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Track. 4

 途中、コンビニに入った。

 そこで牛乳を買った。


「初挑戦の牛乳でお腹を壊したらどうしよう」

「さあ?」


「下痢はかっこ悪いよ」


 苦笑いしながら彼女は紙パックをしぼませた。そして、口中にそれが入った途端に目をまん丸にして飛び跳ねた。


「これ、すっごい美味しい! 偽物じゃない! 本物の味!」


 はしゃぎすぎて、口元に白いおひげが生えている。

 大げさな。そう思ったけれど、僕もそれを口に含んだ瞬間、今まで知ることのなかった味に声を上げた。まろやかで優しい甘さに舌が包まれる。


「もう植物性油脂には戻れないな」

「ほんとそれ」


 駐車スペースのガードレールにもたれる。眼下には僕らが住む街があった。結構上ってきたものだ。――ここからさらに北上すると、緩やかに下って海へとたどり着く。砂浜だったらよかったが、残念ながら海水浴場のある砂浜のバリケードは分厚い。この先は、岩肌の多い岩礁だ。――もっとも地図で見ただけで、この目で見たことはないのだが。

 遠くの景色を見ながらぼうっとしていた。

 オーディオシステムを切って、エンジンも切って、しばしの沈黙が訪れていた。だが――それをびちゃびちゃとした水音がぶった切った。


 彼女が口に含んだ牛乳を吐いていた。


「えほっ。うぇっほ」


 それから咳き込み、嘔吐いて、屈みこんでアスファルトの上に透明などろどろの吐しゃ物を吐いた。俺はカンナのもとへと駆け寄った。


「大丈夫かっ! カンナ!」

「えへへ……かっこ悪いね。やっぱり私たちって弱いんだね。無菌衣(ベール)を脱いでも、私たちは、私たちのまま」


 がくがくと震える彼女の背中をさする。

 僕は、目の前で一輪花の花弁がひらりと落ちたのを見たようで、どうにかなってしまいそうだった。はらはらとした動悸が僕の身体をも蝕む。

 僕と彼女は牛乳を残した。人間と牛の違いはあるけれど、僕らは母乳に拒まれたんだ。――やっぱり、僕らは僕らのまま。世界に受け入れてなどもらえないのだ。


 もう一度走り出す。

 ちょうど一周してもう一度“White Baby”が流れた。――出発のときは、無菌衣を脱ぎ捨てて生まれ変わったつもりでいたけれど、今はそうじゃないと気づかされた後だ。


弱さを知って怖くなり 強さを知って妬むのさ

幸せが平等だなんて謳うロックは聞き飽きた

道徳も枷も蹴っ飛ばして 傍若無人に叫びたい

こんな気持ち我儘ですか?


アブノーマルをサクセスに

――なんてお涙頂戴失せやがれっ!


Baby Baby White Baby! 僕らはみんなWhite Baby!

Baby Baby White Baby! 普通に生きたいだけなのよ

Baby Baby White Baby! 死ぬのが怖いのWhite Baby!

Baby Baby White Baby! 受け入れられない愛子(まなご)なの


 KAORIの歌声が、心臓の奥深くを抉るように突き刺さった。

 爆音を鳴らしているのに、後ろでカンナの嗚咽が聞こえた気がした。――少しだけ風に潮の匂いが混じり始めた。

 僕はアクセルをふかし、速度を上げた。潮の匂いに喜び、先を急いだのか。後ろで花弁がはらりと落ちるような感触に苛まれたのか。その狭間で心は揺らいでいた。


 はやく。はやく。もっとはやく。


 ――しばらく走ると、道は緩やかな傾斜で下り始めた。いよいよ、海が近くなってきた。あれから会話をしていない。会話をするために声を絞り出す体力が、彼女からなくなったのか。僕の胴体を抱きしめる、彼女の細い腕の感触だけが頼みの綱だ。まだ、彼女の体温は感じることができる。

 やがて、海岸線への侵入を阻むバリケードが見えてきた。

 見込み通り、金属製のハリボテで、簡素なものだ。向こう側に広がっているであろう岩礁に想いを馳せ、加速した。


「カンナ、しっかりつかまれ」


 バイクは唸りを上げ、アルミ製の壁を突き破った。ばらばらと大きな音を立てて、壁同士をつないでいた継ぎ目、地面に固定していた杭が外れていく。車体は、アルミの壁をぶち破って乗り上げて、地面の上を横倒しになって滑った。制御が効かなくなる一歩手前で、僕はハンドルから手を放して、とびかかるようにして背後の彼女の身体を包み込んだ。

