最大最高の幸福
視覚と聴覚それと臭覚に、若い女とだけしか判明していない者の記憶をねじ込まれ支配されながら、事実 今 胸を縛り付けられる感覚を確かに感じていた。
支配される前の目は、棒状の物体である人間の腕の骨が撚り合った縄、という実際にはあり得無い形で それを捉えていたが、今胸を縛り付けている感覚は、肉に覆われ血の通う温もりのある人の腕である。
その腕が断続的にぐいぐいと締め付けるのは、その先に繋がるリッカを引き寄せてくれているとの確信があるが故、アキヨリは見せられ聞かされる事柄に没頭し、それらに対する疑問にも没頭していた。
「女の指も六本、赤ん坊の指も六本、かつてこのアキ国に住まいし民は六本の指を持っていたと言うのか?
さっきの集落に住む者を一例に並べ確かめてみたいが、他人の記憶にあるはずも無いし、女が あのあばら家に住むならば、集落の者達との関わりは希薄であると断ずるべきだ。
これから見聞きするものに答えを期待するべきではなかろうし、女が伝えたがっている事の本筋に沿うものではなかろうよ。
ん?そうでも無いようだな。」
もっとくっつけと要求する赤ん坊の手を女の指がつまんだ。
つまんで 驚いた様に離れ、すぐまたつまんだ女の指は赤ん坊の指を親指から確かめる様に、数える様につまんで行った。
驚いた様に離れたのは赤ん坊の指が思ったより 柔らかく、握りつぶしてしまったかと焦ったのだろうかと、アキヨリは生まれたばかりのハルナの手に、同じ事としたと思い出していた。
すると女の指が六を数え終えたかと思うと、突如 高く掲げられた赤ん坊を中心に、夾竹桃、泉、雑木林、などなどか ぐるぐると回り混ざり合った。
赤ん坊を包んでいた夾竹桃の花が、女の笑い声と戯れる様に舞った。
夾竹桃の産着が消え赤ん坊は女児だった。
「おぅえ!喜んでおるのだ。
俺もやった、ハルナが生まれたのが嬉しくて、両手で掲げて回った回った!
おぅえ!ところがすぐ様 兄者に取り上げられて、躓いたならどうするつもりだと 張り倒された。
つまりだ、兄者との逸話などは関係無く、扱いに不慣れな赤ん坊を掲げて回るなど、通常あり得ぬ余程の喜びだと言う事だ。
それが指を数え終えた直後ならば、指六本は通常あり得ぬ 女にとって喜ばしい事となる。
おぅえ!どれ程 時を遡るかは知らぬが、この時代のアキ国の民は今と変わらぬ、通常指五本であると推察されるな。
おぅえ!自分が回る自覚無しに、見ている物が回ると頭が揺れる!
おぅえ!気持ち悪い!おぅえ?!」
回る景色の中に 思いがけないものを目にしたアキヨリは、それに注視しようと思わずドーマンの術を使った。
しかしドーマンの術は あらゆるものに宿る八百万の魂を見る術であり、過去を見る術では無い、今 身の回りで逆巻く水の流れだけを見るに至り、すぐに術を引っ込め回る過去の景色に戻った。
「おぅえ!止まってくれ!自分では止められぬと思うと余計に吐き気が増す!」
おんぎゃあ!おんぎゃあ!おんぎゃあ!
生まれたての赤ん坊には高い高いは早すぎた、女は回るのを止め慌てて赤ん坊を胸に引き寄せ頬を寄せた様だ。
「でかした赤ん坊!ああ…何たる事だ…」
アキヨリは望んでいたものを目にしながら絶句した。
何を望んでいたかと言うならば、回る景色に時折 映る泉の水鏡であり、赤ん坊を抱きしめ止まった景色は泉の水鏡で止まり、揺れる女と赤ん坊を映していた。
「病か?いや、焼かれただれたのだろう…」
女の顔の右半分が、過去に重度の火傷に見舞われたのだろう、額から頬にかけ瘢痕に覆われていたのだ。
「若い女が気の毒に…人目を恐れた素振りを見せたのも、恐らく人里離れて暮らすであろう事も、これが元であるのであろう。」
女は自分の顔を見るのが嫌なのだろう、泉から逃げる様に視線を外し、代わりに視界の中心に据えられた、傾くあばら家が揺れながら近付いて来た。
「やはりあの家は女の住む家だったか。
赤ん坊をあやしながら歩んでおるのだな。
ん?軒下にぶら下がるあれは干し肉か?
女が一人で獣を仕留められるとは思えぬ。
誰ぞ共に暮らす者があるか?」
入り口に下がるムシロを潜ると家の中に同居人の姿は無かった。
代わりに糸を紡ぐ車と簡素な機織り機が、家の主人の様な顔をして居座っていた。
家の主人に追いやられる様に、こじんまりとした石を組んだ原始的な囲炉裏もあり、傍には栃の実やら栗などの木の実も転がっている。
「着る物、住む家、食う物には困ってはいない様だな。」
一先ずの安心に一息付くと、一つの発見が遅れてやって来た。
「そう言えば さっき泉に映っていた女の服、形も白地に紺色の唐草に似た模様も、ニリカ様やエゾの御老体の服に良く似ていた。
ニリカ様のイズモの国と同じ文化がアキ国にもあり、イズモはヤマトに打ち滅ぼされた事を考慮するなら、この文化を持った民が遠い北の国エゾえと逃れて行ったと考えるべきだろう。
そう考えるなら、ここはニリカ様の時代とほぼ同じか、それより以前と断定出来るな。」
トゥルルルルルルルルルルルルルルルル…
独り合点に頷いていると 舌を転がし鳴らす例の調子が聞こえて来た。
女は囲炉裏の前に座り、中々泣き止まない赤ん坊に子守唄を歌った。
おんぎゃあ!おんぎゃあ!おんぎゃあ!
