皇弟リヒャルト
「どうじゃ。受けてくれるか?」
「君の目的は合理的だ。敵を怯えさせるというのは、私の趣味にも合っている」
敵の士気を挫き敗走させれば、殺さずに済む。あるいは早々に潰走させることで敵味方の犠牲を最小限に抑えることができる。
「それは僥倖。して、報酬としては何を望む?」
「そうだねぇ……。じゃあ、リヒャルト殿下の血液をいただこうかな?」
「ふむ。儂を殺す気か?」
「そんなまさか。ただ、皇帝家の血なんて滅多に味わえないから、少しだけ味見させて欲しいだけだよ」
血の味がわかれば、個人を識別することができる。北方帝ジギスムントの影武者疑惑に何らかの決定打を与えられるかもしれない。
皇弟リヒャルトは一瞬だけ黙り込み、そして答えた。
「よかろう。我が血を吸うとよい」
「……まさか承知してもらえるとは」
――この意味をわかっているのか? わかった上で血を飲ませているのか?
迷いのない二つ返事に、ヴィルヘルミナは皇弟リヒャルトの底知れなさを感じていた。ヴィルヘルミナの目論見をわかった上で、何かに利用しようとしている――そんな思惑すら感じ取れる。
だが、リヒャルトが二つ返事をしても、皇帝家はそうではない。
「殿下! 何を仰っているのですか!」
グレーテルが珍しく声を荒げ、全力でリヒャルトを止めに入った。至極当然の反応であろう。
「よいよい。戦場で血を流すより遥かに楽なことであろう」
「お身体のことではなく、このような吸血鬼に殿下の高貴なる血を与えるなど言語道断です」
「儂が気にせぬのだから、よいではないか。それに、高貴な血などない。人に貴賤はない。ただ統治する側に生まれた者と、そうでない者がいるだけじゃ」
「随分と開明的な考えの持ち主だ」
「殿下、お言葉ですが、左様なことを仰るものではありません。皇帝家の権威の源はその血筋です」
「儂はそうは思わぬな。人はあくまで役割を分担しているに過ぎぬ。ただ、皇帝家の人間であるからには、北方帝領を治め守る義務があるというだけじゃ」
「そんなことを言ったら、諸侯が君に従う理由がなくなっちゃうと思うんだけど?」
「それは我らが強く、北方帝領を統べるに相応しいと思われているからこそじゃ。そう決まっているからではない」
「実力主義ってことか。確かに、古代からそういう建前だからね」
レムリア帝国において皇帝は世襲を前提とするものではない。皇帝に相応しい人間が元老院と市民と軍から推挙されるという建前は今でも残っている。現在の皇帝家が世襲を安定させているのは、それを強制する実力を有しているからであって、それが失われれば別の家に帝冠が移るだろう。
「よいかな、グレーテル?」
「……その吸血鬼が血を吸うなどと言って毒を盛るかもしれません。やはり殿下のお身体に触れさせるわけには参りません」
――そんなつもりは毛頭ないんだけどなぁ。
「儂を殺したとて、大したことは起こらぬ。我が兄ジギスムントがある限り、皇帝家は安泰じゃ」
――ほう? わざとらしい一言だが。
皇弟リヒャルトが命を惜しんでいないのは、北方帝ジギスムントが健在という傍証になり得る。そう思わせるためのハッタリという可能性もあるが。
「殿下の身に万一のことあらば、決して軽く済むことではありません」
「儂などもうじき死ぬ身じゃ。少々早く死んだとて、大した違いはない」
「そのようなことを仰せになっては……。いえ、これ以上は失礼にあたりますね。出過ぎた真似をいたしました」
押しても引いても決断を覆そうとしない皇弟リヒャルトに、グレーテルは諦めざるを得なかった。家臣に言えることの限界というものである。
「よいよい。失礼とは思うておらぬ」
「はっ。しかしこの者が妙な真似をすれば、直ちに殺します」
「そんなことしないよ……。では、謹んで血を吸わせてもらおう。ここまでしてもらったからには、できる限りの手助けはすると約束するよ」
ヴィルヘルミナは彼の腕からほんの少量の血液を吸い取った。皇帝家の人間ともなると、高位貴族でもその身体に触れることは滅多に叶わない。グレーテルはもちろんヴィルヘルミナの一挙手一投足を凝視していたし、護衛の兵士たちも警戒や好奇の眼差しを向けていた。
吸った血はほんの数滴分の過ぎなかった。リヒャルトの傷口を魔法で塞ぎ、ヴィルヘルミナは一礼した。
「これだけでよいのか?」
「味見が目的だからね」
「それで、儂の血の味の感想は?」
「うーん……普通だね。君の言う通り、血に貴賤などない。奴隷も皇帝も血に違いはないさ」
「…………」
グレーテルが何か言いたげにヴィルヘルミナを睨みつけていたが、リヒャルトに否定されるのは明白なので、言葉にはできなかった。
「吸血鬼にお墨付きをもらえるとは何よりじゃ。では、この遠征の間、よろしく頼むぞ」
「できる限りのことはさせてもらうよ」
ヴィルヘルミナは皇弟リヒャルトと契約を交わし、ポメレニア辺境伯の軍勢に戻った。果たして何を要求されるのか、ヴィルヘルミナにもまだわからない。




