心配なだけなんだ。態度はあれだけど、彼女は君を妹だから、妹だからこそ、手を伸ばしても届かない場所にいることが悔しいんだよ」



× × ×



 グレイシーは実家での夕食会に参加していた。

 とりとめのない話、噂話……それをはじめて聞いたときに、ハルが目を真ん丸にして驚いていたのを思い出す。


「上流階級の人も、道で喋っている人たちとおんなしなんだと思って」


 はにかみながら答えたハルはどうしても年上に思えなかった。

 そもそも歳はいつだって関係ないし、自分が経験してこなかったことがあっても二度、学べると思った。

 特に惹かれたところはなんにでも目を向けようと目を凝らすことだった。

 ちいさなところにも目を向けていて、関心をしたことが何度もあった。気が付けば巻き込まれていることもあった。


 たとえば、旅行中に何度も足を運んでいる図書館があると聞けば、ただ連れて行ってくれとは言わずにもっともっと話を聞こうとしてくる。

 昔読んだ本の話になっても、お互いに覚えている内容が違っていて、戸惑った。

 前後は翻訳だとかの関係に言い回しだとかが違っても誤差の範囲なのに、そこだけが違っていてただ困惑するしかなかった。

 グレイシーは落ち着かなさを覚えて、じゃあ行って確かめましょう、となったのだった。 


 結局、言語の関係上の問題だったとハルが声を上げたのだ。

 巡回員に咎める視線を受けた二人は、くすくすと笑い合った。

 その日、夕食を一緒に囲んだ。ハルは使える語彙が少ないし、何度も聞き直されたりされても嫌な気はまったくしなかった。

 静かに夜は深くなっていき、彼女の目を借りて風景を見たいと思った。

 恋愛を今回の旅で求めてはいなかった。一つの区切りをつけるためのものだった。

 それでも人は勝手に引き寄せられてしまう。どうしようもないほどに。



 その思い出があるというのに、目に付く知識の無さに苛立つときが増えてきたのはいつだったのだろうか。


「会いたいの? ママ」


 エイヴィリーの声に飛びあがりかける。

 近くに座っていたグレイシーの母親が目ざとく視線を向けた。財閥関係からは引退したものの、完全には隠退を表明していない母親とは私生活では反りが合わないことを露呈しないようにしてきた。

 その母親に聞こえるようにエイヴィリーはわざと聞いたことに子どもの成長スピードを実感させられた。


「エイヴィ、もう少し小さな声でも聞こえるのよ。隣なんですから」


 言い聞かせるように、その話題が勝手に遠くに行ってくれるようにと念じながら。


「昨日、たくさんおしゃべりしてたじゃない。お蔭で眠れなかったわ」


 ここでも成長スピードを感じる。

 今日が夕食会だということと、ハルが居ないことでお泊りにやって来た二人の愛しい子どもたち。

 その二人が寝静まったからこそ掛けた電話。


 行き違いにならずに、ニコラスやメッセージを介さずに交わされた言葉の数々に舞い上がったのだ。

 まるで高校生のようにだらだらと喋った。

 ハルから聞かされるニッポンの変化とぽっかりと感じた寂しさ。それでもグレイシーの傍に居たいと照れながら言われたこと。歯切れの悪さが特に思春期に戻ったようにも思えた。

 ハルの祖母の話になってしまうと涙声のまま、二人の思い出話をニッポン語になったりしながら話していた。それでも伝えたいことはすっと入ってきた。

 彼女の味方が一人、心の中だけにしか会えなくなったのだと。自分に何ができるのかを再確認した。



「逃げたくないから言うわ。ハル・ムライが心から尊敬していたお祖母様がお亡くなりになられたの」


 一旦、言葉を切って室内に居る全員──今日はハル以外欠けることなく居る。次兄も弟も妹も──を見渡した。

 ニコラスの義父にあたる叔父とニコラスが同時に頷いた。まるで本当の親子のようだった。


「わたしは心からお悔やみをムライ家に伝えたい。ハルから聞かされる逸話には、スペランツァ一族が忘れつつあるもののあるはず。今後も再確認するには偲び人になったことが残念で堪りません。

わたしが小さな虚勢で、ムライ家にハルを送り出すことを歓迎されていないからと言って、後回しにしてきたものだから」


 ぐっとこみ上げてくる涙は流したくないとグレイシーは思った。被害者気どりはしたくない。

 ハルに反対されていると、特に姉からと言われたときに、ハル自身の心のちいさな部分を隅に追いやらせたのは自分なのだ。


「だから──わたしは今後、ハルにできる限りの応援を惜しまないわ。エイヴィ?」


 突然の話題の中で名前を呼ばれたことでびっくりしたエイヴィリーは返事もそこそこに借りてきた猫の様子だった。


「あなたがハルを好きになれないのは仕方ないわ。人間同士、相性があるから。でもね? あんまりひどくなったら、娘でも許さないと言うわ。それは一族のみなさんにも言っておきますからね」


 全員が驚きから声を出せないようだった。仕事中のグレイシーがこういった態度に出るのはいつも目にしているが、一族では仲裁役だった。そんな彼女が、そう本気を出したのだ。


「まあ! グレイシーったら」


 グレイシーの母親は声を上げて笑った。つられて笑いを見せる人も出てきたし、冗談を口にしようとした人も居た。それも黙らせるように実質の女帝は続きを口にした。


「それでこそ! スペランツァの女よ! さあ、もっとハルのこととそのお祖母さまのことを教えてちょうだい。いつ帰ってくるのかしら」


 油の切れたゼンマイ人形の動きをしていた人々の顔をグレイシーは頭の片隅に書き留めて母親の所望する話をした。

 ニコラス親子はそのグレイシーの顔が久しぶりに見る表情だと安堵した。その顔を見つめるニコラスに義父はそっと肩に手を回した。



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