愛宕山の山桜
「一体何を聞かせてようと言うのか?」
そう呟く視線は真上から揺れる水面越しに見つめる涼やかな眼差し。
視力を取り戻したヨシツネは、何やら騒ぎ始めたアキヨリの元へ駆け寄った。
そして駆け寄りはしたが、突如 池に沈み始めたアキヨリの腰帯を掴みはぐった。
その手持ち無沙汰な「何を聞かせようと」だった。
「池に沈みし髑髏供は、我の分身を解き放ち利用しようと目論んだ、有象無象供の成れの果てだと思っていたが、それに限らぬ者もいたと言う事か?何者だ?」
思案顔にはアキヨリとリッカの様子は事細かには見えてはいない。
あんたには関係無いよ、じろじろ見ないで下さいよ、と言った様にアキヨリとリッカが揺らめきを強めているのでは無いかと、可笑しな勘繰りが頭を過る。
四百年 生きても可愛げな独り合点を失わないのは既に人徳である。
人格者は足元に違和感を感じた。
「これは?!水がどこぞに流れておるのか?!」
アキヨリとリッカに及んだ変化は当然 水面にも現れた。
物が沈むのを拒む水面はそのままに、結果としてはヨシツネの足元、元を辿ればアキヨリが沈んで行ったこの一点を中心に、池はすり鉢状にへこみ始めた。
「う、う…大事無いか?!」
いわゆる奥歯に物が挟まった物言いは、大鳥居の方へと走り去るアクヤに向かったものである。
無論その文言は本意では無い。ヨシツネが本当に言いたかったのは。
「アキヨリの馬よ、この坂を登られるか?!」
である。
では何故そう言わなかったか。
何故ならば、ついさっき 未だ思うままに動けないジョアンと、ハルナをその背に乗せ。
「馬よ、この二人を頼んだぞ。
抜け目の無いアキヨリの事だ、地上に逃がす手立てはあるのだろう。
この先アキヨリとの取り決めがあるやも知れぬが、この一戦に限っては命が何より第一だ、良いな。」
と言ったところ、アクヤに睨まれたのである。
名を呼ばず 馬と呼んだのが理由であり、アクヤの気位の高さに由来する憤慨であるのは、ヨシツネの知性を以ってすれば容易に理解出来た。
しかしアクヤと発音するのはヨシツネにとって困難であり、登れるのかと言ったなら、また気位の高いアクヤの気分を害するだろうと言う細やかな配慮が、ヨシツネの奥歯に挟まっていた物だった。
アクヤの走力や突進力は短い間にも理解していた。
理解して尚 気掛かりになる急坂がヨシツネの目の前に出現していた。
池の水は急速に抜けて行っている。
しかしヨシツネの気掛かりをよそに、アクヤは氷の欠片を蹴立て、荒げる鼻息を隠しながら急坂の向こう側へ消えて行った。
となれば残るもう一つの気掛かりである、もう姿も見えなくなる程に沈んでしまったアキヨリとリッカであるが、ヨシツネは足元を一瞥するだけで すぐに顔を上に向けた。
「仔細なかろう、アキヨリは天に選ばれし勇者。
それに この役目はアキヨリのみによって成し遂げられるべきである。
我は我の成すべきを成すべし!
のう、そうであるのうシズカ達よ!」
そう言って見上げる先には、ヨシツネの分身がジョアンやアキヨリによって討ち倒される度に悲鳴を上げ、池を這って来たシズカの三人の分身が、腹這いになって急坂にしがみ付いていた。
「ヨシツネ様ぁ!お助け下さい!恐ろしゅうございます!恐ろしゅうございます!」
の三重奏にヨシツネは笑って両腕を広げた。
「何が恐ろしいか、このヨシツネの胸がここにあったなら、そんな所から飛び降りるなど、将棋盤の上から降りる様なものであろう!」
三人の顔がパッと明るく微笑み、震え強張った腕をあっけなく離し、萎えた足で力強く急斜面を蹴った。
「あははは、あははは、ヨシツネ様ぁ!あははは!」
少女の笑い声はふわりふわりと抜け落ちたリヨウの羽と戯れながら落ちる。
瘦せこけてしまっただけが理由では無いようだ。
ヨシツネは何かを堪えるように眉間を寄せ待ち構えた。
「お前達もよう耐えた。もう良い、もう良いのだ。
もう堪えずとも良い。苦しいのも悲しいのも、もう終わったのだ。」
軽く頷きながら、広げた両腕を軽く上から下に振り下ろしながら、言い聞かせるようなヨシツネの言葉に呼応しているのか、
その動作の一つ一つに合わせ、三人の体からアキヨリが放つ鱗粉の光と良く似た光が漏れ、一つ一つの光と共に三人の輪郭は朧さを増して行った。
ヨシツネは降り注ぐ鱗粉の光を、一つも逃さぬ勢いで前後左右に素早く足を運び、その胸に収めて行った。
「ヨシツネ様ぁ暖こうございます…ヨシツネ様ぁ…」
鱗粉の光は口々に弾む声で囁き消えて行った。
最後に着る者が居なくなった三つの花嫁衣装が、予測不能に前後左右に揺れながら舞い降りて来るが、残像を残す足運びでヨシツネは全て胸に収め落とす事は無かった。