しかし赤ん坊は泣き止まない。腹が減っているのかと傍らの木の実に手を伸ばすが、歯の生えていない赤ん坊に、最も与えてはならない物の一つだろう。
女の手は迷いに迷った末に、追い詰められた様に服の胸元をはだけ、左の乳房を取り出して赤ん坊の口に押し当てた。
赤ん坊は口に含み泣き止んだ。
図らずも女性の秘するべき部位を目の当たりにしたアキヨリは、反射的に眉間を抑え、痛みが来ない事に安堵し、赤ん坊の安らかな顔と喉の動きにも重ねて安堵した。
「乳が出ておるのだな。
子を身籠りながら亡くしてしまったのか?
いや、人里離れて暮らしている上に、赤ん坊を扱う不慣れな手つき、家の中には産着など赤ん坊に必要な物も見当たらぬ。
赤ん坊を欲するがあまり、子を身籠った様な体になる事もあると言う。
どれ程の想いだろうか、先程の喜び様を見たなら考えるまでも無い。
過去の事とは言え、許されぬ事とは言え、実の親が現れぬ事を願って止まぬ。」
チーコロポポー
ウチーキシーワー
コーライヤンテーペークー
トゥルルルルルル
子守唄が暖かかった。
薄暗いあばら家に仄かな灯りが灯された様だった。
赤ん坊は乳をよく飲みよく笑った。
機織り機は産着を紡ぎ赤ん坊によく似合った。
赤ん坊は笑った。
這う様になり よく笑った。
立つ様になり、歩む様になり、狭いあばら家を走り回ってよく笑った。
チーコロポポー
ウチーキシーワー
コーライヤンテーペークー
トゥルルルルルル
子守唄を聞いてよく眠った。
赤毛の癖っ毛が指を咥えて女の腕の中で寝息を立てていた。
ささやかな幸せであり、この世で最大最高の幸福の節目節目を目の当たりにし、
アキヨリの胸にはトウカの成長の節目節目をリッカに見せてやろうと七転八倒した日々が思い起こされた。
最早 この母子に完全に心を重ね合わせてしまいつつあるアキヨリだったが完全では無かった。
一つの疑念が胸に引っかかっているのだ。
「赤い髪、子守唄、目元の面影…」
引っかかる疑念に囚われながらも節目節目は続いて行く。
自生しているのか栽培しているのか、群生する麻を刈り取り泉で洗い、やけに早く沸騰する鍋で煮て糸車に麻糸を紡ぐ。
その間母子は歌いながらよく笑った。
アキヨリの疑念が一つ増えた。
二人で山に分け入り木の実を拾っていたところ猪の群れに遭遇した。
一際大きな猪が群れを守る為なのだろう、母子に向かい突進して来た。
母の後ろに隠れ しがみ付いて震える娘だったが、猪は突如倒れ生き絶えた。
獣毛の焦げる匂いがする。
アキヨリの疑念が一段階上昇した。
女はよく切れる小刀を一つ持っていて、猪を解体する手際も良く、切り身を囲炉裏で焼き、食べきれない分は軒下に吊るされ干し肉になった。
切り身は異常な早さで焼け、干し肉として吊るされた切り身にも火の通った痕跡があった。
「もしや この女 多々良の守人?!」
そう呟く鼻を掠めくすぐる こそばゆさがあった。
「この赤ちゃんのお母さんはこの人だけ、一人だけ。
本当のお母さんはこの人だけ。」
何者かの一周遅れの回答を過去の感触では無いと直感したアキヨリは、膝を擦りむいた娘の傷口に手をあてがい、瞬く間に治した節目に名残惜しくも、ドーマンの術を使い現実に目を戻した。
一匹のオニヤンマが、鼻先やら耳元やらに纏わり付いて飛んでいた。
既に逆巻く水の水面はアキヨリの腰の辺りにまで水位を下げていた。
「ニリカ様の御家臣か?!それともその力を借りた何方かか?!」
季節外れのオニヤンマはオオクニヌシ ニリカの家臣達が姿を変えた冥府の使者である。
過去にはタキがその力を借り、死して尚アキヨリの窮地を救った。
もう二度と会えない顔を一つ一つ胸に蘇らせ、アキヨリの問いには希望や期待の類いが混じり込んでいた。
「そうです この方は多々良の守人です。
しかし あなたの様に戦士として生きた方では無く、シャーマンとして生きようと願いながら叶わなかった方なのです。」
「シャーマン?!」
おうむ返しの問いには一周遅れが返って来た。
「ついでを言うなら あの女の子にも多々良の守人としての素養が強く備わっていました。」
「シャーマン?!ニリカ様の様に星を読み神託を告げる巫女と言う事なのか?!」
噛み合わぬやり取りにアキヨリは、そのまま受け取り勝手に解釈する腹積もりを決め込んだ。




