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どうしてこんなことになっちゃってるんだろう。
直子は自分の家と良く似た造りの玄関の前に立って逡巡する。
ここに来るのはわりと久し振りだ。高校に入学してからは初めてのこと。前に来たのは中三の終わり、高校の合格と中学の卒業と高校の入学を兼ねたお祝いを貰ったお礼に来たのが最後だから、だいたい半年振りぐらい。
だが期間がもたらす気後れよりもはるかに高い壁がある。
本当なら、ここに来るのは楽しいことのはずだった。
明日の段取りを決めたりとかで、わくわくしているはずだった。
けれど幸福な未来へと通じるチケットはもう手放してしまった。
手放してしまったのに、これから行く先にはそれがある。
一体どんな話を聞かされるのか、まるで想像もつかない──というのは嘘だ。本当は色々と思い当る。でもそれは考えたくないことばかり。
「俺、七美先輩とつき合うことになった。お前のおかげだ」
「俺、七美先輩のこと好きなんだ。これからも上手くいくように協力してくれ」
「七美先輩のことは俺の問題だ。お前には関係ない。余計な手出しをするな」
どれも最低。
とりわけサイアクなのは、全部自分が招いた結果だということだ。
だけどしょうがない。
七美と張り合うなんて、考えることさえ愚かしい。だったらせめて──。
直子はインターフォンのボタンを押した。扉の向こうでチャイムの音が鳴るのが聞こえる。すぐに応答があるかと身構えていたのに、黒いスピーカーは沈黙したままで少し拍子抜けがしてしまう。
だけど考えてみれば、太一が直子の来訪を心待ちにして気を張り詰めさせているなどおよそありそうもないことだ。
もし来ることになっているのが七美なら。太一は家の外で待っていたりするのだろうか。少しでも早く見付けられるように、ただでさえのっぽなのにもっと高く背伸びをしたりして。
それは直子の知っている太一の姿とはおよそかけ離れたイメージ。
だけどきっと。あるいはひょっとして。もしかしたら。
──帰りたくなってきた。
さっきからずいぶんと長いこと待っているような気がする。直子が来ることは分っているはずで、それなのに全然反応がないのはおかしい。もしかすると留守なのかもしれない。きっと急な用事とかで出かけたんじゃないだろうか。そうだそうに違いない。
よし帰ろう。
直子は扉に背中を向けた。
「よう、遅かったな……って、なに帰ろうとしてんだよ、お前」
そっちがいつまでも待たせるからじゃないか、ばーかっ!
叫んだのは心の中だけで、直子はこわごわと振り返った。
「そんな、ただちょっと道路の方見てただけじゃん。怒んなくったっていいでしょ」
口では不平がましくしてみせたものの、目線は下に向けたままだ。頭の上で太一が小さくため息をつくのが分った。
「上がれば」
予想外に冷たい響きに直子は身を竦ませる。しかし太一は直子の様子には頓着せず一人で家の中に戻っていった。扉が閉まる。
「何してんだ?」
閉まり切る寸前、太一が苛立たしげに顔をのぞかせる。
「なんでもない……。お邪魔します」
太一はつっかけを脱ぎ散らかして階段を上っていった。直子はそのつっかけを揃え直し、自分も靴を脱いで框へ上がる。
このまま廊下を真っ直ぐ進めばリビング、右手の階段を上がると太一の自室がある。少し待ってみたものの、太一が下りてくる様子がなさそうなので、直子も二階へ向かうことにする。
太一の部屋に入るのはいつ以来だろう。あれは中学校に入る直前、新しい制服を見に(見せに)行った時が最後だから、もう三年半前のことだ。
次に来るとしたら、今度は高校の終わりだろうか。それとも。
もう二度と、来ないだろうか。
部屋のドアは開いていた。太一は勉強机の前の椅子にこちら向きに座っていた。視線に促されるまま、直子はベッドに腰を落とした。カバーがきちんと掛けられていたおかげで、余り抵抗を感じないで済んだ。まめで綺麗好きな太一のお母さんに感謝する。
「おばさん、いないんだ」
「たぶん買い物。そのうち戻って来んだろ」