 僕は彼女を抱きかかえたまま、岩肌をごろごろと転がる。ごつごつとした砂礫に何度も身体をぶつけ、いたるところに擦り傷と打ち身を負った。僕らの前方遥かへと投げ出された車体は、アルミ壁の残骸の上に横転した状態で止まった。


 折り重なっていた身体を解き、地面に仰向けになる。身体じゅうが痛む。けれど、ようやく旅の終着駅へと僕らはたどり着いた。がくがくと身体を震わせながら、鼠色の岩礁に倒れこむ彼女の肩を揺さぶる。


「カンナ、着いたぞ」


 彼女はゆっくりと目を開けて、息を吹き返した。そして静かににっこりと笑った。


「ええ。聞こえるわ、波の音が」


 ざあざあとひびく波の音。役目を終えた車体からは、まだKAORIの歌声が流れていた。スピーカーの振動子が破損しているのか、ぶつぶつとノイズが混じっている。


歌を聞かせて 過保護な世界に

生きる保証を 自由と引き換えに

強くなれない あたしは翼じゃ

飛べないくらいに肥えて 這いつくばっている


見上げられたものじゃない

もっと早く決めるべきだった 

この身体が穢れを知る前に

美しく死にたかった


どこまでも飛んでいく 純白のこの衣を

脱ぎ捨てて 海の青さを 

この目に焼き付けて 壁の向こう側へ


「着いたのね、壁の向こう側に。――海に」


 彼女は魚のように跳ねて、僕に飛びついてキスをした。


「ああ。叶えたのさ。僕らはKAORIの叶えられなかったもう一つの未来を」


 僕らは互いに肩をたたき合って喜んだ。再開した戦友のように抱擁した。

 岩礁に打ち寄せる波と、カモメの歌声が僕らを祝福した。

 

 立ち上がろうとすると、彼女はよろけた。僕は慌ててその肩を支える。


「ありがとう。最後までかっこつかないな」

「……なに?」


 僕は彼女の発言に耳を疑った。


「最後って」


 彼女の狭い額に皺が入って、綺麗な顔がくしゃっと歪んだ。


「言ったでしょ。死ぬなら海がいい。――私はここで死にたいの」


 それから壊れそうな笑みをつくった。


「――どうして」

「これから、何日かまだ……生きれるかも知れないっ。――けど弱ってやせ衰えて、吐瀉物や糞尿、血にまみれて、肌は壊死するかもしれない。――私は、美しく死ぬためにここに来た。だから……、早くっ、決めないとっ――いけないの。

 この身体が穢れを知る前に」


 海にたどり着いて、束の間の精気を取り戻していた彼女。――だけどやはり、彼女は深刻なようだった。陸に上げられた魚のように、息苦しさを訴え始める。声が途切れ途切れになる。


「……私を、海岸まで連れて行って。いくつか、まだやりたいことがある」


 僕は本能的に、彼女が死を選ばないとしても、もう永くないと悟った。もともと、無菌衣のない僕らの命なんて、それくらいの儚さだ。

 彼女の肩を支えながら、ともに一歩また一歩と岩礁を歩いていく。

 一歩、また一歩と歩くたびに、彼女の歩幅は狭くなっていった。やがて、僕に引きずられるように摺り足になっていく。

 空しくて、悲しくて、僕の頬を水が伝って擦りむいた傷に沁みこんだ。


「あり……がと……う……」


 海に向かって突き出した岩場の先端までたどり着いた。地面にはところどころ小さな潮だまりができていて、潮の満ち引きによって、ここまで海水が侵入していくのだということを知らせている。ぬるぬるとした藻がうちあげられていて、足を取られてしまいそうだ。


 彼女はその場に座り込むと、迷わずにズボンのポケットに忍ばせていたタバコに手を伸ばした。指先ががくがく震えて、火をつけるのに手間取る。

 細くて長いタバコ。――いつか彼女の姿を知る前に想像したけれど、その細さは、彼女の指にそっくりだ。火が灯って、ヤニとラベンダーとメンソールの混じった複雑な匂いが鼻孔を刺激した。――カンナの匂いだ。


