後編
元々は自分とボニファーツィオに危険が迫ったときにしか聞こえなかった、それ。
グロウリーハウスに住まうようになってからは聞こえていなかったので、すっかり忘れていた。
桜華をボニファーツィオ同様に庇護対象として認識したせいで、能力が発動したのだろうか。
アッボンディオの危機察知能力を明確に理解しているボニファーツィオに、まず相談した。
ボニファーツィオは一人では抱えきれないとバルトロメウス兄弟に相談したようだ。
彼らは荒唐無稽に感じる者も多い危機察知能力を疑いもせず、桜華の危険を回避しようと様々な手を打ち始めた。
本気になったバルトロメウス兄弟とボニファーツィオの行動力は凄まじく、ブラッドフォードとオーガストの仲裁までをもやってのけた。
桜華を何処までも大切に思っていたブラッドフォードは、彼女が自分のせいで害される可能性が高いと聞けば、己の行動や恋心を制御してみせたのだ。
正直、驚いた。
そして感心した。
そこまで自分を変えられる人間は少ないからだ。
完全に桜華サイドについていたボニファーツィオとまで談笑するようになったときは、こっそり拍手をしてしまった。
周囲が落ち着く中で、肝腎のオーガストと桜華の関係が微妙なのは何とも皮肉な話だ。
ぴちょん。
水音はまだ聞こえる。
桜華の危険はまだ回避できていないようだ。
こうなってくるとオーガストが問題なのかもしれない。
以前にも増して彼を観察するようになった。
表面上は穏やかに取り繕われた関係に、眉根を寄せて対策を練っているときに、そのイベントが行われた。
グロウリーハウスは孤島に建っている。
基本的には運動場を含むグロウリーハウス内から出ることは禁じられているが、年に数回あるイベント開催時は例外だった。
今回は海水浴イベント。
遠泳やビーチバレー、浜辺でのBBQやキャンプファイヤーなどが行われるものだ。
当然のように遠泳に参加するブラッドフォードの応援をしに浜辺に移動して、応援席にと用意された椅子に腰掛けて双眼鏡を目にあてた。
ぴちょん。
未だかつてない近さで水音が響く。
アッボンディは咄嗟に双眼鏡から目を離し、周囲を伺った。
「逃げろぉおおおおお!」
常日頃冷静沈着で、あまり口数が多くないアッボンディの絶叫に、声が聞こえる範囲にいた全員が硬直する。
ぱーん!
しかし、遠泳開始の合図をする教師には聞こえなかったようだ。
合図が高らかに浜辺に響く。
ブラッドフォードは恐らく凄まじい勢いで海に入っていったのだろう。
咄嗟に高さを測りかねるほどの津波の中へと。
誰も気がつかなかった。
異常なほどに。
自分もぎりぎりで気がついたが、既に遅かった。
津波は浜辺にいた人間をことごとく浚ってしまう。
「くっそ!」
一番警戒できたはずのアッボンディも足を掬われた。
ごぼごぼごぼと音がして、塩水を思い切り飲み込んでしまう。
「はぁ……げほっ! はぁ……ごほっ!」
何とか水面に浮かんで咳き込みながら周囲を見渡す。
ボニファーツィオはヘルムフリートに抱きついていた。
きょろきょろと様子を窺うので大きく手を振ってみせる。
見えたようだ。
二人揃って手を振り返してきた。
二人から少しだけ離れた場所に、バルトロメウスも浮かんでいた。
誰かの首根っこを掴んでいる。
ブラッドフォードで間違いないだろう。
目線が絡んだので、ブラッドフォードは大丈夫か? と身振りで質問する。
バルトロメウスは、問題ないぞ! と頷いた。
水を飲んでいたらしいブラッドフォードが、バルトロメウスの適切な対処で水を吐き出している。
この二人も問題ないだろう。
「桜華?」
しかし、彼女の姿が見えない。
ぴちょん。
ぴちょん。
水音がうるさい。
隣に座っていたのだ。
そこまで離れた場所に流されるとは思えなかった。
ぴちょん。
ぴちょん。
ぴちょん。
水音が、うるさい。
目を閉じてきつく首を振る。
クリアになった視界で探そうとすれば、目の前にまたしても大きな波。
明らかに、おかしい。
咄嗟に息を止めて波に翻弄される。
目を閉じたまま、海面に上がろうと試みた。
『助けてくださいまし、アッボンディさん!』
だが桜華の声が聞こえる。
海の、底から。
アッボンディは思い切り目を見開き、海底を凝視した。
桜華が、いた。
オーガストにきつく抱き締められた状態で。
『オーガストっ! 桜華を放せっ!』