「暖かいか、暖かいか、良かったのう、良かった良かった…」
ヨシツネはぎゅうぎゅうと花嫁衣装を抱きしめると、両肩と腹に結び、皮一枚を剥がした様な一新した表情でまた上を向いた。
その目には塔が映っていた。
素焼きの陶器を思わせる質感を見せる塔は、さっきまで濡れていたのか、幾筋もの雫をその身に走らせている。
その高さを言うならば、池の水が抜けて行った事によりヨシツネが下がって行った高さであり、太さは六角堂の敷地面積と完全に合致する。
つまり今は塔の様相を見せるが、それは池に浮かぶ六角堂の土台だった。
超人的な跳躍力を誇るヨシツネだが、三度飛び上がらなければ登頂出来ない高さである。
アクヤが蹴り破った観音扉は未だ閉じられてはいない。
「シズカァアアアアア!!」
三十路かと思われるヨシツネの声は甲高く若い。
しかし今の声はそれに留まらず、元服前の十四、五の少年の声だった。
開け放たれ扉には、その声にピクリと震える白い影があった。
白い影はすごすごと六角堂の中へと後ずさり消えて行くように見える。
「シ、ズ、カァアアアアアア!」
そんな事は御構い無しにヨシツネは、子供が遊び相手を誘う様に呼び掛けた。
仕方無さそうな声が後ずさるのを一時やめ応える。
「ヨシツネ様 急いで下さい。池の水はソヤカの仕業でございましょう。
ハルナのお仲間達の身に危機が迫っているに違いありません。
御助力して差し上げて下さいませ、ハルナは誠の心を私にくれました。
あの子が悲しむのは耐えられません、お急ぎ下さいヨシツネ様!」
ヨシツネは更に声を弾ませた。
「嫌だ!お前と一緒でなければ嫌なこった!
飛び降りろ!恐ろしいのか?我がお前を受け止め損なった事など今迄一度たりともあったか?さあ飛び降りろ!!」
シズカは思わず二、三歩 進み出て下を覗き込んだ。
「あ、ああああああ!」
そこには山桜が咲き乱れていた。
直垂姿の少年が両腕を広げ微笑んでいた。
都のはずれにあるアタゴ山の山桜である。
誰に揶揄われたかは忘れてしまったが、とにかく憤りに任せ桜の木に登ってしまった。
ゴツゴツとした老木の木肌は手足が良く引っかかり、登るに易かったが降りるに難かった。
都の街並みが遠望出来る程である、思いの外の良い景色に足がすくみ、幹にしがみ付いて震えた。
咲き乱れる山桜が馬鹿な娘と揶揄っている様に見えた。
怯えるな飛び降りろ、と声を掛けられた。
恐る恐る下を覗き込んだ。
その光景が広がっていた。
池の水に取り残された六角堂から見下ろした光景は、初めて会ったあの日あの時の光景そのものだった。
「恐ろしくなど御座いません!」
「恐ろしくなんかない!」
二人のシズカが叫んだ。
少女のシズカは単に意地を張っただけだが、今のシズカの心情を正確に言うならば、
「恐ろしいのは高さでは無い、もっと別の事です。」
ではあったが、どちらにしろ叫んだ直後に見舞われた事態は似たり寄ったりだった。
少女の頃のシズカは、重みに耐えられ無くなった老木の枝が折れ、
「何をぐずぐずしてんのさ!愛しい人に来いと言われたら行けばいいんだよ!」
今のシズカは黒い縄の姉様方に突き飛ばされ落ちた。
その後も似たり寄ったりだった。
少年のヨシツネは木の幹を蹴り飛び上がり、今のヨシツネは素焼きの塔を蹴って飛び上がって来る。
「うあ、ああああああああ!」
「きゃあああああああああ!」
少女のシズカは只 恐怖に悲鳴を上げ、今のシズカはもう一つの恐ろしさに呻く様に叫んだ。
その後は完全に一致する。
只々温もりと笑顔があった。
シズカはヨシツネの胸に抱かれて柔らかく降り立った。
二人のシズカは阿呆の様に惚けてヨシツネの顔を見上げている。
「あなたは誰?」
少女のシズカが問う。
「我が名はクロウ ヨシツネ。皆がシズカと申していた、そなたの名であるな。」
名乗る少年のヨシツネに今のシズカが問う。
「私がシズカに見えるのですか?こんな醜く変わっ!!」
今のヨシツネは今のシズカを力任せに抱きしめ、意味の無い問いを強制終了させた。
「シズカの他の誰に見えると?
恐ろしいのは我が方だ。
火の鳥を解き放ち人々を焼き殺したあの時も そうだった。
お前が居らなんだら この世は闇だ。
恐ろしくて恐ろしくて敵わん。
アキヨリの家臣達は我を古今無双の強者などと買い被っておる。
失望されたくは無い、だから側にいてくれ、お願いだ。」
シズカは兜の吹き返しに顔を突っ込んでヨシツネの頬を濡らし、やっと一言だけ告げられるだろう言葉を選びながら、結局は選びもせずに、
「はい。」
とだけ答えた。




