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王手  作者: ちか
3/3

誤前提選択の結末

誠一視点で(後)直後から。




 青褪めた顔に浮かんだ透明な笑みが、目に焼き付いて消えない。


「あいしてる」


 ぽつん、と落とされた言葉に幾重にも込められた感情が、耳にわんわんと反響し続けて消えない。

 自分のなかに居場所を作る清澄が、不要と捨て去る前に奪われ喪われそうになっていることが、誠一に強い痛みを訴える。

 誰かが呼んだ救急車やパトカーのサイレンも耳に入らず、逃げることもしない和臣の哄笑に変わった声も構わず、誠一は清澄を抱き締めて必死に流れる血を止めようとする。


「清澄、清澄、目開けろ。頼むから開けろ、開けろ……っ」


 自分がこんなにも必死な声が出せたのかと、誠一は笑いだしたくなった。

 清澄ならば手を叩いて、涙まで浮かべながら大笑いすること間違いなしだ。いっそ、それを期待しながら誠一は繰り返す。次第に荒々しくなる声に喉が破けそうになっても、清澄は目を開けない。

 駆けつけた救急隊員が半ば錯乱する誠一からなんとか清澄を預かって救急車へ乗せていく。なんとか同乗することはできたが、警察からの事情聴取などもあり、命に別状はなく病室で眠る清澄のもとへ訪れることができたとき、そこには清澄と、清澄を刺した和臣の両親がいた。

 誠一の顔を見るなり鬼の形相で掴みかかってきたのは母親のほうで、誠一は何度も何度もその頬を張られた。しまいには持っていた鞄を繰り返し叩きつけられたが、全て堪えて抵抗はしなかった。


「お前のような屑が……っ」

「そうよ……そうよ! あんたさえいなけりゃ清澄はこんなことにならなかった! あんたさえ、あんたさえいなけりゃ和臣は清澄を……っ」


 男の罵倒に反応した女が、とうとう誠一の足元に泣き崩れた。

 誠一はきつく目を瞑り、胸に詰まるものを吐き出すように深く息をする。

 ゆっくりと開いた瞼。視線を動かせば、この騒ぎのなかでも目を覚まさない清澄がいる。

 大丈夫だ。

 清澄はまた目を覚ます。

 大丈夫だ。

 誠一はその場に両膝を突いて、きっちりと指先を揃えた両手をも突いて額を床に擦り付けた。


「ご両親のお怒りは御尤もです。お二人を悲しませるような事態を招いた一端は、確かに私にあります。誠に申し訳ございません」


 いまは誠一の謝罪など神経を逆なでする要因にしかならないのだろう。立ち上がった女が上から鞄を叩きつけるように投げて、男が怒鳴りつけてきたけれど、誠一はそっと顔を上げると静かなしずかな、不気味なほどに静かな表情で近くの女を見つめ、彼女がく、と喉を引き攣らせると男を見つめ、それから清澄へ視線を移して微笑する。


「もし……絶対にあってほしくありませんが……清澄の容態が急変し、万一のことがあれば死んでお詫び致します。ご長男に関してですが、幸いというべきか聴取を受けた際にはまだ混乱していたのでろくな受け答えができなかったはずです。私は今後、ご両親の望まれる証言を致します。

 もちろん、私のような屑など幾らでも口先でてきとうなことが言える、と思われるでしょう。紙面などに残せばご両親が後々困ったことになるかもしれませんし、それは証人も同じことです。なので、手付け、という言い方はおかしいですが、先に私なりの誠意をお見せしたいと思います」


