14 勇者、不穏案を撤回しない
世界から音が消えた。
耳の奥でキィィィンという耳鳴りだけが響いている。
「……は?」
オグの言葉が理解できない。
いや、理解したくない。
シアンも果実酒のコップを口元に止めたまま固まっている。
「……はぁ?」
俺とまったく同じ表情で、同じ声を出す。
「いや、考えてみて」
オグは笑っていない。本気だ。
「俺がモンスターのボスになるとするじゃん。そうしたら『人間を食べない』『人間の居住エリアに入らない』『関わらない』って規則を決められるでしょう? めちゃくちゃ平和になれそうじゃない?」
「バカか!」
「軽々しく言うな!」
俺とシアンの怒鳴り声が綺麗に重なる。
オグは不服そうに眉を寄せ、肩をすくめる。
「なんで怒るんだよ。でもさ、俺って勇者やるよりも、そっちの方が向いてそうじゃない?」
「そんなわけねぇだろうが!」
「なんで!? 人間の言葉は分かるから、交渉も橋渡しもできるし、好きなだけモンスター研究もできる。すっごくいい案だと思わない?」
「いい案じゃねぇ! 勇者がモンスター王になるなんて、想像しただけでもヤバいんだろうが!」
叫びながら、自分の足元が崩れていくような感覚に襲われる。
俺たちは、今、まとめて奈落に向かっている。
しかも、その原因が勇者だ。
恐ろしいことに、オグは多分、本気だ。
目が据わっている。
――――こいつ、マジでやりかねない!
シアンが深々と溜息をつく。
「……おめぇなぁ。もし、だ。もし。もし万が一、ありえねぇくらい小さな確率でモンスターが従ったとしてもよぉ」
「うん」
「その時点で、人はおめぇを勇者じゃなく、モンスター扱いしちまうぞ。おめぇは即討伐対象だ」
「あ……」
「そうなったら、本当におめぇの言うことを聞くと思うか? モンスター嫌いな人間が」
オグは少しだけ考えてから、顔を上げて頷いた。
「うん、それもそうだね。無理か」
「簡単に納得すんな!」
俺の怒鳴り声が、夜気にこだまする。
オグはそんな俺を見て、ふっと笑った。さっきまでの静かな表情に、少しだけ見慣れた顔が混ざる。
「冗談だって」
「いや、半分本気だろ」
「え……なんで分かるの?」
「分かるわ!」
怒鳴った拍子に小さなモンスターがびくっと跳ねた。そのままオグの服に顔を埋め、隠れようとする。
「あぁあ、ユーイが怖がらせた」
「俺のせいかよ⁉」
シアンは堪えきれずに吹き出した。
「おめぇも敵認定されてがやんの」
「お前は黙ってろ、シアン!」
透明な笑い声が、夜空へ吸い込まれていく。
だが胸の奥に残ったざわつきだけは消えていない。
オグはまた無表情でモンスターを撫でている。
あれだけ騒いでいたのに、黒い油で汚れた指先を気にする様子もない。
――――俺たちは、一体何を召喚したんだ
もう『勇者』と呼んでいいのか分からない。
◇
――――……寝れねぇ……
最初の見張りは俺だった。今はシアンの番だ。
見張りの原因はオグのすぐ上に乗っている黒いモンスターである。
結局あの後、必死にしがみついているそいつをオグから引きはがすのは諦めた。引きはがしたところで鳥籠も意味はない。あの状態のオグが見ている前で殺すのも、さすがに気が引けた。
焚火は小さくなり、どこかで夜の虫が鳴いている。風に揺れた枝がぶつかり合って小さな音を立てる。
呑気に眠っているオグを見る。
――――俺は今まで、オグを勇者として認識していなかったのに、勇者というイメージを押し付けていた
オグの軽さも、呑気さも、好奇心も、すべては危機感が足りないせいだと思っていた。
だが違った。
オグが寝返りを打つ。
視線を向けると彼の鎖骨のくぼみにモンスターが頭を乗せている。親指ほどしかない小さな体が、オグの呼吸に合わせてゆっくり上下する。
モンスターは眠っていない。
身動きひとつせず、炭みたいな瞳でじっと俺を見返してくる。
オグに危害を加える気配はない。
『俺がモンスターの王になればよくない?』
彼の言葉を思い出して大きく溜息をつく。
モンスターが人間に害をもたらすのは、頂点に立つ役がいないから。だったら自分がなっちゃえ。
あまりにも飛躍している。
常識がなさすぎる発想なのに、妙に筋が通っている。
それがひどく気味悪い。
――――誰よりも勇者らしくなく、だが誰よりもこの世界を変えてしまいそうな男
それが『モンスターの王』程度で終わるのなら、まだマシなのかもしれない。
「……おめぇ、寝れねぇって顔してんな」
