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『石を積む。』

「子は、親より先に死んではいけない」


 


昔、祖母がそう言っていた。


 


親より先に死んだ子どもは、三途の川を渡れないのだと。


川の手前の河原で、小さな手で石を積み続ける。


積んでは崩れ、積んでは崩れ。


鬼が来ては蹴り飛ばし、また最初からやり直し。


それを、親が死んで来るその日まで、永遠に繰り返すのだと。


 


幼かった私は、それをただの怖い昔話だと思っていた。


悪い子を脅かすための話。


夜に思い出して眠れなくなるような、そんな類のものだと。


 


けれど大人になった今なら分かる。


 


あれは子どもへの罰じゃない。


 


親への罰だったのだ。


 


 


新川ありさは、二十九歳だった。


古びた二階建てアパートの角部屋。


壁は薄く、冬は寒い。


窓際には洗い切れなかった食器が積まれ、脱ぎ捨てた服が床に散らばっている。


小さなテーブルの上には、開封したままのコンビニ弁当と、督促状。


スマホには未読の通知が溜まり続けていた。


保育園からの連絡。


職場からの催促。


家賃の確認メール。


無視しているわけではない。


ただ、もう見る余裕がなかった。


 


シングルマザーだった。


元夫は子どもが一歳の頃に出て行った。


最初のうちは連絡もあった。


養育費も、少しだけ振り込まれていた。


けれどそれもいつしか途絶えた。


連絡先を変えられ、実家にも「知らない」の一点張りをされ、追いかける気力も、もう残っていなかった。


 


昼はスーパーで働き、夜は在宅でデータ入力をする。


働かなければ生きていけない。


けれど働くほど、悠斗と向き合う余裕がなくなっていく。


 


五歳の息子、悠斗。


本当は可愛かった。


誰よりも大切だった。


 


小さな手。


眠そうに擦る目。


「おかあさん」と呼ぶ声。


熱を出した夜に、不安そうに服を掴んで離さなかったこと。


初めて「だいすき」と書いたぐしゃぐしゃのひらがな。


 


ちゃんと、愛していた。


 


なのに。


 


「だから何回言えば分かるの!!」


 


ある日、ありさは初めて悠斗を叩いた。


 


ぱしん、と乾いた音が鳴った。


時間が止まったようだった。


悠斗は泣かなかった。


ただ、何が起きたのか理解できない顔で、ありさを見ていた。


 


その目を見た瞬間、ありさの中で何かが崩れた。


 


「……ご、ごめん……」


 


震える声。


慌てて抱き締める。


 


「ごめんね、ごめんね……!」


 


涙が止まらなかった。


こんなことするつもりじゃなかった。


疲れていただけ。


余裕がなかっただけ。


本当はこんな母親じゃない。


 


もう二度としない。


絶対にしない。


 


そう誓った。


 


だが、人は壊れる時、一度では終わらない。


 


数ヶ月後。


ありさはまた、悠斗を叩いた。


 


今度は不思議だった。


 


怒りに任せたわけじゃない。


むしろ頭は妙に冷静だった。


 


――叩いた方がいい。


 


ふと、そんな考えが浮かんだ。


 


――この子のために。


――ちゃんと教えなきゃ。


――これは躾だ。


 


まるで誰かが耳元で囁いたみたいに、その考えが自然に入り込んできた。


 


ありさは、その違和感に気づいていた。


 


なのに。


身体は止まらなかった。


 


それから歯止めは消えた。


 


一度壊れたものは、もう戻らない。


 


止める人はいない。


相談する相手もいない。


 


「助けて」が言えない。


 


言った瞬間、自分が“最低の母親”になる気がした。


だから笑った。


大丈夫なふりをした。


 


けれど家に帰れば現実が待っている。


泣き声。


散らかるおもちゃ。


食べないご飯。


眠らない夜。


 


悠斗が泣くたび、頭の奥で何かが軋む。


 


時折、本当に。


 


子どもの顔が、悪魔みたいに見えた。


 


腹の底から憎しみが湧く瞬間があった。


 


静かにして。


お願いだから。


もうこれ以上、私を壊さないで。


 


そんなことを思ってしまう自分が、何より怖かった。


 


けれどもっと怖かったのは。


 


慣れていくことだった。


 


泣き声に。


痣に。


怯えた目に。


 


母親として終わっていく自分に。


 


それでも、時々思い出す。


 


悠斗を産んだ日のことを。


 


苦しくて、痛くて、泣きながら、それでもやっと会えた小さな命。


自分の胸の上で泣いた、温かい存在。


 


あの瞬間、確かに思ったのだ。


 


“この子を、命をかけて守る”


 


と。


 


なのに。


 


