第2話 お嬢様の憂鬱
むふー、と。
白詰氷華はセダンの後部座席で河豚もビックリするくらいに頬を膨らませていた。車窓に流れるのは一軒家と田畑が入り混じる郊外の光景。生まれ育った三重県中部の街並みだ。
「まったく、どうして氷華がこんな事を……」
初等部の生徒と見紛う程に小柄な体格も相まって、不貞腐れる姿はお盆に無理やり親戚の集まりに連れて来られた子どもみたいだった。実際の心境も似ているのだろう。何せ、急に舞い込んできた『家の事情』で折角の夏休みが潰れるのだから。
「あまり表情に出すのは良くないですよ、氷華お嬢様」
真面目な顔で苦言を呈したのは、運転席に座る初老の男性だった。白髪の交じる短髪をオールバックに決めた男性は、熟練のタクシードライバーみたいなハンドル捌きでガラガラに空いている早朝の伊勢自動車道を運転しながら、
「お嬢様は白詰家を、いえ明峰家を代表して任務に臨むのです。お嬢様の言動は全て『家』の看板を背負っている事をお忘れなく」
「分かっています! 早崎の説教は聞き飽きました!!」
「ご理解いただけたようで結構です。気を悪くされたのなら謝ります。これも執事の仕事ですから」
早崎と呼ばれた執事は、ふっと表情を緩めてバックミラー越しに氷華に視線を向ける。フン、と不機嫌度MAXのお嬢様はこれ見よがしにそっぽを向いてみせた。青雪色のショートカットで雪の結晶を模した髪飾りが朝日を受けてキラリと光る。
別に、氷華も事情を理解してない訳ではない。彼女だって界術師の息苦しい世界で生まれ育ってきたのだ。この程度の理不尽は想定内。『家』の仕事でプライベートを犠牲にするのはよくある事。ただやり場のない怒りを飲み込めず、誰かに矛先を向けてしまう辺り、やはりまだまだ一人前には程遠い。
ちなみに、執事やお嬢様という単語が当たり前に飛び交っているのは、白詰家が『始まりの八家』の本家に近い立場にあるからである。現代日本に生きながら伝統と格式を重んじる界術師の世界では、こういう旧態依然とした階級社会が今でも深く根付いている。
ふわぁ……、と漏れ出しそうになった欠伸を無理やり噛み殺す。どうやらハイブリッド車の静かな走行音のせいで、倒したはずの睡魔が復活してしまったらしい。
時刻は午前七時。
夏休みで生活リズムが崩れている事もあり、久しぶりの早起きはかなり堪えた。明日に備えて早く布団に入るもなかなか寝付けず、ベッドの上でゴロゴロ転がること深夜まで。完全に寝不足だ。結果として寝坊してしまい、寝癖だって完璧に直しきれていないし、顔だって鏡を見たくない程にむくれている。
本来なら色々と直してから出掛けるべきなのだが、やる気スイッチがオフになっているせいで最低限の準備だけで妥協していた。年頃の女の子として色々アウトな気もするが、ラクニルの制服を着ていればマトモに見られるため問題はない。
伊勢関インターを越えた所で、早崎の運転するセダンは名阪国道へと入った。
三重県北部から始まり、直進すれば奈良県東部まで続いている自動車専用道。平日の昼間あれば多くの輸送トラックが往来するバイパスであり、県北部や伊勢湾に面する沿岸部から内陸部へ移動する際に利用されていた。
「ねぇ、早崎」
頬の横に垂れた髪を触りながら、気落ちした声で切り出す。
「率直な意見が欲しいんですけど、今回の任務は本当に氷華で良かったんでしょうか?」
「と、言いますと?」
「今回の任務は、白詰家を守る為の物なんですよね? 失敗すれば、間違いなく『家』の看板に傷を付けます。内容だって廃棄された天城家の『施設』と、正体不明の侵入者の調査……どう考えても氷華には荷が重すぎます」
「そうでしょうか? 私は適任だと思いますけどね」
不安そうに両目を伏せる氷華とは対照的に、早崎は迷いなく言い切った。
「奥様も言っていましたよ。ラクニルでは風紀委員会に所属して、四月には賊を二人も打ち倒したと。素晴らしい成果です、ラクニルに通い始めた頃と比べて見違えるようですね」
「……褒めるなら、直接氷華に言ってくればいいのに」
「なんと?」
「何でもないです。そもそも、大して活躍なんてしてないですよ」
思い出すのは、ラクニルで経験してきた今までの戦い。
活躍したと言っても、それは特班が打ち立てた成果であり、白詰氷華としてではない。いつも霧沢直也や今津稜護、御代僚の後ろで守ってもらってきた。前に出た事もあるが、結局最後は誰かの手を借りている。天風島での戦いでも、憎たらしいライバルの助言がなければ戦力にすらなれなかった。
言ってしまえば、脇役止まり。
自分一人の力で何かを成し遂げたという実感が得られていないのだ。
