第1話 夏休みの依頼
三重県四日市市。
石油コンビナートなど多くの工場が沿岸部に広がる東海地方でも屈指の工業都市だ。人口は約30万人。政令指定都市である愛知県名古屋市からも交通の便が良いため、ベッドタウンとして利用されている。また高速道路で関西へもアクセスしやすい事を背景に、県庁所在地の津市と同等以上に発展していた。
そんな四日市市の中でも比較的沿岸部に近い街中。正確には、日本の私鉄で最も長い路線距離を誇る鉄道会社の駅近くの商店街。霧沢直也はこじんまりとした喫茶店の席にて、眉間に皺を寄せていた。
「すいません、もう一度言ってもらえますか?」
「廃棄された天城家の『施設』――虎の院。そこを直也君に調査して欲しいって言ったのよ」
早乙女京子は苦笑いを浮かべつつ、磁器製のミルクピッチャーを使ってアイスコーヒーの黒色を薄めていく。特班の顧問教師であり、寺嶋御三家出身でもあるお嬢様。ドレスで着飾ればそのまま社交界に出られそうな歳上のお姉さんは、ストローでグラスを掻き混ぜながら、
「直也君がラクニルに来る前……正確には裏の五本指『黒い剣戟』と出会う前なのかしら? かつて長い時間を過ごした場所なんだから、他の誰に依頼するよりも直也君の方が適任だと思ってね」
「確かに、理屈ではそうですけど……」
白い襟付きのノースリーブにタイトスカートを履いた女教師に剣呑な視線を浴びせてから、アイスコーヒーのストローを軽く噛む。
「もしかして、癇に障った?」
「……少しは」
「配慮が足りなかったのなら謝るわ。でも、直也君にお願いしたいって気持ちは本当よ。今回の依頼主は私の友達でね。ここで直也君が頷いてくれなければ、先生は分家関係者として六家界術師連盟に上申しないといけなくなるんだけど、できればそうしたくないのよ」
界術師と一般人の共生が進む現代日本において、界術師の人権を守るために活動している組織は二つある。
一つ目は東京都霞ヶ関に本部を置く『界力省』だ。界術師や界力術が国益に貢献できるように行政の面から支援する事が仕事となる。
二つ目が『六家界術師連盟』だ。本部が置かれているのは神奈川県九天市――別名、『界術師の街』。界力術に関わる政策や試作品がいち早く導入される実験都市であり、界術師にとっては聖地のような場所だ。六家連盟は法律的な区分では協会に当たるため、日本ナントカ協会といった活動内容が不明な突飛集団と同じく政治的な力は持っていない。
ただ界力術の基礎を創り上げた『始まりの八家』の内の六家が資金を出し合って運営している事から分かる通り、界術師の間では途轍もない発言力を有している。何か問題が起きたとしても、対抗策や方針を決めるのは六家連盟で、実際に政治的な側面から働くのは界力省というのが、ここ数十年の流れであった。
霧沢は冷えたグラスをテーブルに置き、考える時間を稼ぐために視線を遠くへ逃がす。
あまり広くない店内に人影は疎らだった。
昔ながらの振り子時計が示す時刻は午後三時。
調度品や室内灯の重厚なデザインはアンティークめいていて、古い英国絵画で描かれる王宮が思い起こされる。料理や飲み物の値段は少し高めだろうか。そのおかげで駅前にあるチェーン店とは客層が分けられており、学校が夏休みに入ったこの期間でも静かな時間を楽しめていた。
ユリの蕾みたいな形をした室内灯から目を逸らし、再び六家連盟の職員へと向き直る。
「だけど、どうして今更『虎の院』の調査なんですか? あそこは俺達が参加したクーデターで破壊されたはずですけど」
「二日前にね、この辺りを管理する明峰家の分家から――まあ、先生の友達なんだけど、連絡があったのよ。封鎖された『虎の院』へ何者かの侵入を許してしまったって。交戦にまでは持ち込めたんだけど、結局逃げられたそうよ」
「本来なら、侵入者を認識した時点で六家連盟か明峰本家に報告するべきでは?」
「面子の問題でしょうね。侵入を許した上にまんまと取り逃してるのよ。管理する立場からすれば上に報告なんてできない。何とか事態を丸く収めようとして、あの子が私に連絡してきたのよ」