 立ち上がり、誠一は静かな笑みを浮かべたまま片手で反対の手の小指を掴んだ。

 指は後ろになら中々反れるものなので、誠一はぴん、と小指を伸ばしたまま横へ倒すように力を加えていく。

 目を見開いていく男女の前で、小指がしなる。


「ま、ちょ、えっ?」

「やめっ、なにをして――」


 ぽきん。

 呆気ない音を立てて、誠一の小指の骨が折れた。

 ぶわり、と誠一の額に脂汗が浮かぶ。呼吸は小刻みに、不規則に、それでも微笑を浮かべて誠一は薬指を掴んだ。


「ッやめろ!」

「いえ……誠意を、誠意を見せなくては……」


 びき、と軋む音がする。


「分かった! もう分かった!! いいからやめてくれ!! もう十分だッ!!」

「ッ十分なわけがあるか!!」


 制止をかける男も、清澄のベッドへ駆け寄ってナースコールを押そうとしていた女も、誠一の怒声に硬直した。


「清澄はもっと痛かったんだ、もっと苦しんだんだ。こんな、この程度で足りるわけがあるか……ッ」


 ばきり、と音を立てて、薬指の骨が折られた。

 静かな表情などどこにもない。

 恋人の身に起きた惨劇に追いつめられ、涙を溢れさせながら嗚咽を食いしばって堪える男の姿に恋人の両親はくしゃりと顔を歪める。

 女が鼻を啜りながらナースコールを押し、駆けつけた看護師のもとへ男が手を貸して誠一を歩かせた。

 眠る清澄は、翌日になってその瞼を開く。




「――あなた、ほんとうに不誠実ですよね」


 起こしたベッドに寄りかかりながら、清澄は呆れた顔をしていた。椅子に座りながら不自由そうにみかんの皮を剥く誠一は「んー?」と態とらしく口角を片方上げる。

 容態が落ち着いてきた清澄が平然と両親のいる病室に顔を出し、二人と談笑を交わす誠一になにをやったのかと訊ねてきたので、清澄の意識が回復する前の出来事を話して聞かせたらこの反応だ。


「最初はもう少しインパクト狙ってリスカも考えたんだが、お前の入院荷物漁るのも間抜けだし、流石に病院側から出禁食らいそうだしで却下したんだが、なにか気に食わなかったか?」

「そりゃ、ひとが実兄に刺されて意識失ってるときに両親へ指の骨二本でまんまと可哀想アピール成功されてたら一言ふた言ありますよ。下手すりゃ脅迫で訴えられますからね?」

「なるべくそうならねえように『これで◯◯してください』なんて言い回ししてねえし」


 誠一は剥き終わったみかんを一粒とって、清澄の口へと運ぶ。素直に開いた唇に満足そうな笑みを浮かべる姿は、以前からすればあまり見られるものではない。

 そんな誠一に思うところでもあるのか、ゆっくりとみかんを咀嚼した清澄は眇めるように目を細める。


「なんだってそんな真似をしたんです」

「たかが指の骨二本で堂々とお前が手に入るなら安いもんだろう」


 事の発端として誠一は遠ざけられてもおかしくはなかった。

 冗談ではない。

 誠一はもう、清澄を奪われるなど我慢がならないのだ。

 自分が手放すなら、よかった。

 けれど、清澄は誠一の意志に関係なく喪われるところであったのだ。

 それはだめだ。

 許さない。堪えられない。

 いつまた奪われるとも分からないなら、ずっとずっと自分の側に、清澄の側に在るべきだ。

 そのためには清澄の両親からの印象を変える必要があり、正しく骨を折ることくらい造作もない。

 和臣に関しての証言は言葉を違えるつもりはないけれど、受け入れられたからこそ時折「度を越したストーカー被害に遭っていた」という苦悩をさり気なく零せば、間違っても誠一一人が泥を被る羽目になることはなくなった。


「俺一人のために、ご苦労様です」


 清澄は肩を上下させて呆れた様子を見せるけれど、誠一は笑いながらあっさりと頷く。


「愛する恋人のためだ、当然だろう?」

「うわ、あなたほんとうに誠一ですか? 折角の病院ですから検査でも受けてきたら如何です」

「必要ない」


 誠一は清澄の手を両手で握り締める。

 固定され、包帯を巻かれた指を見下ろす清澄に、誠一は言い聞かせるように告げた。


「お前だけを、あいしてる」


 震えた清澄の睫毛。

 清澄が誠一の両手から自身の手を取り戻して、しかし両腕を伸ばしてくるので、誠一は傷に障らぬように清澄を抱き締めた。


「ばかですね」


 とびっきり甘ったるい罵倒を囁き、清澄は誠一の肩口に額を埋める。

 腕の中に清澄がいる。

 自分は確かに清澄を取り戻して、もう二度と失うつもりはない。

 そう強く決意する誠一は、伏せた清澄の顔が喜悦に歪んでいたことを終ぞ知らぬままであった。


「――ほんとうに、ばかなひと」

これでおしまい。

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