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悪役S嬢〜悪役令嬢がS嬢って、天職なのでは?〜  作者: タケミヤタツミ
白薔薇を踏み越えた道の先に(最終章)
85/85

85:終演(完)

それなのに何故、不意に風が止んでしまうのか。


大きく一つ揺れて、空中に浮いた身体。

まだ動いている心臓に合わせて疼く左腕の痛み。

ここはまだ奈落でなかった。



一体何が起きたというのだろう。

酷い目眩で視界が霞むものの、逆さまにその原因を捉えた。


そこには"彼女"の黒衣の裾を噛む白銀が一匹。


雪の妖精を思わせる小さな獣の姿が宙にあった。

三角の立ち耳に尖ったマズル、大きさや長い毛並みの垂尾など外見は犬によく似ている。

剥き出しの並んだ牙を布地に立てて険しい顔。


昼と夜が交わる逢魔ヶ時とは怪異が現れやすい時間。

魔法が存在する世界だ、本当にそんなものの存在も不思議でないか。

こうした生き物が現れただけでも驚くところ、何よりも奇妙なのは煉瓦造りの壁を垂直に踏み締める四肢。

丸っきり重力の法則を無視しているが、どうやら幻覚とも違うらしい。


呆けながらそこまで考えて、ふと気付く。

獣の三角耳に青みの小さな蝶々結び。

ここからではよく見えずとも、獣にリボンは目立つ。



ただ途中で止まろうと、こうしている間にも死は刻々と迫っている。


随分と落ちてもまだ高さは塔の半分ほど。

切り裂いた腕からも血が垂れ流し。

もしやこの匂いで寄ってきた肉食のモンスターか何かだろうか。

捕らえたのは喰う為かもしれないが、その前に裾が破けそうだった。


「痛……ッ……」


ジャケットが千切れる寸前、息が詰まるような痛みで足に深く噛み付かれた。

落とすまい逃がすまいと強い意思を持って。




「よし、良くやったワン公……そのまま噛んでな」


降ってきたのは二度と聴くことのなかった筈の声。

突然のこと足元の窓が開き、伸ばされた黒い外套の袖が"彼女"を力強く捕まえた。

その頑丈な腕とウッディの香水は何年もこの身をを抱き竦めて暖めていたもの、間違えようがない。


「…………あら、まぁ」


手を振り解けないまま塔の内側へ引き摺り込まれる。

ぽかりと開いた口に呑み込まれるように、暗い穴に落ちるように。



その魔法使いは仔犬と隕石の名を持ち、その通りに姿を変える能力が備わっていた。


発動条件は自らの手で首輪を嵌めること。

ただ化けるだけでなく、白銀の毛皮に覆われた彼の前ではたちまち重力は消え去ってしまう。

星を司る獣は高い屋根と屋根の間を軽々と飛び越えて、地を駆けるように壁を上る。


時計塔のどこか狭い一室、脱いだばかりの黒い外套が敷かれた床に四肢を投げ出しながら"彼女"は正体を虚ろに見上げた。

その白銀には見覚えがあると思っていたのだ。

首輪が落ちて変化したのは、同じ色の長髪を持ち華奢な身体にグレーのロングコートを纏う青年。

耳には、ラベンダーブルーのリボンを結ぶコルセットピアス。


プロキオン・ギベオン、ロキ。

月華園での呼び名は雪椿。


彼こそが「仔犬座(-カニス・ミノル-)」の魔法使い。



学生時代、夜の逢引でロキが女子寮へ通えていた種明かし。

頑なにカーテンを締めるよう要求していたのは獣の姿を見られたくなかったのが理由。

攻略対象である彼のことも渡されたシナリオに記されていたが、秘密を勝手に暴くのは良くないからと"彼女"が読み飛ばしていたのだ。


学園で会った最後の日、ロキに向かって「"私"のことを殺しに来なさい」と言った。

まさかその彼に命を助けられる結果になろうとは。