ノースリーブを着た女教師は白く細い両腕を組む。胸部の膨らみが強調されて、薄く開いた胸元に健全な色香が浮かんだ。
つい一週間前まで伊豆諸島沖にある天風島で強烈な真夏の陽射しを浴びていたはずなのに、化粧品広告の女優よりもキメ細かい柔肌は全く日に焼けていない。こういう細かい積み重ねが、男子生徒だけではなく女子生徒からも人気を集める要因になっているのだろう。
「だけど、どうして俺に話が回ってきたんですか? 分家の面子に関わる仕事なら、俺みたいな素人じゃなくて本職に頼んだ方が確実ですよ」
「これが普通の仕事ならね。でも、今回の調査対象は天城家の『施設』なの。はっきり言って、部外者からすれば理解不能。侵入者の目的も分からない以上、こちらも専門家を用意しなければ太刀打ちできない」
「一理ありますね」
「それに本職に依頼すると、事件を隠蔽するために動いたって後で責められても文句は言えない。何か問題が起きた時に、それは致命的に立場を悪くしかねないわ。だから学生である直也君が、偶然事件に遭遇して、解決に尽力したってシナリオにする必要があるってワケ。こんな難しい条件を達成できるのは、去年まで裏の五本指の助手として裏社会で活動してきた直也君くらいでしょ?」
「色々と言ってますけど、差別対象の天城家に深入りしたくないってのが本音じゃないんですか?」
「……そういう側面も否定しないわ。あの子は気にしてないけど、他の人はすぐに受け入れられないだろうから」
十年以上前から過激な思想とテロ行為によって、『始まりの八家』の中で天城家と鎮西家だけは差別対象として世間から冷たい目を向けられている。その状況は六家界術師連盟や界力省の努力で、界術師の印象が改善されてきた昨今も変わりない。実際に、ラクニルへ入学した当初は随分と酷い目に遭ったものだ。
「仕事として依頼する以上、しっかりお礼もさせてもらうわ。直也君だって、本土にいる間の軍資金は少しでも多い方がいいでしょ?」
「そう、言われましても……」
「それとも、何か他にやる事が?」
「オッサンが……黒い剣戟が、行方不明なんです」
カラン、と。
生まれた一瞬の沈黙を埋めるように、アイスコーヒーのグラスで氷が鳴った。
「元から根無し草で日本中を放浪していたんですけど、相川さん……えーと、書類上で俺の保護者になっている人で、この人にだけは居場所を伝えていたんです。仕事の斡旋やお金の管理は、相川さんの役目でしたから。だけど、もう一ヶ月以上連絡がないんです」
「その相川さんは、どちらに?」
「九天市です。繁華街にある雑居ビルの一室でスナックを経営していますよ。職業は『仲介屋』。人、仕事、武器、情報、金……ありとあらゆる物を繋げるのが仕事です。胡散臭いオバサンですけど、業界ではそこそこ有名みたいですね」
天城家の『施設』から出て黒い剣戟と旅をするようになってからも、この仲介人のオバサンにはかなり世話になった。今だってラクニルでの生活費は全て彼女からの仕送りで賄われていたりする。
「ただ、俺も相川さんも本気で気にしてる訳でもないんですよ。オッサンの放浪癖は今に始まった事じゃないですし、何よりあの人は『五本指』なんです。心配するだけ無駄でしょうけど、何もしないってのは薄情かなと思って、心当たりのある場所を巡ろうかと考えているんです」
五本指――たった十人しかいない黒い界力光を放てる怪物達。
存在が公にされ、政府に運用を管理された表の五本指。裏社会に精通した人しか知らない裏の五本指。単騎で莫大な戦力を発揮するため『核兵器を持てない国が保有する抑止力』と、諸外国の軍事関係者から恐れられる存在である。
「だったら、こういう条件はどう?」
早乙女が身を乗り出すようにしてテーブル越しに近づいてきた。バニラ系の香水がふわりと鼻腔に触れる。
「この依頼を受けてくれたら、私が個人的に黒い剣戟の情報収集を手伝ってあげる。寺嶋家の記録書庫にもアクセスできるし、知り合いの優秀な情報屋にも話を聞ける。直也君にとって、かなり都合の良い話だと思うけど」