直子は幾分ほっとした。もしも今日太一の家でずっと二人きりだとしたら、色々とその、胸が痛い。
何か特別なことが起こるかも、なんて期待して、じゃなかった心配しているわけではなかったが。
「話って?」
思い切って、というよりも間に耐えられなくなって、直子は自分から口火を切った。太一がどんな表情になったのかは分らない。ひたすら藤色のカーペット(少し褪せてはいるが記憶にあるのと同じだ)を見つめていたから。
「どういうつもりだ?」
胸の鼓動が小さく跳ねる。
「どうって、タ、太一が呼んだんじゃない。あたしが自分で来たわけじゃないもん、どんなつもりもないよ」
「そういう意味じゃねえよ。分っててとぼけてんのか?」
「…………」
その通りだった。太一が尋ねているのは七美とのことだ。
直子は膝の間に挟んだ手をきつく握り合わせる。出来ることならいっそ身体を丸めてこの場にうずくまってしまいたい。
穴があったら入りたい、というのは本当は恥ずかしい時に使う言葉なのだろうが、直子はまさにそういう心境だった。とにかく身を隠せる場所が欲しかった。太一に面と向かって詰られるのは辛すぎた。
「迷惑だから。止めてくれ」
そっち、か。
依然として心は苦しかったものの、少しだけ救われた気分にもなる。この言い方からすると、太一と七美はまだつきあってはいない。
でも。
まだ、だ。もう、になるまで後どれくらいだろう。
「うん、分ったよ。自分で頑張るってことだね。ちょっと見直した」
直子は空々しく笑ってみせた。これは儀式なのだ。知らないうちに自分の方だけ止まってしまっていた時間を前に進めるための。
太一は不審げに眉根を寄せた。やはり直子の気持ちは届いていない。太一にとって自分はずっとただの幼馴染みでしかなかったのだ。
本当に馬鹿だ、あたし。
互いにとって互いが一番大切な存在なんだと一人で勝手に決め付けて。太一が直子の気持ちに気付かないのは、子供気分が抜けないせいだと思い込んで。
本当は太一はもうとっくの昔に大人になっていたのに。
「あたし、太一のこと応援するね。上手くいくように祈ってる。いいよね、それくらいならしてもさ」
そしてこの想いはずっと胸の内に秘めておく。
いつかそう、何年も何十年も経って、子供や孫なんかもできて、二人がおじいちゃんとおばあちゃんになったら。
打ち明けよう。
あたしはター坊のことが好きだったんだよって。
ター坊、どんな顔するかな?
その時のことを想像するとおかしくて、でも真面目な話をしている最中に笑い出すわけにはいかなくて。頑張って、我慢して。
そのせいで。
涙が、零れそう。
「いや全然良くねえから」
「…………え?」
直子はごしごしと目元を擦った。
「ごめん、良く聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」
「だからちっとも良くないって。なんだよその上手くいくように、とかってたわごとは。人の望みを勝手に捏造するんじゃねーよ」
「え、だって」
直子は目をしばたたかせる。
「太一、七美先輩のこと好きなんでしょ?」
「俺がいつそんなことを言った」
「確かに言ってないけど、でも……」
思わず口ごもってしまったが、太一の視線に促されて先を続ける。
「あたし、見たんだよ。……ター、太一が、七美先輩と、その、キ、キスしてる……とこ。学校で」
「あー」
やっぱそれか、と太一は嘆息するみたいに言った。
「もしかするとそうじゃないかって思ったんだけどな。でも見てたんなら分っただろ?あれは先輩がふざけただけだ。全然まじなもんじゃない」
「そんな言い訳しなくったって。それにターぼ、太一が、七美先輩のこと好きなのはほんとなんでしょ」
「だからなんとも思ってねえって。少なくともそういう意味ではな。あといちいち呼び直すな。うざい」
「……う。ご、ごめんなさい。でもずっと慣れてた言い方変えるのって案外難しくて」
「変えなけりゃいいだろ」
「え?」
直子は太一の顔を見返した。
「いいの?ター坊って呼んでも」
それとも自分の勘違いだったのだろうか。学校や人前でそう呼ぶとなんだか嫌そうにしているように見えたのは。もしかして、本当はただ照れ臭かっただけ、とか?
