7町娘と恋の兆し
ヒューシュフルツは川辺だけでなく、野原も美しい町だった。
一軒家がゆとりを保ちながら並ぶ町の中心地を、水辺の方向を背に抜けていくと農地が見えてくる。
城壁はなく、町は緩やかに自然の風景へとつながっている。ジュードの仕事場は、さらにその先だ。
のびやかに育つ作物を横目に眺めながら、ニナとカリーナは大きなバスケットを手に、ジュードが牛を放しているという牧草地を目指した。
「気合入れすぎじゃない?」
「そんなことない。ジュードは沢山食べるもの」
ニナが抱えるバスケットには、カリーナの店のパンやオットーの宿の食堂の名物である川魚とじゃがいものフライ、果物がまるのまま詰め込まれていた。仕事場見学のついでに、ピクニックと洒落こもうというわけだった。
「あ、いた! ジュード!」
カリーナが遠くの人影に手を振る。顔もわからないその人影が、よくジュードだとわかったものだ。ニナは目を眇めた。
近づくにつれて、ニナにも人影の容貌がわかるようになった。こげ茶色の髪に薄い茶色の瞳。程よく日焼けした肌にはそばかすが散っている。
「いらっしゃい! ニナ!」
ジュートはその健やかな顔に笑顔を咲かせた。
「ちょとぉ、私はおまけ? ニナが来てくれたのは私のおかげなのよ」
「すいません、カリーナ様、感謝してます」
カリーナがふくれっ面をする。冗談めかしてジュードが謝り、親しいもの同士の明るい笑い声がはじけた。
「放牧って、こういうことをするんだ」
ニナは、牧草地を見渡した。背の低い草が一面に広がる場所に、大きな乳房を下げた牛が思い思いの様子でくつろいでいた。草を食むもの、散歩するもの、横になるもの。
「ま、別に見せるものでもないけど。搾乳とか見に来て、一緒にやった方が楽しかったかも」
「ううん……すごく素敵」
平和でのどかなで、美しい光景だった。ニナはその視界いっぱいに広がる光景に夢中になった。
そよそよと吹き付ける風は優しく、太陽の光は暖かだ。ニナは獣臭さのまじる青い匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
とても心地よかった。
「それならよかった」
ジュードは照れくさそうに笑う。
「ま、のんびりする以外にすることは無いんだけど……。あ、ピクニックをするっていう大事な役目があった」
「そうです」
カリーナが、バスケットを示した。
「休憩しよう! ね?」
カリーナの号令で、ニナ達は敷布を広げ、バスケットの中身を片付け始めた。
カリーナの家のパンは香り豊かで、空の元で食べると一層味わい深かった。
「そういえば、家の人は反対しなかったのか?」
「反対? なんで?」
「町の外なんて、最近危ないだろ?」
ニナとカリーナは顔を見合わせた。こののんびりした空間のどこに危険があると言うのだろう。
「山狼が出るって、聞いてないか?」
知らない、というカリーナに対して、ニナはあっと声を上げた。
オットーも、そういえばそんなことを言っていた。狼に襲われなくてよかった、と。
山狼は、大陸では一般的な獣だった。
雑食で、鋭い牙と爪をもつ。ニナも遠征中に何度か出くわしたことがある。故郷でも狼というものは存在していたが、見たことはなかったから比較は難しい。ただ、近所の柴犬よりも二回りも大きく、ひょっとしたら日本で言う狼よりも大きいのではないかと思っていた。
雑食で、家族単位の小さな群れで行動する。普段は、山で暮らすが食料が乏しい時や群れからはぐれたものがまれに人里近くに現れることがある。そういう個体は、もれなく気が立っていて、人を積極的に襲ってくることもある。
「まぁ、見つからないうちに静かにゆっくり逃げれば平気なんだけど。だから、もし山狼をみてもきゃあきゃあ騒ぐなよ」
ジュードは川魚のフライをつまみながら言う。
「最近おかしな感じなんだよな」
「何が?」
「変な獣が出るって話。牛飼いや羊飼いの間では有名なんだ。家畜が襲われるから」
「え……」
空気がこぼれるような、声にならない声。詳しく聞いたわけではないのに、嫌な予感がした。
「この間は隣町の牛飼いが見たって言ってた」
どくんどくんと、ニナの体の中を血が、不安が、恐れが駆け巡る。
「獣たちが、普通はとらないような変な行動をするんだって。群れない獣が群れたり、人を襲わない獣が襲ってきたり」
(でも、そんなこと起こらないはず)
ニナは、自分の嫌な予感を打ち消しそうと懸命だった。
(獣が、不意に気が荒くなることも、予想のつかない行動をすることも、きっとある。生き物なんだもの……)
だから、これは、ただの偶然。
(黒い霧の獣は、私が全部消したもの)
しかし、ジュードの話はニナが最も恐れていたところに行きつく。
「その中に、絶対いるんだって。変な黒い霧をつれた獣が──」
「ニナ、どうしたの?」
「え?」
ジュードの話を遮り、カリーナがニナを心配そうにのぞき込んできた。
「顔が青いわ」
「悪い」
カリーナの指摘に、ジュードが慌てた。
「怖い話だったよな。悪い、俺も見たことは無くってさ。噂だよ噂」
「もう! 変な噂聞かせないでよ」
「だから悪いって」
「ううん──平気。ごめんね」
喉が干上がったみたいだった。声がかすれている。
その問題は、終わったはずだ。ニナが終わらせた。だから、きっとただの噂だ。誰かが勘違いしたのだ。
ニナは、自分の不安を無理やり押し込めて笑った。二人の方へ、バスケットを押し出す。
「食べよう! せっかくの楽しいピクニックなんだもの!」
「いや、ただのピクニックじゃなくってさ……」
ジュードは不満そうだった。
「え?」
聞き返したニナに、ジュードは鼻の頭をさすった。
「カリーナに頼んでよかった。本当に、ニナとゆっくり話してみたかったんだ」
「ジュード……」
視界の端に、カリーナがにまにまと笑っているのが見えた。両手でこぶしをつくり、がんばれ、と口を動かす。
それは、ジュードに向けたものなのか、ニナに向けたものなのか。
「まだ不便なこととか心配なこととか一杯あるだろ?」
「ううん。みんなが親切にしてくれるから」
ニナは、まっすぐなジュードの視線を感じながら、もじもじと自分のスカートをいじった。
「なのに、食堂で働いてる時はいつも笑顔でさ。俺、ニナがいるときに行くと、凄く癒されて」
「そんな……私だって。ジュードが来てくれて、いっぱい話しかけてくれるから嬉しい」
「本当に?」
ニナは俯きながら頷いた。ジュードの笑顔も声も明るくて元気になる。一緒に話すのは楽しかった。
「だから、もしよかったら、時々こうやって遊ばないか。もちろん、カリーナも一緒で。いつか、二人で出かけられたら、嬉しいんだけど……」
「ジュード、ニナ……」
ひそやかなカリーナの声が、呼びかける。
ニナとジュードは返事をしなかった。カリーナが囃し立てるために、気を引こうとしているのだと思ったのだ。
「ねぇ、ジュード、ニナってば」
声が少し大きくなる。しかも震えている。何かあったのだと気づき、二人はカリーナを見た。
カリーナは、二人を見ていなかった。遠くを見つめ、ぽかんと口を開いていた。腕が持ち上げられ、どこかを指さした。
「あれ……」
ニナとジュードは、カリーナの指の先をたどる。
「黒い霧の獣って、あれ……?」