確かに、悪い話ではない。
実際の所、黒い剣戟の情報は全く集まっていなかった。心当たりがない訳でもないが、夏休みを費やして聖地巡礼をしたとして手掛かりが見つかるとは限らない。座して正確な情報が手に入るのであれば願ったり叶ったりだ。
「調査をして欲しいと言いましたけど、具体的にどこまですれば?」
「侵入者を捕まえるか、その正体を暴いてくれたらベスト。だけど無理はしないで。もし少しでも危険だと判断したら引き返してもらって構わないわ。今回の一件、何が起きても外部から助けは来ないと考えてちょうだい」
あくまで偶然事件に出くわした体を装わなければならないのだ。始めから重装備だったり、大人数で突撃したりしては意味がない。分家関係者である早乙女や、依頼主である明峰家の分家は、立場があるせいで迂闊に動けないのだろう。
「最低でも侵入者の目的を判明させて欲しいかな。三年前に破壊されて封鎖されたはずの『施設』に、どうして今更侵入を試みたのか。それさえ分かれば対策が立てられるし、明峰本家にも六家連盟にも最低限の報告ができるから」
「目的、か」
「心当たりがあるの?」
「……そうですね」
心当たりが全くない、と言えば嘘になる。
無視したとして何か問題になる可能性は限りなくゼロに近いが、万が一という事もあり得る。であれば、確かにこれは霧沢直也の仕事かもしれない。確実な安心を保証する事も、一人だけ生き残った者の使命なのだから。
「分かりました。では、オッサンの情報提供を条件として、先生の依頼を引き受けます」
「ホント!? ありがとう、助かるわ!」
ほっと安堵の吐息を漏らした早乙女は、柔らかく表情を緩める。体の動きに合わせて、高い位置で一房に括られた長い黒髪が小さく揺れた。
「でも、頼んでおいてどの口が言うんだって思うかもしれないけど……本当に、良いの?」
「何がですか?」
「クーデターの事よ。私だって記録で知っただけだけど、直也が壮絶な過去を経験してしてる事は理解してる。虎の院には、思い出したくない記憶も残っているんじゃないの?」
「……別に、何も気になりませんよ」
グラスに残っていたアイスコーヒーをストローで吸い込み、舌に乗った冷たい苦みを嚥下した。
後悔をしない。
たとえ未来の自分にだとしても、決断を下した尊い心を否定させたくないから。
ずっと、そうやって生きてきたのだ。
であれば、今更過去と対面したとしても問題はないだろう。
「そう? 流石は夏越家当主の夏越邦治様に向かって『世界を変える』なんて啖呵を切った直也君ね」
「やめてください、あの時は頭に血が上っていたんですから」
「そう言えば聞いた事なかったけど、直也君は世界を変えて何をしたいの?」
「……何を、ですか?」
「ええ。停滞した界術師の世界を変えた後で、一体どんな景色を見たいのかなって思って」
考えてみても、答えは浮かんで来なかった。
変えたい物はすぐに答えられるのに、望む未来の形は全く見えてこない。
それが。
少しだけ、胸中に昏い翳を落とした。
「言いにくい事なら無理しなくても良いわよ、ちょっと興味があっただけだから」
ブルーのミニバックに荷物を纏めると、早乙女はレシートを持って立ち上がった。
「今から段取りを組むから、実際に動くのは明日からね。早朝に移動して、午前中には調査を始める感じかしら」
「……俺、朝が弱いので早起きは苦手なんですけど」
「そこは何とかしてちょうだい。駅前にホテルを取るから今夜はそこを使って。ああそれと、任務中は管理者の家から同行者が着くからそのつもりで」
「天城家出身の俺が怪しい事をしないように監視でもするんですか?」
「そう言う意図もあるでしょうね。だけど安心していいわよ。相手は、直也君も良く知っている子だから」
そう言うと、特班の顧問教師は意味深にウィンクをしてみせる。色っぽい仕草なのに、イタズラを仕掛けた子どもにしか見えなくて少し不安になった。
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