学校現場を離れて(2)
もし、磯辺が本当に死んでいたら、私はこの手紙を直視できなかっただろう。彼女が生きていると分かっていても、この手紙は一つ一つの言葉がとても重くのしかかるものであった。
偶然、助かったからよかったものの、これを書いた時、彼女は本気で死のうと考えた。そして、それを実行した。実際に死んでいたとしてもおかしくない。そう思うと泣けてくる。
たがが、一五歳の少女がここまで思い詰めるほど人を愛せるものなのかと、ただ驚かされる。その上、その対象が自分だと言うならなおさらである。
一五年前私はKが塾講師と恋に落ちた結果、大騒ぎとなり、講師は逮捕されたし、Kもそのショックから立ち直るのにずいぶん時間がかかった。もし、そうでなかったら、長期の引きこもりも、高校入学が一年遅れることもなかったはずだ。
一五年前の経験があったからこそ、私は磯辺からの好意をかたくななに拒んだのだ。禁じられた恋の先には破滅しかないと分かっていたからである。
それに私自身、一五歳の少女を恋愛対象として見ることができないし、こんなことで教職を失うのは馬鹿らしいと考えた。どう考えても、常識的な判断をしている。
しかし、その結果磯辺は思い詰めて自殺を図ってしまった。幸い、未遂で済んだからよかったものの、もし本当に死んでいたらどうなっていたことか…。
恋愛に限らず、何でもそうだと思うが、ある一つの経験から得た結論が、他の類似の体験にそのまま応用できることはほとんどないと思う。
三〇年生きてきた中で応用できたことも、それなりにあったが、それは運がよかっただけである。実際は応用できずに失敗したことの方が多い。
「馬鹿の一つ覚え」でうまくいくはずがない。世の中は何もかもが目まぐるしく変化し続けているのに、一つの経験から得たことを全てにそのまま当てはめていたのだから…。そのことに一人の人間を死の淵に追いやるまで気付けなかったのか…。
本当はもっと真剣に考えないといけなかった。常識とか過去の経験にとらわれることなく…。最も安全な落とし所を考える必要があったと思う。
今回のような運任せではいけない。もし、運が味方してなかったら、磯辺は間違いなくこの世にいなかったのだから。
できることなら、磯辺あおいと言う生徒と関わった一年をなかったことにしたぐらいだ。でも、過去を完全に消すことはできない。
せいぜい、黒塗りの教科書のように都合の悪い部分を塗りつぶすことぐらいしかできない。塗りつぶすことでかえって目立ってしまうとしても、向き合いたくないことと向き合わなくて済む分、楽である。
ただし、完全に消えたわけではないので、何かの拍子に浮かび上がる。それは磯辺とかかわったことで一五年前のKのことや母のことなどを思い出したように…。
塗りつぶしても、そこにある文字が消えたわけではないから、ある条件さえそろえば、文字だけ浮かび上がるのと同じ原理である。
これからも生き続ける限り、黒く塗りつぶしたくなるような出来事に幾度となく、出くわすだろう。そのたびに黒く塗りつぶして、ごまかしながら何とか生きていくしかない。
それにこれまでがそうだったように、これからも大切なものをたくさん見失うだろう。そうやって、生き続けたとしても「弱い自分」や「嫌な自分」を完全に断ち切れるわけでもないし、大切なものが守れるわけでもない。
でも、時間が進む限りは立ち止まることはできないから仕方ない。どんなに進むことを拒んでも、時間が進む限り、常に何かが始まって、常に何かが終わる…。
人生なんてそんなことの連続に過ぎない。そうでも思わないと、背負わないといけないものが、いつの間にか背負えないほど多くなって大変だ。そんなにあれこれ抱え込まなくても、必要なものは必要なときに勝手に浮かび上がって来る。それがいいものか、悪いものかどうかはまた別の問題である。
一五歳のときはうまく説明できなかったことが、三〇歳になった今ではある程度説明できるようになった。
これが四五歳…、六〇歳…と歳を取れば、もっとうまく説明できるようになるだろう。そう信じているからこそ、つらいことや悲しいことがあっても生きていくことに希望が持てるのだと思う。
人はどんな逆境に置かれようとも、それを長い時間かけて乗り越え、体の一部にして成長してしまう力を持っているのではないか?
それがあるからこそ、いかなる状況でも希望を胸に抱いて生きていける。そう思わないと、とてもじゃないけどこの先まともに生きていけそうにない。それでも生きている以上はそう思っていくしかないだろう…。