その記憶さえ擦り切れていくほど、ありさの心は削れていった。


 


そして、ある日。


 


悠斗は動かなくなった。


 


 


最初に浮かんだのは、後悔ではなかった。


 


どうしよう。


捕まる。


人生が終わる。


なんで私ばっかり。


この子がもっとちゃんとしてくれてたら。


 


他責だった。


 


人は、本当に壊れると、自分を守ることしかできなくなる。


 


警察が来た。


救急隊が来た。


青いシート。


慌ただしい声。


 


ありさは現実感のないまま連れて行かれた。


 


冷たい取調室。


 


「いつから暴力を?」


「何回叩きましたか?」


「蹴ったことは?」


 


淡々とした声が突き刺さる。


 


答えるたび、現実になっていく。


 


「叩きました」


「怒鳴りました」


「止まりませんでした」


 


口にするたび、自分が化け物になっていく。


 


そしてようやく理解する。


 


もう、戻れない。


 


どれだけ泣いても。


どれだけ謝っても。


どれだけ願っても。


 


悠斗は帰ってこない。


 


世界のどこにも、もういない。


 


その夜。


 


ありさは夢を見た。


 


暗い空だった。


月も星もない。


冷たい風だけが吹いている。


 


目の前には、どこまでも続く河原。


 


そして、子ども達。


 


無数の子ども達が、小さな手で石を積んでいた。


 


積んでは崩れ。


積んでは崩れ。


 


誰も泣かない。


誰も笑わない。


 


ただ、永遠みたいな時間の中で、黙々と石を積み続けている。


 


その中に。


 


悠斗がいた。


 


「……悠斗」


 


声が震える。


 


悠斗は小さな背中を丸め、一つ一つ石を積んでいた。


 


「悠斗!!」


 


ありさは駆け出した。


 


だが、その前に巨大な影が立ち塞がる。


 


鬼だった。


 


焼け爛れた皮膚。


獣みたいな息。


濁った目。


 


その姿を見ただけで、膝が震えた。


 


鬼は低い声で言う。


 


「親より先に死んだ子は、ここへ来る」


 


ありさは言葉を失った。


 


「親が来るまで、石を積み続ける」


 


鬼の声は静かだった。


怒鳴りもしない。


だからこそ、逃げ場がなかった。


 


「お前がやったことだ」


 


ありさは崩れ落ちた。


 


「違……っ、わたし、そんなつもりじゃ……」


 


鬼は聞かない。


 


「こいつは、お前を待ち続ける」


 


悠斗は黙ったまま石を積んでいる。


小さな手で。


何度も。


何度も。


 


ありさは泣きながら叫ぶ。


 


「ごめんなさい……! ごめんなさい……!!」


 


すると鬼は、悠斗を見た。


 


「お前が望むなら」


 


低い声が響く。


 


「こいつを、このまま地獄へ連れて行ってやる」


 


ありさの呼吸が止まった。


 


だが。


 


悠斗は、小さく首を横に振った。


 


「そんなこと、しなくていい」


 


鬼が黙る。


 


悠斗は、ありさを見た。


 


痣だらけの身体で。


それでも。


 


笑っていた。


 


「お母さんは、わるくないんだ」


 


ありさの喉が詰まる。


 


「ぼくが、ちゃんとしてたら」


 


やめて。


 


「お母さんは、本当はやさしくて」


 


やめて。


お願いだから。


 


「ぼくの、大切な人なんだ」


 


その瞬間。


 


ありさは理解した。


 


自分は、この子に許されてしまうのだと。


 


許されてはいけないのに。


憎まれて当然なのに。


 


この子は最後まで、自分を愛してしまうのだと。


 


悠斗は石を一つ積みながら、静かに言った。


 


「いまじゃなくていい」


 


「お母さんが、しあわせに生きて」


 


「その先で、死んじゃった時」


 


「その時、一緒に行こう」


 


鬼は長く沈黙したあと、静かに道を開けた。


 


その瞬間。


河原で積まれていた石が、一斉に崩れる音がした。


 


 


ありさは飛び起きた。


 


冷たい留置場。


薄暗い天井。


 


夢だった。


 


ただの夢。


 


なのに。


 


耳の奥で、今も石の崩れる音が聞こえる。


 


ありさは顔を覆った。


 


そして、生まれて初めて。


 


自分の罪を、自分のものとして泣いた。


 


朝が来ても。


その涙は、止まらなかった。

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― 新着の感想 ―
胸が締め付けられるような、深く重い物語でした。 追い詰められ、不器用な愛さえも歪んでしまった母親の孤独と、命を失ってもなお母を想う悠斗くんの純粋な優しさが痛いほど伝わります。 最後に悠斗くんがあり…
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