『感情をもし売れるなら』
「……本当に、売るんですね」
薄暗い店内。
感情売買専門店。
男は、机の上に置かれた契約書を見つめたまま、小さく笑った。
「もう疲れたんです」
掠れた声だった。
「毎日書いて、
毎日読まれなくて、
毎日“才能ないのかな”って考えるの、もう限界で」
店員は慣れた様子で端末を操作する。
「売却する感情は?」
男は少しだけ黙り込んだあと、
喉の奥から絞り出すように言った。
「……創作意欲で」
夢だった。
小説家。
子供の頃、
ノートに書いた物語を母親が読んで笑ってくれた日のことを、今でも覚えている。
“すごいね”
その一言だけで、
世界を変えられる気がした。
でも現実は違った。
新人賞は一次落ち。
SNSは無反応。
生活は借金まみれ。
コンビニの廃棄弁当を食べながら、
ワンルームの天井を見上げて思う。
「……向いてなかったんだろうな」
それでも、
諦めきれなかった。
書きたかった。
認められたかった。
誰かに、
“あなたの作品が好きです”
って言ってほしかった。
「感情売却、完了しました」
その瞬間。
胸の奥で、
ずっと燃えていた何かが、
ふっと消えた。
「……あれ」
男は目を瞬かせる。
苦しくない。
新作を考えなくていい。
ランキングを見なくていい。
感想欄に怯えなくていい。
「はは……なんだこれ」
思わず笑みが漏れる。
「めちゃくちゃ楽じゃん……」
帰宅後、
男は最後に書きかけだった短編を投稿した。
どうせもう書かない。
最後だから。
投げやりだった。
けれど――
翌朝。
通知が、壊れていた。
『涙が止まりませんでした』
『あなたの文章に救われました』
『次回作、待ってます』
『天才を見つけた』
『書籍化してください』
男は、
画面を見つめたまま固まる。
「……え?」
震える指で感想欄を開く。
ずっと欲しかった言葉が、
そこには大量に並んでいた。
――なのに。
何も感じなかった。
「……あれ?」
嬉しくない。
泣けない。
心が動かない。
PCを開く。
真っ白な画面。
いつもなら、
苦しいくらい浮かんでいた言葉が、
何一つ出てこない。
キャラクターも、
物語も、
感情も。
何も。
「……書かなきゃ」
カタカタとキーボードを打つ。
『今日は、いい天気だった。』
そこで止まる。
「違う」
消す。
もう一度打つ。
『彼は、』
止まる。
「違う……違う違う違う」
頭を掻きむしる。
出てこない。
いや。
違う。
“書きたい”と思えない。
その時、
男はようやく理解した。
自分は、
夢を諦めたんじゃない。
夢を見たいと思う心そのものを、
売ってしまったのだと。
数日後。
出版社の編集者が部屋を訪れた。
興奮気味に、
何度も言う。
「先生、次回作を書きましょう!」
「今ならいけます!」
「諦めるのは、まだ早いかもしれませんよ?」
男は静かにPCを見る。
真っ白な画面。
そこには、
もう何も浮かばなかった。
それでも。
その言葉を聞いた瞬間だけ。
空っぽになったはずの胸が、
ほんの少しだけ痛んだ気がした。