そして「ワン公」なんて呼び方をするのもただ一人。


大きな影を落とすのは、結んで尻尾じみた黒髪とマゼンタの双眸。

悲しげに痛々しげに歪められた端正な顔。

飢えたように息を切らしながら、愛しい「魔獣」レピドがそこに居た。



「ご丁寧に手首まで切りやがって、念入りだな」

「血が、こんなに……っ止血、早く、しないと……」


青褪めながらも医者の雪椿が狼狽えてばかりいられない。

手元の作業をする為に眼鏡を掛けると、一直線に傷が走る白い腕の動脈をスカーフで縛った。


皮膚どころか肉や血管まで深く切り裂いたのだ。

本来なら一刻も早く縫わねばいけない傷だが、治すにしてもその必要は無い。

ここには健康体の男が二人も居る。

レピドが雪椿を制し、大きな手で"彼女"の顎を捉えた。



「悪ィけどな、今日ばかりはお前の許可が無くても触れるぞ……たんと吸えよ、エナジーヴァンパイア」


細めた目で鋭く突き刺してくる視線。

命令を吐いた唇が、浅く呼吸を繰り返す唇を奪う。


触れ合うところから伝わるのは熱だけでなく、生気。


肉体を破壊された危険信号により魔法は勝手に発動してしまう。

これは意思の強さなどでどうにか出来るものでなく、乾いた砂が水を吸うようなもの。

生きることを渇望する弱った身体はレピドからの生気を啜り取って蘇っていく。

それも魔法使いの生気なら効果抜群。



「何なん、それ……もう、傷、閉じてる……?」


人工呼吸じゃあるまいし、こんなことで蘇生するなんて医者の目からすればそれこそ正に魔法。

見る間に塞がっていく傷に驚きを隠せず、雪椿が戸惑った声で呟く。

そうか、やはり知らなかったか。


魔法使い魔女とだけは認識しつつも、どんな魔法を持っているのか訊ねずいたのはお互い様。

秘密に踏み込まなかったのは怖かったからではない。

そんなことはどうでも良かったのだ。

悪役令嬢でも攻略対象でも、愛した相手が何者かなど。


「俺が言うのも可笑しいだろうけどよ……交代だ、ワン公」


魔力も体力も人並み外れたレピドが流石に苦しげ。

恐らく大急ぎで時計塔の階段を半分まで上ってきたのだ、普通ならそれだけで疲労困憊。

交代という言葉が意味するところは、即ち。


「……助けられるんなら、もう何でも良えよ」


眠り姫に愛を捧げるような恭しさで、雪椿が唇を落とした。

月華園のショーでは額や指先に口付けることならあったが、あれは観客に見せつける為のもの。

こうして彼とキスするのは恋人だった頃以来か。

それも、今の男の前でなんて。


やがて二人分の生気は深かった傷を癒し、血を作り熱を巡らせる。

自動的なものなので吸ったのは最低限の量だった。

まだ柔肌に浅い痕こそ残しつつ、もうこの程度は命に別状無し。



なんだ、失敗してしまったか。


高所から飛び降りた上に、かなり失血した後だ。

激痛で額どころか全身に脂汗が滲んで、整えてきた髪も服も今や深紅で泥々に汚れて乱れて酷い状態。

いつも纏っているラベンダーも生々しい物悲しさを絡めて匂い立つ。

目眩と貧血が続いており起き上がれず、逃げ出すことも取り繕うことも出来やしない。


まったく、なんて格好悪いのだろうか。

ラストをキスで締めるなんて、使い古された手なのやら王道なのやら。




こうなったからには訊かねばならないことがある。

ただでさえ花街からこの北国まで汽車で半日は掛かる距離、どうしてここに。


「ああ……青い悪魔が持ち掛けてきたぞ」


浪漫に奇跡の説明とは野暮だが、この一言で足りる。

ダヤンはレピドにも正体を明かしたのか。


何のつもりかなんて考えるだけ無駄。