「げほっ! うぇっほ! ――これね……、ピアニッシモっていうタバコなの。KAORIもっ、よく吸っていたっ……」


 自身の象徴だったタバコも、彼女は受け付けなくなってしまっていた。

 それを否定しようと口づけては、咳き込んで嘔吐いてを繰り返す。彼女が吸うタバコの苦みが、僕の口の中にまで伝わってくるようだった。


「ねぇ……、今までありがとうねっ」


 そう言って彼女は僕に煙を吹きかけてから、一服を終えた。

 目にぴりりと煙が沁みて、また頬を滴が伝うのを感じた。


「泣いたりしないでよっ。――決心が鈍っちゃ……うでしょ」


 そう言われても、抑えられるものではなかった。


「私ね。――ずっと無菌衣(ベール)を脱ぎたくて。でも怖くて叶わなかった。だから、誰かを愛して、誰かを……巻き込みたかったんだと思う。

 ごめん――私は、自分の人生を美談にしたくて、あなたの人生を犠牲にした……。でもね、でもっ、あなたしかいなかったのっ!

 ジャックダニエルの味、牛乳の味、キスの味。あなたの声と体温とっ……、優しさと。あなたでなきゃ、ダメだったの。――でも、それで、あなたは。あなたはっ……」

「僕もカンナじゃないとダメだっ!」


 呼吸を乱していく彼女。

 それをつんざく様に僕は、声を上げた。


「そうでなきゃ、こんなとこまで来ないだろ。――カンナ。ちゃんと言えてなかったから、ここで言うよ。言い忘れることなんてできないからな。


 カンナ、愛してる」


 彼女はその言葉を受けて、何も言わずに僕の唇に自らの唇を静かに重ねた。互いに目を瞑り、波の音に聞き耳を立てる。そして、数秒後。互いの唇が離れる時のちゅっという音が耳の中に反響した。


「私もよ。――ありがとう」


 立たせてほしい。彼女はそう希った。

 何のためかうすうす勘づいてはいたが、僕は拒みはしなかった。――僕は彼女の意思を尊重してここに来たのだから。自分の未来さえも投げうって。


「――どこまでも飛んでく夢だった。そういう歌なのにねっ。自分で立てない……不甲斐ない私が、身の程知らずねっ」


「カンナはカンナだよ。僕はカンナのためだから、未来を明け渡せる。――このあと、そう遠くない未来僕も後を追うことになる。――けれど、カンナ。

 僕は、後悔はしないよ。――ぜったい」


 そこで彼女が目を細めて笑った瞬間。一筋の川が彼女の頬をなぞった。それを押し殺すように笑顔をつくった。

 岩場の先端のその向こう側は少しだけ抉れた崖になっている。海面までの落差はそうないが、身を投げればよじ登って戻ることはできないように思えた。水面はどこまでも濃い青色をしている。


 そして、彼女は海面に向かって倒れこんだ。背中に羽が生えていることを知っているように潔く、彼女は飛んだ。


 そう、彼女は飛んだんだ。


 ぼしゃんと鈍い水音がして、遅れてカモメが鳴いた。

 青い青い海の中に彼女は沈んで、浮き上がってくることはなかった。――しばらくはそれを期待したけれど。彼女は僕とは違って、潔い人間だった。


 潔くて、かっこつけで。

 弱くて、儚くて。

 自分勝手で、だけどたまらなく、いじらしかった。


 その場に座り込んだ。地面に付いた右手に、何かが当たる。彼女のライターとピアニッシモのタバコが、岩場に取り残されていたのだ。タバコを吸ったことはなかったが、僕は何の迷いもなくそれを口にくわえた。

 細身のタバコは、男の僕には似合わなかった。――けれど火をつけると、あのヤニとラベンダーとメンソールの混ざった複雑な匂いが僕の口中から鼻孔を満たした。


 口の中に、煙とともに彼女の味が広がった。


 僕はそれを、顎を動かして咀嚼して、悦に浸った。耳には、寄せては返す波の音。

 本来知るはずのなかった世界の中で、静かにゆっくりと目を瞑った。

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