直子は思い切って提案してみる。
「じゃ、じゃあさ、ター坊もあたしのこと昔みたいに呼んだらいいんだよ。ナーちゃん、って。そしたらお互い様だし、別に恥ずかしくないでしょ」
「なんでそうなるんだよ……とにかく、先輩と俺は何もないんだ。これ以上余計なことはすんなよ。いいか」
「う、うん。分ったんだよ」
太一の勢いに押されて直子は少しばかり怯んだが、考えてみればこれはかなり良い知らせだ。
それに、他の女の人のことを好きじゃないということをこんなにも一生懸命に伝えようとしているということは。
もしかすると今ってすごいチャンスなんじゃ──。
待っているだけでは駄目だ。向こうに自覚がないのならこちらから気付かせてあげればいい。この場には二人だけ、トラブルの種は誤解と分って消えたところ、告白するには絶好の状況だった。
でもどうやって伝えよう。
事が済んだと思って気が楽になったのか、太一はどこかゆるんだ感じだ。さっきまでの苛立つような気配も消えている。
いきなりストレートに突撃するのはさすがにちょっとためらわれた。せっかく穏やかになった雰囲気がまた緊張してしまうかもしれない。
「ねえ、ター坊」
「ん」
「どうしてあたしがこんなことしたんだと思う?ター坊と七美先輩をくっつけるみたいなこと」
太一はたちまち眉間に皺を寄せた。直子は慌てて両手を振って否定する。
「ううん、違くて。これからも続けようとか、そういうことじゃ全然ないんだよ。たださ、不思議に思わなかったかなあって」
「何考えてんだ、とは思った」
「やっぱり?」
直子は頷いた。つまりはそういうことなのだ。背丈は伸びても、太一はまだ恋がどういうものかを知らないんだ。
だからあたしが教えてあげよう。
好きな人のためには、どんなことでもしてあげたくなるのだということを。たとえそれが、自分の胸が潰れてしまうような辛いことでも。
「それはね、自分の好きな人の役に立ちたかったか……」
「本当によ、自分の好きな奴と別の相手をつきあわせようなんて頭おかしいとしか……ん?」
「ら?」
直子の思考は漂白された。たぶん脳細胞のシナプス結合の98パーセントまでは断線していただろう。
「あのー、たいち、さん?」
一気に老境に突入したみたいな口調に変わる。もしかしたら本当に六十年後の直子が憑依していたのかもしれない──花の十六歳である直子の意識は、この時ほとんど飛んでいたのだから。
「一つお尋ねしたいんですけどね、よろしいでしょうか?」
「あ?ああ、いいけど。お前変だぞ?」
「いえいえ、どうぞあたしのことはお構いなく。それで質問なんですけれど、あなた、実はあたしがあなたのこと好きだってご存知でした?」
「そんなん当り前だろ……って、お前まさか気付かれてないつもりだったのか!?ぜってーあり得ねーし。誰が見たって丸分りだろうが」
「おやまあ、そうでしたか。へー。ほー。なるほどー。うーん、参ったなー」
直子はしきりと首をひねっている。表情は笑っているのだが、どちらかといえば見ている側が薄ら寒くなるような類のものだ。
太一はさすがに心配になってきた。
「お前、ここに来る前に何か変なもん拾って食ったりとかしてないだろうな?」
凍った。もともと妙な具合になっていた直子の笑顔が、破綻の限界に達したように完全に動きを止める。
太一は戦慄とともに理解した。
これまでほとんど意識したことはなかった。たとえていうなら空気みたいな存在だった。たまに強く吹きつけることもあるが、普段はいないも同然の相手。
だがそれは間違っていた。
「ふざけるんじゃねーわよ」
直子は女だった。男が避けて通ることを許さない、美しき天敵。
「まあ落ち着け、ナオ、なっ」
ゆらりと立ち上がった直子を押しとどめようと、両手を前に突き出す。しかし効果などあるはずもなく。
まるで剣の達人か何かのように、太一がどうすることも出来ないでいるうちに、直子は目前まで詰め寄るとおもむろに胸ぐらを掴み上げた。
「うぐっ……」
実際にはそれは特に運動をやっているわけでもない高一女子相応の力でしかなかっただろう。しかし太一はプロレスラーに首を締められているような気分になった。
