重ね合った問題、動けないなら言葉で──たとえ傷つけても
ニッポン──日本では姉の暮らすマンションで寝起きをしていた。
一応、Ð国に届け出る際、姉の住所と連絡先を記入していたし、押さえていたホテルに一旦、滞在したから違反ではないはずだ。大使館にも連絡は入れたし問題はない。
一番の問題は、姉にどうÐ国に戻ることを話すかだ。
悲しみがひとつ、増えた背中。
医療法にはカウンセリングでの緩和も休暇にあり、目に見える痛みは今後も対処されるだろう。
姉の夫も仕事に行っても強制的に半日出勤になっている。長くて六時間しか労働できない──それでも彼はシステムの長で、今日みたいに長く出てしまうこともある。
補佐の一人が第二子誕生というビッグイベントを迎えたのだ。死があれば、生がある。私たちは隣人を持つことで様々な生と死を経験していく。
キッチンからは季節外れすぎる酒かすをふんだんに使ったかす汁の匂いが漂ってきている。何年も口にしていない。嫌いではないし、嫌いどころか大好物でアルコールには弱いのに、お代わりを何杯もした過去がある。
それに昔、飼っていた犬も人間の食材をアレンジして出していた。
祖母は何を思ったのか、母親が作ったかす汁を薄めて与えた。
私の母親が作る料理の中で唯一、手放しで褒めた一品だからと。
だが、犬は臭いだけで盛大に嫌そうな顔をした。だとしても、今日の食事はこれ以外にないと知っている犬は頑張って口にしようとした。
私は代替案で冷ご飯に犬も食べられる祖母手製のふりかけをかけて差し出した。
安堵の雰囲気を醸し出したから、かす汁の器を取ろうとしたら、犬は本能から唸った。
同列の動物に手にしたものを奪われないように威嚇したのだろう。
だけれど、私には恐怖の瞬間だった。泣きわめき、お気に入りだったズボンを濡らしていた。
「なに泣いてんの? ああ、晴渡。あかんの、すぐに引っ込めたら。見向きもせんくなる翌日に器を下げんと。あんたもちょっとだけ飲んだ飲み物、すぐに下げられたらイヤでしょう?」
そう言って母親は抱きしめてくれた。
祖母が一番安らぎをくれていたけれど、母親も懸命に優しさと愛情を与えてくれていた。ただ、求めるものと与えられるものが大きく違っていただけだと私は思っている。
「あの人が作るかす汁、どう頑張っても再現できないのよ。色々なメーカーのものを取り寄せたりもしたけど」
悔しさと僅かに見え隠れする姉の本心。それすらも覆い隠そうとする拒否反応──自分はこれからも理解できない人間のことを考える余地はないのだと。
「何年か前に、保護センターから連絡あったよね」
ぽつりとこぼしてしまった言葉は、室内を充満してしまった。季節外れの村井家だけのかす汁がすべてを引き寄せる。
「十何年前。市役所からの電話と郵便物でね」
何でもないことのように、季節外れの台風で大騒ぎした思い出を語るみたいに姉は返してきた。恐る恐るダイニングテーブルに移動して様子を窺う。
「無理ですって、私の経済状況では無理ですって。離婚した時に、祖母たちと話し合って関わりませんって言う約束したって」
「それだけのことをした人やもの。それ以降、関わっていないよね?」
姉はこちらを見ようともしない。ほんとうは知っていると薄々感じている。姉は私が一度だけ母親に連絡を入れたこと。短期間だけでも何度も行き来があったことを。
「うん。お姉ちゃんとこにも連絡ないやろ?」
「ないよ。あっても無視するし」
先ほどから振り向こうともしない。顔が見える動作も体勢が変になろうとも、こちらを向こうともしない。
「そっか」
私も上辺だけの安堵を漏らす。そこまで洗いを必要としていないのに姉は大げさな仕草で洗いものをしだした。悲しみが震えることを誤魔化すように。
× × ×
母親が保護センターに収容される数年前に、連絡を取ったことがあった。まだ、二十代半ばのころ。いや、二十代後半だったかもしれない。
母、恋しさ。
それだけと小さな望み。
「晴渡! ここ!」
数年ぶり、それも両手を使うほどの歳月を経て再会する母親は、記憶とは違うものの皮っていなかった。
「おかあ、さん。久しぶり」
「あんた、痩せたんね。ええ恋してるか?」
昔から性知識などをオブラートに包むことなく話してきた母親は、再会というイベントだとしても気にすることなく恋愛を聞き出そうとする。姉はそんな母親が好きじゃなかった。
「最近、失恋した」
「こんなに人間がおんねんから、またええ出会いあるって。お母さんみたいによく知りもせん男に引っかかってもうたらあかんのよ」
私は苦笑いだけに留めた。もし、母親に性対象が同性だと伝えたらどうなるのだろうか? それを頭の隅で悩ませていた。
「久しぶりに晴渡に会うから、お母さん奮発しようと思うの。なんでも言って? どこで食べたい? なに食べたい?」
着る物に、昔からこだわりがない母親は、現在の生活がどうなのかはそこからは見えなかった。だけれど、どうしてだか回らない寿司だとかシェフが焼いてくれるお肉を強請れなかった。
「ああ……お肉も食べたいし、達人寿司も食べたい気分」
「ええねえ! どっちもしよう! 食い倒れよ!」
スっカンピンになっても気にしない母親は乗り気だった。私も財布をあっためて来てはいたけれど、出させはしない親心を持った母親に一つの提案をする。
「最近、ステーキ屋が結構安くて美味しいらしいねん。そこでお昼は食べて、夜は達人寿司にしよ」
途端に喜色満面になった母親を見て、これが親孝行だと嬉しくなった。その日から罪の意識と後ろめたさが増えていった。
「お母さん! なんでまたお金借りたん! あんなに約束したやん!」
母親はギャンブル依存症だった。
寂しさが、興奮と勝つ時の予感、快感に置き換えられた。
いつギャンブルに依存したのかはわからない。分かりようもなかった。離婚した要因になっているのかすらも知らない。
私が高校を卒業した時に離婚した。卒業祝いには両親が揃うこともなかったし、祖父母と姉以外が食卓に囲むこともなかった。
「生活していかなあかんのよ? お母さんだって」
「仕事してるやん! なんでその範囲でご飯食べて、ちょっと遊びができひんの!?」
「もうええわ。あんたなんか知らんわ。孫も抱かせてくれへんし」
かっと頭に血が上る。
母親にそれとなく伝えた恋愛対象の話を持ち出されたから。ギャンブル依存症だって認めたくない私は理解できない行動をひたすらに咎めた。
お互いに認めたくないことだったのだ、本当は。
それが最後の日の記憶。母親を見た最後の記憶だった。
それから問答無用で着信拒否設定を利用して、何もなかったことにした。
私はつついた藪ばかりを増やして生きているな、と苦笑した。
「どうしたの?」
姉の声に顔に出ていた気まずさがあった。
「私な、お姉ちゃんがどう思っててもグレイシーとずっと歩んでいきたいねん。
お姉ちゃんは前に、一般人と幸せになってほしいって言うてたけどな? 私はグレイシーがええねん。
それにな……きちんと聞いてな? 一般人だとしたグレイシーでも反対はしたやろ?」
姉は半ば睨むように、挑むように見つめてくる。それも一瞬で何事もなかったように食事を高速で再開し、寝室に逃げ込んだ。
生きているとどうにもならない人間関係の問題を解決もできないまま、重ねていくしかないのかと寂しくなった。縋りたくなる、グレイシーに。でも、だからこそ言葉で動いておかないと決めたのだ。