背後からシアンの低く抑えた声がする。
振り返ると、シアンが近くの木の幹にもたれて俺を見ている。
「ちゃんと起きてたのか」
「おめぇの顔があまりにもうるせぇから、寝られねぇんだよ」
言い返す元気すらない。
シアンは小さく欠伸をしながら、焚火に新しい枝をくべる。
パチパチと火が弾け、明るくなった炎が彼の顔を照らす。
「あれが引っかかってんだろ」
「なんだ?」
「『モンスターの王』」
俺は黙って身を起こした。
俺が動くと、オグの上にいた小さなモンスターが落ち着かなさそうに身じろぐ。だが俺が近づかないと悟ると、またオグの鎖骨に小さな頭を戻す。
「ありゃ、マジだったぞ」
「やっぱ、お前もそう思うか」
シアンは鼻で笑い、俺の横に腰を下ろす。
「マジでこの世を救うか滅ぼすか、だな」
「怖いこと言うな」
だが俺も同じことを感じている。
「……あいつは……」
言いかけて、口を閉じる。
自分でも、何を言おうとしたのか分からない。
シアンは毛布を掴んで俺の頭に放り投げる。
「もう寝ろ。明日は村に行くんだろ。考えんな」
「いや、あのモンスターがいたら村は行けないだろ」
「いいから。とりあえず寝ろ。今すぐ寝ろ」
「無茶言うな」
張り詰めていた緊張がふっと抜けて、少し笑う。
結局、俺はほとんど眠れなかった。
空に薄っすらと色が差し始めるころ。
「おはよう!」
信じられないほど機嫌のいいオグが目を覚ます。
昨日、世界や歴史を覆しかねないことを言い出した男と同一人物とは思えない。
「うっわ⁉ なんで俺、手と顔が油だらけなんだ⁉」
モンスターの黒い体液を見て叫んだかと思うと、いきなり静かになる。服の中を見て固まっている。
「オグ?」
心配して声をかけると、彼はいきなり物凄い顔で顔を上げた。
「なんか昨日の白い球体……いっぱい貰った」
「は?」
オグは服の胸元、折り重なった布の隙間を少し広げて見せる。中にはびっしりと黒い唾液にまみれた白い粒が詰まっている。隙間の奥にまで、ぎっしりと。
オグが動くたびに胸元からカシャカシャと小さな音がする。
モンスターはオグの手のひらの上でしたり顔で俺を見る。両手をべろべろと舐め、そのまま頭の毛を撫で始める。黒い体液がべっちょりと奴の毛を濡らす。
「……気持ち悪い毛づくろいだな」
「うん、このヌルヌル本当にキモい。でもプレゼントは、最高」
オグは本当に嬉しそうに、服の中からその白い球体を取り出していく。
だが虫の卵みたいに隙間の奥までぎっしり詰め込まれたその粒は、どう見ても得体が知れない。
「きっもち悪ぃ!」
シアンの声にモンスターがビクッと跳ねる。すぐに毛づくろいを中断して、オグの手にしがみつく。
「やっぱ一番シアンを怖がるよね」
「はっ、自分の敵をちゃんと分かっていやがる」
少し小馬鹿にしたシアンを横目にその白い粒を覗き込む。いつ吐き出したのか、本当に大量だ。
「で、それって結局なんなんだ?」
「さあ? でもやっぱり何かに使えそうだから取っておこうよ」
「おめぇのその好奇心、やっぱブレねぇな」
笑いごとじゃないのに、シアンは肩を震わせている。
オグは白い球体を指先で転がしながら、何でもないことのように言う。
「でもさ、やっぱり昨日のモンスター王案って結構よくない?」
「まだ考えていたのかよ⁉」
気づいたら賭場を飛ばしながら怒鳴っている。
「いや、だって冷静に考えてみてよ。勇者ってモンスターから見れば大量殺人者じゃん? でも王なら平和的にまとめる役だし――――」
「考えるな! つうか、変に冷静になるな!」
「だって殺すより話し合いの方が平和じゃん!」
「お前が言うと全然平和に聞こえねぇんだよ!」
「なんで⁉ 俺、結構モンスターと相性いいじゃん」
「そこを誇るな!」
俺が怒鳴るたび、震えていたモンスターはオグの腕を駆け上がり、彼の懐に潜り込む。
最悪だ。完全に俺が弱いものいじめしているみたいな気分になる。
シアンが鼻で笑う。
「怯えさせた後で優しくすりゃ、すぐ懐くぞ」
「最低な知識を披露するな! 調教してどうするんだよ!」
オグは楽しそうに笑う。
いつもの調子で。あのいつもの呑気で、明るくて、ずれているオグで。
それなのに。あれを冗談だと笑い飛ばせるほど、俺はもう楽観できなくなった。
「ねぇ、村に着いたら聞いてみよう」
「……何をだよ」
オグは白い球体をひとつ摘まみ上げ、嬉しそうに笑う。
「これ、食べていいやつかどうか」
「やめろぉぉぉ!」