全ては掌の上と支配しているようで、思い通りになってもそれはそれで退屈という傲慢ぶり。

気紛れ、乱入、予期せぬトラブルもアクシデントも目一杯に愉しむ。

計算外の事態に掻き回され、何が起こるか見てみたいと。


とはいえ、青い悪魔は物語に干渉しない。


恐らくは飽くまでもレピドに対して選択肢を与えただけだ。

婚約者が自殺に向かうことを知って止めに行くか、それとも本人の意思を尊重するか。

飛んで行きたい心を歯を喰い縛って堪え、後者を判断することもあり得た。

そういう人だった筈だろうに。



「お前、俺達の心臓を持ったままどこに行く気だ?」


普通の女なら恐怖に震え上がってしまう眼光と低音で、レピドが問う。

生まれつき怒りがうまく働かず、半ば欠落していた男が珍しく感情を抑えながら。


恋は自分の意志と裏腹に落ちるものであって、相手を選べない。

"彼女"がそういうつもりや振る舞いをせずともここに居る男二人はそうやって心臓を掴まれた。

今生このまま捧げても良いと覚悟を決めて。

かといって、どれだけ重い矢印を向けていようと相手が受け取ってくれるとは限らないと、レピドも解っていたろうに。


折角助けてもらって悪いが、愛だけでは"彼女"の枷にはならないと知っている筈だ。

ここで説き伏せることが出来ねば、また目を離した隙に今度こそ完璧に消えるだけ。



そしてまた欲望なんて他人からすれば極めて醜悪で、下らなくて、理解に苦しむものである。


"彼女"の抱えているものとて同じこと。

そんなことなど知るかとばかりに、レピドと雪椿はこんなところまでも駆け付けてきた。

十二年掛けて辿り着いたクライマックスを邪魔する為。


魔物とは、欲望塗れの転生者を仕留める狩人だった。

それが猟犬と巨人に捕まってしまうとは皮肉。



「……私は、もう、会いたくなかった」


キスを交わしたばかりの唇、非情な言葉を吐いたのは突き放す為でなく本音。

弄んだつもりは無かった、いや言い訳か。

いつか先立つ運命と決まっていながら愛し愛され恋を育むとは、とても残酷な真似をした。


ただ、これだけは事実。

この世界で死ぬのは一度きり、ならば二人のどちらかにだったら殺されても良いなんて思っていた。


"彼女"にとっては最も強い愛の言葉。

それでも声に出したら余計に悲しませるだけなので口を噤むが。

心中だとか刺し違えるだとか贅沢は望まない。

死後の世界では離れ離れになってしまうことを知っているから。



「だって私は魔物だもの、奈落に帰らなきゃ」


ずっと華々しく死ぬ為だけに生きていたのに。

閉幕の先に夢や未来なんか見てはならぬ。


沢山殺した、国も傾けて滅ぼしてきた、汚れた魔物。

奈落に囚われるということは、浄化されないまま潰れそうに重い罪を背負うということ。

だから相応しくないのだ。

愛しているから、彼らと添い遂げる相手が自分では駄目だと頭の片隅で思っていた。



「僕は、あなたが何者だって……そんなもの、どうだって良えんよ……やっとまた会えたんに、どこにも行かないで……」


この中で涙を流す役目はいつも雪椿。

月華園で再会を果たした時も、もう離れたくないと美しい顔をぐしゃぐしゃに濡らしていた。

可哀想で可愛くて、目が離せなくなるくらい眩しい。


どうも自分は彼を泣かせてばかりだ。

傷付けているのはピアスのことだけでなくて。


「"何も要らないから"なんて縋っても駄目よ?」

「そんなん、言わんわ……欲を持ってる自覚くらいあるんよ。僕は、あなたに支配されていたい。雪椿の名前付けて、飼うって決めたんなら、最後まで飼い主でいてよ……っ……」