海の中で声が聞こえるはずもない。
でも叫んでしまった。
叫ばずにはいられなかった。
しかしオーガストは楽しそうな笑顔のままで、首を振った。
あり得ないスピードで桜華を抱えたまま、海底へと落ちていく。
落ちていく、そう表現するのが相応しい早さで深く、深く潜っていった。
『桜華っ! 桜華っ!』
オーガストの抱擁から逃れようと必死に手を伸ばす桜華。
息が苦しくて頭痛が酷かったが、それでも桜華を追って深く潜ろうとした、そのとき。
ぴちょーん。
水の音が、聞こえた。
と、同時に。
あり得ないものが視界に映り込む。
桜華とオーガストの足首を引っ張っている異形。
しかもオーガストはそれを見知っており、悍ましい暴挙を了承しているようだ。
二人の足首を引いていた異形は、物語で表現される魚人によく似ていた。
視界が酸素不足で真紅に染まる。
『アッボンディさん!』
意識が失われる間際、桜華のアッボンディオを心配する声が聞こえた。
アッボンディが目覚めたのは事件が起きてから三日が経過したあとだった。
散々泣いたのだろう、ボニファーツィオが目を真っ赤にして側にいた。
「兄ちゃん!」
「……おぅ、心配、かけたな。桜華、近くにいるか? 必死に手を伸ばしたんだけど、届かなくて、よ」
「それは……僕が、説明をするよ」
アッボンディの質問に、意外な人物が説明を買って出た。
ブラッドフォードだ。
「……僕たちが、魔法を使えるのは知っているね? オーガストは禁呪指定されている召喚魔法を使ったらしい。痕跡があったんだ」
「あ?」
「桜華を独占するために海に住まう異形を召喚して、契約を結んでしまったんだよ」
あまりにも荒唐無稽な話にこめかみを押さえる。
「君も、見たんだろう? 魚人と呼ばれる存在を。彼らは本来この世界にはいない。オーガストがこの世界に招き入れてしまったんだよ。桜華を花嫁にして、海の底か、彼らの住まう世界で暮らすつもりなんだろう。馬鹿な、弟だっ!」
ぼたぼたぼたと涙を流すブラッドフォード。
彼の涙を拭いてくれる二人はもういない。
「水音が、しねぇ」
「兄ちゃん?」
「桜華は生きている。そうだな?」
「うん。生きてはいると思う。ただ桜華が正気でいられるかは、わからない。僕たちの知る桜華でなくなってしまった可能性が高いんだ」
「それでも、桜華だろうっ!」
ブラッドフォードは誠実な説明をしてくれる。
彼を責めるのは間違っているのだ。
それでも高圧的な発言をしてしまう。
「……落ち着けアッボンディ。完治してから捜そう。君の体調は万全じゃないんだ」
「でも、でもっ!」
「水音、しねぇんだろ? なら、完治優先だ。それに桜華は何かしらの加護を受けている。彼女が望めば、今まで通りの彼女で、帰還が可能だろう」
「あぁ、そうだね。一度聞いたことがある。死んだ兄が守ってくれているとも言っていたな」
加護。
オーガストとブラッドフォードの国に魔法があるように、桜華の国は神が住まい気に入った人間に加護を与えると囁かれていた。
桜華はきっと心細い思いをしている。
今すぐに奪還の手配をしたい。
だが、それは無理だ。
皆の言うとおり、まずは体調を戻さねばならない。
「……騒いで悪かった。皆だって桜華が心配なのにな。何か……食べたい」
「うんうん! 兄ちゃんが起きたら食べさせようと思って、準備しておいたよ!」
ボニファーツィオが差し出してきたのはガスパチョ。
野菜がたっぷり入っている。
病み上がりにアッボンディオが好んで食べる料理だ。
「ありがとう……ゆっくり食うわ」
「焦らないでね、兄ちゃん。僕も、皆も。安全で、確実な奪還方法を考えているから」
アッボンディオが伏せっている間も、懸命に試行錯誤していたのだろう。
彼らの目には安堵と希望が強く宿っている。
アッボンディオはよく冷えたガスパチョを口にする。
少し塩味が強い気がしたが美味しい。
「……桜華にも食べさせてやりてぇな」
「ふふふ。案外、御飯が美味しくありませんでしたのよ? とか言いながら、しれっと戻ってきそうだよな」
違いない! と皆が笑う。
桜華の笑い声も聞こえた気がする。
絶望するにはまだ早い。
やるべきことを全てやり尽くしてからが勝負なのだ。
不安は多い。
だがアッボンディオは、絶対に桜華を奪還すると誓い、口の中にあるガスパチョをしっかりと嚥下した。