「自信を持ってください、お嬢様は確実に強くなっています。それに今回のお仕事はあくまで監視です。実際の調査は早乙女殿が用意した同行者に任せておけばいいのです。それに今回の任務は、正式な物ではありません。危なくなったら逃げてしまえば良いと思えば、随分と気が楽になりませんか?」
「そうですけど……その同行者ってのが一番憂鬱なんですよ。誰が来るかは知らないですけど、絶対に氷華を変な目で見てきます。なんで中学生がこんな所にいるんだって」
調査任務の段取りを組んだのは、特班の顧問教師である早乙女京子だ。寺嶋家の分家関係者であり、昔から白詰家とはプライベートな付き合いがある。今回の件も、表沙汰にできない失態を犯して困った挙句、信用できて、顔も広い早乙女に泣き付いたという流れだろう。
氷華からしても歳の離れた姉という印象であり、学校ですれ違っても先生という感じがしない。良い意味で距離感の近い存在だ。
そんな仲の良いお姉さんなのだが、何度訊いても任務の同行者を教えてくれなかった。ただ意味深に微笑んでいるだけ。早乙女が楽しそうにしているのは何かを企んでいる時だと過去の経験が叫ぶ。そのせいで猛烈に嫌な予感に苛まれていた。
「――アイツなら」
トンネルに入って、車内が濃い闇に満たされる。
「はい?」
「お姉ちゃん……白詰陽華なら、きっと何も迷わずに上手くやってのけるんでしょうね。誰に言われずとも望まれた役割を演じ切って、始めから全部知ってたみたいな顔で、これが当たり前なんだって言って……そういうトコ、本当に、きらい」
ぞっとするほど冷たい声だった。
唇の端を片方だけを持ち上げた歪な嗤い。凪いだ湖面を想起させる静謐な瞳は、錆び付いたみたいに昏い光を帯びる。今にも壊れそうな脆い表情に滲むのは悔恨と諦観か。
かつて、白詰氷華は選択を誤った。
無くした物は家族の暖かい時間と、大好きだったお姉ちゃん。本家や分家といった界術師の窮屈な世界が原因であり、まだ幼かった氷華には最初から何もできなかった。とは言え、幼い少女の迂闊な行動が家族の繋がりを引き裂いたのは紛れもない事実なのだ。
失った絆は、今もまだ取り戻せていない。
両親とはもう何年も口を利いていなかった。ラクニルに通っているため、長期休暇以外は顔を合わせない事も気まずさに拍車を掛けているのだろう。姉である白詰陽華との関係は言うに及ばず。危険を顧みずに特班に入ったのだって、風紀委員会に所属する姉に負けたくないという一心があったからだ。
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
選択を間違えさえしなければ、こんな最悪な結末になる事はなかったのに。
そう、ずっと後悔してきた。
後ろばかりを振り返ってしまい、なかなか前に進む事ができなかった。
そんな時に、霧沢直也と出会った。
後悔をしない。
例え未来の自分だとしても、苦悩や葛藤の末に辿り着いた決断を批判させはしない。それは過去の自分の否定。そこまでの歩みの全てを無意味だと切り捨てる愚行に他ならないから。
その言葉は、一瞬にして凝り固まった氷華の心を打ち砕く。一寸先すら見えない暗闇に差し込む曙光よりも鮮烈。胸の奥に巣くっていた宿痾が綺麗サッパリ消え去る開放感すらあった。
それがキッカケとなって、いけ好かなかった先輩の事が気になり始め、気付いた頃には恋に落ちていたりする。
トンネルを抜けて大きなカーブを下ると、一気に視界が開けた。ずっと先まで広がる田畑や、巨大な煙突を伸ばした工場を横目に走り抜けること数十分。早崎の運転するセダンは名阪国道を降りて、そのまま山間部の方へと向かっていく。
「天城家の『施設』って山の中にあるんですね」
「表向きには存在しない事になっていますから。お嬢様は、早乙女殿からどこまで聞いていますか?」
「天城家が非公式で保有していた二つの『界術師育成所』の一つ――通称『虎の院』。裏社会で活躍できる界術師を計画的に製造して、販売業者へ斡旋していた……くらいですね」
「その通りです。商流自体は天城家と鎮西家が六家連名を抜けてからも途切れなかったようですね。『虎の院』出身の界術師は優秀な方が多いですから、業界でも重宝されていますよ」
「……詳しいんですね」
「私は元々裏社会の出身ですから。色々あって御当主様に拾ってもらい、こうして氷華お嬢様の傍付きとしてお仕事させていただいております」
早崎の界術師としての腕前は折り紙付きだ。幼い頃から『家』の関係で何度か面倒事に巻き込まれてきたが、その度に何度も命を救ってもらってきた。
「『施設』自体はすでに破棄されています。内部から反逆者が出て、非合法な事が全て世間に露見しましたんですよ。今から三年前くらいですか、あの時は界術師への風当たりが強くなって大変でしたよ」