「……ずっと、好きだったんだから」
震える声音がこぼれ出す。
「子供の時から、ずっと、ずっと、ずーっと、好きだったんだ、からっ!」
こぼれた雫はふくらんで、堰を切って流れ出す。もしも「いや知ってたけど」などと素で返そうものなら、きっと水圧でぶっ飛ばされる。
「絶対ター坊もそうだって思って、ただ今は自分の気持ちにもあたしの気持ちにも気付いてないだけで、でも時が来れば自然と通じるようになるんだって信じて、なのにター坊はちっともあたしのこと見てくれなくて、それで今度の七美先輩のことがあって、あーそうなんだって……。ター坊には他に好きな人ができちゃったんだ、だったら気付いてくれなくてもしょうがないかなって思って……。じゃあせめて応援してあげようって。ター坊のことが大好きだから、喜んでるとこが見たいから、協力してあげようって。……なのに」
直子はぐずっと洟を啜り上げた。太一にしてみれば一方的な勘違いと思い込みの末に逆切れされているわけで、理不尽のきわみだったが、強いて抵抗しようとはしなかった。
できないわけではなかったが。
そしてこの少し後に。太一はそのことをいたく後悔することになる。
「……ねえ、ター坊は本当に七美先輩のこと好きじゃないの?」
「ああ」
「じゃあ、あ、あたしのことは……?」
「少なくとも、つきあいたいとか思ったことはない」
「なら誰が好きなの!?マユちん?クラスの子?あたしの知らない人?答えてよ、ねえっ」
「って言われてもな。今はいないとしか答えようがねえよ」
「ひどいよ、そんなの……」
直子の手に一層の力がこもる。強まる窒息感に太一は生命の危機を覚えたが、詫びを入れようにも怒りの出所が分らない。なぜ好きな相手がいないからといって責められなければいけないのか?
さすがにそろそろ限界近い太一へ、頬を濡らした直子が疑問の答えを叩きつける。それは恋する乙女だけに許される超論理。
「昔からずうっと一緒にいるのに、なんであたしばっかりター坊のことが好きで、ター坊はあたしのこと好きじゃないのよっ。そんなの不公平じゃない!しかも他に好きな女の子がいるわけでもないなんて、そんなの絶対許さないんだから!!」
突然、太一の目の前が真っ暗になった。何が起こったのかと不思議に思う間もなく、体が前のめりに崩れかける。
太一の身体を引き寄せた直子が、股間に膝蹴りを食らわせたのだ。
激痛に声も出ない太一の顔を直子は両手でがっきとホールド、そして押しつけられる唇。
どのくらいの間、そうしていたのか。
直子は手を放し、太一は沈んだ。既に転げ回るほどの痛みではなくなっていたものの、まだ立ち上がるのは無理だった。追加の攻撃が来ることにおののきながら、上目遣いに直子を見ると。
「へ、へへ。はは、あはははは」
身体中の血が集まったかと思われるぐらいに真っ赤な顔をした直子が、ビンの底が抜けたみたいに締まりなく笑っていた。
これは……完全に壊れたか?
本気でこの場から逃げ出す算段をはじめた太一を、直子の視線がぎろりと捉える。股間を押えた間抜けな格好のまま太一は金縛りにあう。
「ざまあみろ、だ」
直子が勝ち誇ったように言い放った。
「あたしがター坊の初めての相手だよっ。ほっぺたなんて関係ないもん、ファーストキスはあたしなんだっ。これからはもう、ただの幼馴染み扱いなんてさせないんだから!」
一方的に宣言すると、直子は指先で自分の唇をなぞった。そしておもむろに顔を伏せると部屋を飛び出していった。階段を慌しく駆け下りる途中、「きゃっ」という悲鳴に大きな振動が続いて太一は肝を冷やしたが、すぐに玄関扉が開け閉めされる音が聞こえる。太一は一息ついて浮かせかけていた腰を落とした。
ようやく痛みも引いてきた。床の上に大の字に引っ繰り返る。
「初めての相手、か」
まるで泣きながら笑っているみたいな、怒りながら照れているみたいな、ついでに最高に嬉しそうな幼馴染みの顔を思い返して、太一の口元が自然と綻ぶ。
──けど全然初めてじゃねーし。
とりあえず、明日のコンサートの時にはそのことは黙っていようと、太一は心に誓った。
(了)




