第14話 自由落下
足場が消えた瞬間、体が闇に投げ出された。
風が下から吹き上がってくる。壁も床もない。ただ落ちている。暗闇の中を、まっすぐ下へ。
数秒して、目が慣れてきた。
そして気づいた。目の前に、巨大な滝が流れている。
轟音。水しぶき。岩壁に沿って途方もない量の水が落ちていく。その規模は、僕がこれまで見たどんな景色とも違った。
第10層以降のダンジョンは螺旋構造になっている。中心に巨大な滝——冒険者たちが「ヘヴンフォール」と呼ぶ滝があり、それを囲うように各層が螺旋状に連なっている。そして第10層のボス部屋は、そのグランフォールの真上に位置している。
つまり、あの床が崩れたということは。
10層分の、自由落下。
「——やばい」
この高さから落ちれば死ぬ。それだけは確実にわかった。
だけど、僕はこの状況を知っている。
頭の中に、師匠の声がよみがえった。
——第六の修行。落下時の剣での対処法。
——いいか、いついかなる時も、人生何があるかわからない。いきなり地面が崩れ、落下してしまう危険がある。もしかしたらその落下した先が果てしない闇もしれない。それでも生きていかなければならない。だから、その対処法を教える。
あの時は、なんでこんな修行が必要なんだと思った。崖から落ちることなんてあるわけないと思っていた。
今、まさにその「あるわけない」が起きている。
僕は落下しながら長剣を構えた。目の前を流れる滝に狙いを定める。
そして長剣を横に振り抜き斬る。
刃が水の壁を切り裂き、その部分だけ滝が割れた。その奥に、濡れた岩壁が見えた。
今だ。
体を岩壁に向けて捻り、長剣を両手で突き出す。刃が岩に突き刺さった。腕に凄まじい衝撃が走る。肩が引き抜かれそうになる。だけど離さない。落下の速度が一気に落ちた。
しかし、滝の水流が容赦なく剣に叩きつけてくる。刃が岩から引き剥がされていく。
抜ける前にもう一度。
剣を引き抜き、再び滝を斬る。水が割れる。岩壁が見える。突き刺す。減速する。水流に剥がされる。また斬る。また刺す。
それを何度繰り返しただろう。
師匠の修行の時も滝で行っていた。滝でやれば、岩壁の時も太陽できるようになるから一石二鳥だろと。あの時は何度も失敗して、下の池に叩きつけられた。でも体が覚えていた。岩に刺すタイミングも、水を切る角度も、全部あの修行の延長だった。
最後の一刺し。剣が岩に食い込んだまま、落下が止まった。
下を見る。水面が見えた。湖だ。距離はもう数メートルしかない。
剣を引き抜いて、落ちた。
湖に体が突っ込んだ。水の衝撃が全身を叩く。冷たい水が口と鼻に入り込む。必死に手足を動かして水面へ向かう。左手でリュックの紐を掴みながら、右手で水をかいた。
顔が水面に出た。
「——っはぁ!」
息を吸った。肺が痛い。全身が痛い。それでも、生きている。
岸まで泳ぎ、濡れた地面に這い上がった。リュックを左手で担いだまま、仰向けに倒れ込む。
「死ぬかと、思った……」
天井を見上げながら、荒い呼吸を繰り返した。心臓がまだばくばく言っている。
それにしても、と周囲を見回す。ここは広い空間だった。湖の水面がグランフォールの轟音を反射して、薄暗い洞窟全体に低い響きを作っている。
「僕、こんな高さから落ちて生きてるのか……」
上を見上げた。グランフォールが遥か上から流れ落ちてきている。あの上が第10層のボス部屋だった。とんでもない距離を落ちてきたことが、今さらながら実感として迫ってくる。
とにかく帰ろう。
リュックから帰還石を取り出した。これを握れば、ダンジョンの入口まで戻れる。
石を握る。
何も起きなかった。
もう一度、強く握る。
何も起きない。
「……え?」
転送石が反応しない。光らない。ただの石のままだ。
ふと、配信画面に目をやった。真っ暗だった。何も映っていない。
「あ——そうか。10層以上に来ちゃったから、配信機材が対応してないんだ」
配信用の球体は1層から10層までしか対応していない。それはギルドで説明を受けていた。
じゃあ、帰還石も。
「もしかして、これも10層までしか使えないのか……」
手の中の転送石を見つめた。帰る手段がない。配信もできない。誰にも連絡が取れない。
どうする。
僕は立ち上がって、周囲を見渡した。湖の先に、通路が続いている。薄暗いが、壁に沿って微かに光る苔のようなものが道を示していた。
その通路の奥に——扉があった。
大きな扉。第10層のボス部屋の前にあったものと、同じ造りだ。ただし、こちらの方がはるかに大きい。表面の紋様も、より複雑で、より古い。
「ボスの扉……?」
10層分落ちた。ということは、ここは第20層だ。
あの扉の向こうにいるのは、第20層のボス。
僕の装備は10層を想定したものだ。。配信は切れていて、ひかりんさんのアドバイスもない。転送石も使えない。
行くべきじゃない。それはわかっている。
でも、目が扉から離せなかった。
どんなモンスターがいるんだろう。
その考えが浮かんだ瞬間、もう抑えられなかった。
子供の頃、絵本で読んだダンジョンの物語。見たことのないモンスターが待ち受ける未知の階層。いつか自分もそこに立ちたいと思っていた。あの頃の胸の高鳴りと、今感じているものは同じだった。
「……ちょっとだけ。見るだけ」
自分に言い訳をしながら、足はもう扉に向かっていた。
長剣の柄を握り直した。短剣も腰にある。体はポーションで回復している。
扉に手をかけた。重い石の扉が、軋みながら開いていく。
中に入った瞬間、空気が変わった。
冷たい。肌を刺すような冷気と、それとは別の——肌が痺れるような感覚。
部屋の中央に、それはいた。
白色の毛並みをした、巨大な狼だった。
体長は四メートルを超えている。ハイゴブリンよりもさらに大きい。全身の毛の一本一本から、青白い雷が迸っていた。バチバチと音を立てて、雷が体表を走り回っている。
その狼が、ゆっくりとこちらに首を向けた。
金色の瞳が、僕を見ている。
足が動かなかった。
体の芯が冷えていくのがわかる。ハイゴブリンとは比べものにならない。この狼が纏っている空気そのものが、格が違うと告げていた。
まだ、扉を越えていない。まだ引き返せる。
頭では何回も戻れと言葉が回っていた。
なのに目が離せなかった。
金色の瞳。その奥にある、静かな光。狼はこちらを威嚇するでもなく、ただじっと見つめていた。まるで、僕が何を選ぶのかを待っているように。
その瞬間、胸の奥で何かが動いた。
理屈じゃなかった。怖いとか、勝てるとか、そういう計算の話じゃない。この狼と目が合った瞬間から、体の奥底にある何かがはっきりと告げていた。
——こいつは、僕が倒す。
僕は、扉の先に一歩踏み込んだ。
もう戻れない。
狼の全身を走る雷が、一段強くなった。金色の瞳が細まる。
僕は長剣を構え、この気高き狼と対峙した。