県道から逸れて、セダンは細い田舎道を山の方へ上っていく。
標高が上昇して自然の色が濃くなるにつれて、民家の数も減ってきた。放置された畑跡には青々とした雑草が生い茂っている。地元の人でも滅多に来ないのか、強い日差しに焦げたアスファルトは岩場みたいにひび割れていた。
「あと有名なのは、『施設』で行われていた人体実験の噂でしょうか」
「人体、実験……?」
「あくまで噂ですよ。『施設』に入った子の多くが命を落とす過酷な環境でしたし、そういう憶測が飛び交うのも無理はないですね。ただ天城家の『施設』出身の界術師は異常な程に高性能なのも事実。それこそ何か違法な方法でドーピングしてると勘繰りたくなる程に」
「……、」
一つだけ、氷華には心当たりがあった。
思い出すのは四月の記憶。特班を設立させるため、霧沢直也と一緒に違法薬物について調査している時だ。
「(直也先輩は無理やり界力演算領域を三倍に拡張させられたって言っていた。天城家の『施設』出身で、界力活性剤にも過剰に反応していた。それって、つまり……?)」
何か、分かりそうな気がした。
点と点が繋がって、線になる感覚。
それでも睡魔が攻勢を強めてきたせいで、上手く思考が纏まらない。うとうとしながら車に揺られていると、いつの間にか窓の外の景色は深林に変わっていた。青々とした葉を鬱蒼と繁らせるのは、背の高いスギの木だ。
「着きましたよお嬢様。さあ、お仕事の時間です」
「……分かりました」
ドアを開けた途端、肌を焦がす猛烈な熱気と蝉の大合唱に襲われた。針葉樹林の隙間を貫くのは容赦ない真夏の陽射し。数秒も経たずに空調の効いた車内に戻りたくなったが、我慢して土が固められただけの狭い駐車所へと足を付けた。
あれは、何かの観測所だろうか。
ぽつんと建っているのは、机や機材を入れるだけで精一杯の木造の小屋。その後方は崖になっていて、渓谷でもあるのか水の流れる音が聞こえてくる。バーベキューや川釣りといったアウトドアをするには適した砂利の川瀬が容易に想像できた。
「同行者の方はすでに到着されているようですね」
駐車場にはレンタカーと思われる乗用車がすでに停まっている。乗っていた人は小屋の向こう側にいるのだろう。微かにだが話し声が森の音に混じって聞こえてくる。
「(さっさと終わらせてしまいましょう。ウダウダ考えても仕方がないですし)」
欠伸を噛み殺しながら、木造の小屋へと近づいていく。
そして――
「……気持ち悪い……車に、酔った」
「直也君、本当に乗り物は駄目なのね。どう、大丈夫そう?」
「何とか……少し休めば、回復しますから」
ピキィッ!! と全身が凍り付いた。
ラクニルの制服を着た少年と、心配そうな顔で彼の背中を摩る女性が、同時に視線を向けてくる。その瞬間、頭の中が真っ白に染まった。
「え、氷華? どうしてここに……ああ、そういう事か。先生も人が悪いですよ、氷華が同行者ってなら秘密にしなくても良かったじゃないですか」
「そこはほら、心持ちの問題よ。前もって知り合いが同行者だって伝えると緊張感に欠けるかもしれないでしょ?」
「俺に限ってそれはないですよ。半年前までは裏社会が本業だったんですから」
呆れた調子で言いながら、霧沢直也――現在、白詰氷華が絶賛片想い中の相手が立ち上がる。
さらりと纏まった黒髪に、水晶の奥光りを想起させる冷たく鋭い眼差し。言動や思考は高校生とは思えない程に大人びているのに、中性的な顔立ちやそこまで大きくない背丈のギャップが何とも愛おしい。乗り物に酔ったり朝が苦手だったりと弱点も多く、歳上なのに母性本能をくすぐってくるから困ってしまう。全体的に好印象過ぎるかもしれないが、恋する女の子の視界には常にキラキラエフェクトが掛けられているのだ!
「よろしくな、氷華。同行者が氷華なら俺も気が楽だよ」
気さくな笑みを浮かべて、霧沢が完全にフリーズした氷華へと近づいて行く。
「それにしても酷い顔だな。寝不足か? 氷華ってしっかり者ってイメージだったから、なんか気が抜けてるのって新鮮だな」
さて、ここで問題です。
不意打ちで意中の相手に、寝癖の残る間抜け面を見られた時の花も恥じらう乙女の気持ちを述べよ。
「な、」
「?」
「な、ななななななんで直也先輩がここにいるんですかぁーーーーっ!!」
ぎゃああああああ、と壮絶な悲鳴を上げて駐車場に停まるセダンへとトンボ返り。
意味が分からないと首を傾げる霧沢を見て、全てを理解している特班顧問だけがお腹を抱えて笑っていた。
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