かつて恋人、今は飼い犬。

こちらだって安易な気持ちで結んだ訳でもないが、こんな関係なんか長続きしないと薄々思っていた。


互いを繋げているのは赤い糸でなく、ラベンダーブルーのリボン。

髪に、耳に、背中にと飾り立てられた可憐な蝶々。

逝こうとしたらピンと張って躓かされた。

こんな儚いものに引き止められることになろうとは。



「俺は別に、三人で関係持っても構わねぇと考えてたくらいなんだがな……どうせなら堂々としてろよ。

俺もワン公も両方欲しいって欲張ったって良いんだぞ?」


こちらはまた随分と凄いことを仰る。

欠落しているのは怒りだけでなく、嫉妬や独占欲もか。


「レピド様、それ許すのもどうなんですか……」

「何だよ、S嬢がМを飼うのに許可なんか誰にも要らねぇって前にも言ったろ。それにな……魔獣の妻なんか務まるの魔物ぐらいだと思わねぇ?」


レピドも雪椿と同じく手放す気は無いと言う。

こんな女、呆れて愛想を尽かしてもおかしくないのにも関わらず。


「俺さ、お前の見てきた世界で一番格好良い爺さんになってやるから一番近くに居ろよ。幕が下りてからの先、今死ぬよりもっと面白いことになるぞ」


相変わらず不敵に笑うレピドの双眸は確かに言っていた。

血濡れの魔物のままで良い、だから惹かれたと。

どうせ演じるならリヴィアン・レイラ・グラスの役を最後の最後まで降りるなと。



「ってことで迎えに来てやったぞ、家出娘」

「帰ろう、ノエさん……一緒に」


ノエ、薫衣草、月華園での呼び名。


魔法使い魔女でなくとも名前とは呪文だった。

全てが借り物であるこの世界で、それはシナリオの外で付けられた"彼女"だけのもの。


ここにあるのは赦しだ。


SMに於いて決しても切り離せないこと。

罪も恥も曝け出したとして「大丈夫だ」と包まれる。

そんなものは自分に必要無いと思っていたのに。


この世界でも本物のリヴィアンを始めとして何人も殺してきた。

許してくれとは言わない。

背負う重みを忘れず歩き続けるのは、それはそれで途方もない苦しさの罰だ。



寄り道脇道回り道、ずっと道が分からなかった。

やっと帰り道を見つけてたというのに迷い道で得たものにこの足を絡め取られている。

リボンを結んだ仔犬と大きなブランケット。

これまで巡ってきた幾つもの世界、心身を守る為に様々なものを奪い取ってきた"彼女"は初めて与えられることで命を繋いだ。

包み込まれたら困るのに。

離せなくなる、まだここに居たいと思ってしまう。


こちらから手を伸ばして触れても、良いのか。


それに帰りが遅くなることなら、どうやら奈落の主たる青い悪魔からもお許しが出た。

あと五十年は待たせたところで問題あるまい。


記されていたシナリオは時計塔から飛び降りるところまで。

この身は血を流し、落ちて、一度死んだ。

ならば、その先はまた自由にやらせてもらおうか。

囚われていることは変わらず、逃げたりしないのはあちらも分かっていること。



この時計塔で愛を誓うと永遠に結ばれるという。

さて、果たしてそれは真実になるのか。

答えが出るのは未来。


木苺ジャムを煮立てていた強火は消えてしまった。

酷く惜しい気持ちもありつつ、まだ熱を持ちながら極上に甘い。

ジャムは瓶詰めにしてこそ完成なら、冷めてしまう一匙の切なさを共に閉じ込めておこう。

遠い記憶の笑い話として味わう、いつかの為に。





北国の街を照らしていた夕陽はゆっくりと燃え尽きる。

もうじきベテルギウス、シリウス、プロキオン、冬の大三角も夜空の舞台に上がる支度をする頃。


暗くなり始めた中、何だか外が騒がしくなってきた気がする。

そういえば身投げした後だ、何も知らない者達には一大事か。

魔法は魔法使い魔女にしか感知不能の法則。

目撃者からすれば、雪椿の化けた獣は目に見えないので女が空中で突然消えてしまったように映ったことだろう。


現在地は階段片隅の物置、すぐ近くに非常口もある。

夜が迫ってきている時間帯は好都合。

見つかったら厄介だ、薄闇に乗じてうまく逃げねば。



ああ、そうだ。

それでも最後に一つくらいは格好つけたい。


レピドに抱きかかえられる前に待ったを掛けた。

雪椿が足に付けた噛み傷は同じく生気で塞がったとはいえ、やはりまだ浅い痕は残っている。

白い肌を彩るは乾き切らない血。


「お舐め」


ヒールを履き捨てた裸足を差し出して、威風堂々。

魅入られそうに深く暗く、沼の双眸でノエが命じた。


これにて「悪役S嬢」完結です。

お付き合いいただきましてありがとうございました!


リヴィアンがヒロインの裏舞台となるムーンライトの「ガラス、シリウス、沼の底」は横軸を絡めつつ進行していくので、良ければそちらも合わせて宜しくお願いします。

結末は変わりませんが、リヴィアンとロキが再会するまでやレピドとロキが時計塔に駆けつけるまでのエピソードもこれから書く予定です。

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