序章 ミリ単位の狂い
全ての人間は利己的である。
これは悲観論でも何でもない。ただの冷徹な事実であり、この世界の設計基盤だ。人間は自己の利益、あるいは自己の脳内麻薬を最大化するために行動する。だからこそ、統計上、既婚者の約半数は浮気をする。私の夫、永瀬律もまた、その例外ではなかった。私の名前は永瀬美咲。一級建築士として、自身のデザイン事務所を経営している。建築の世界において、ミリ単位の狂いは構造全体の致命傷になる。だからこそ私は、空間の歪みや、そこにある物の配置の違和感に人一倍敏感だ。人の嘘が空間に落とす歪みも、私は絶対に見逃さない。築三年の我が家は、私が家族の動線をミリ単位で計算し尽くして建てた、文字通りの作品だ。そして同時に、私の大切な資産でもある。 ある火曜日の夜、私は地方出張から帰宅し、夫の律に出迎えられた。「おかえり、美咲。出張、お疲れ様。寂しかったよ」律は都内のIT企業でマーケティングディレクターを務めている。顔立ちも良く、世渡り上手な男だ。彼はごく自然なトーンで微笑み、私のコートを受け取った。昨日、この家で浮気相手の女と情事を愉しんでいたことなど、微塵も感じさせない完璧な演技。だが、リビングに入った瞬間、私の目はローテーブルの上に注がれていた。ティッシュボックスの位置が、私が朝出かける前より十五センチ右にずれている。私の一人がけのデザイナーズチェアのクッションの凹み方、そして床に落ちた、一本の極めて短い髪の毛。極め付けは、空間の匂いだ。 私が設計したこの家は、二十四時間換気システムによって、常に清浄な空気が循環するよう計算されている。それなのに、わずかに、本当にわずかに、ウッディ系の男物の香水ではなく、私のクライアントの娘が好む、安っぽいフローラル系の香水臭が漂っていた。
普通の妻であれば、ここで激昂し、夫のスマートフォンを奪い取って問い詰めるのだろう。だが、私はそうしなかった。感情に任せて怒鳴り散らす行為は、建築で言えば「基礎が腐ったからといってハンマーで壁を叩き壊す」ような、もっとも愚かで非効率な破壊衝動だ。私は、おもむろにソファーへ腰掛け、スマートフォンを眺めるフリをしながら思考を切り替えた。怒りや悲しみといった無駄な感情を脳から完全に排除し、冷徹な設計者としての回路を立ち上げる。律は今、私という安定した家庭と社会的な体裁をキープしながら、浮気相手から得られる刺激という利益を貪っている。な目には目を。利己主義には、完璧な利己主義を。 私が選ぶべきルートは一つ。感情的な修羅場ではない。律と浮気相手が油断しきって泥沼の深みに足を取られるまで、あえて完璧に「泳がせる」こと。そして、二人が最高の果実を手に入れたと確信した瞬間に、その足元の大地を根こそぎ崩落させる、冷徹な解体プランの設計図を描くことだ。「美咲? どうしたの、疲れてる?」律がキッチンからグラスに水を注ぎながら、背後から声をかけてくる。その声には、私の様子を伺うような、微かな後ろめたさと、それ以上の「どうせこの妻にはバレていない」という侮りが混ざっていた。
「いや、なんでもないわ。ただ、来月から大型のプロジェクトが始まってね。週末も泊まり込みで地方の現場にこもることが増えそうなんだ。迷惑をかけるね」私は振り返り、至極穏やかな、騙されている妻の微笑みを夫に返した。「そうなの? 体には気をつけてね」律の瞳の奥が、歓喜でパッと跳ね上がったのを私は見逃さなかった。彼の脳内では今頃、妻の不在という最高の金魚鉢で、あの女とどう泳ぎ回るかの計画が弾けているに違いない。「ええ、ありがとう」泳げ、泳げ、存分に泳ぐがいい。ただし、その水槽のガラスの厚みも、水の温度も、排水弁のレバーも、全ては一級建築士であるこの私が握っている。永瀬美咲による「泳がせ妻の観察記録」。その第一ページが、今、静かに開かれた。




