喜劇2 アンタゴニスト Chapter.6
トランペットとパーカッション、ドラムスを織り交ぜた軽快な音が舞台に伝播し、ピンク色の鮮やかな光が差し込むと、会場中に花のような香りが漂った。なんの仕掛けなのか、青崎はもちろん知らないまま、鼻先にその香りを感じながら、青いスーツ姿の細身を、マイクの真ん中に置いた。舞台中に響く音と光線は、青崎のために動き出している。歌が始まるまでの短い間に、彼はかなり控えめに、しかし丁寧に頭を下げ、ジャケットに軽く触れている右手をダンスの初期位置に置いた。動き出す直前――青崎は強い目を、なにかに食われまいとする目を、客席に向けた。客席はそのかすかな動きに引きずられ、前のめりになる。会場の空気がゆっくりと青崎の一挙一動に取り込まれていく。テンポのよいメロディに甘い男性の声が乗ると、客席から「えっ」というかすかな悲鳴が上がった。恥ずかしそうに口元を押さえた手は、素早くカメラを探す動きに変わった。青崎はそのカメラに指先で作ったハートを差し出した。決められたフリの一つが特別なファンサービスに変わると、カメラの数がどんどん増えた。
曲の盛り上がりを作る、サビ前の音律。中村のオーダーには入っていなかったが、青崎はライブ動画を見て動きを頭に叩き込んでいた。客席から目をそらさずに、唇の端をそっと持ち上げる。どこかで拍手が聞こえ始めた頃、音色に合わせてメインのダンスの動作が始まる。指先まで張り詰めたお手本の所作を思い出しながら、プロの偶像がたった一人を見つめるための特別な表情を作る。流れるような動作でこなしたあと、少し表情を変えてもう一度。同じダンスを繰り返している間、熱いレスポンスが返ってきた。悲鳴じみた歓喜の声、和やかな笑いの雰囲気、少しの混乱を混ぜた空気が生まれた。青崎が身構えていた冷たい非難の目は、どこにもなかった。
最後の振りを演じたあと、青崎は立ち位置をそっと左側に寄せた。中村が悠々とステージに現れ、片手で大きなハートを作った。地下で見せた火を吐くような苦痛を飲み込んで、舞台用の隙のない愛想を携えていた。青崎はさっと体を引いてマイクの右側を明け渡し、「GOOD」のハンドサインを作った。
「青崎雲雀と」
「中村不撓です。よろしくね~」
笑顔を解いた青崎と、満面の笑みの中村、二人の温度差に笑いが起こった。
その瞬間、青崎の目の前に「正解」が見えた。伊丹だったら。隣にいるのが、いつもの相方だったら――呆れたような小さな笑いを、柔らかいハの字にした眉の下に作りながら、青崎の動きを目で追い、しかし決して制止はせずに、最後まで脇で見守っていたはずだった。時々、軽く苛立ったり、困惑の視線を浴びせる演技を挟むかもしれないが、伊丹が青崎の挙動を遮ったことはなかった。中村のようにボケを重ねることもなく、その場の主導権をくれた。なくなって初めて、意味のあることだったのだと、あれが伊丹の「意志」によるものだったのだと、青崎は気づいた。誰にも見られていない背中に、奈落から吹き付ける風を感じながら。
腹の底から肺にかけて、ゆっくりと引き裂かれるような痛みが走った。少しの間忘れかけていた「飢え」の感覚。静かな焦燥と肌に馴染んだ空虚が追いかけてきた。もう手の中にないものを掴もうとして、左手が反射を返した。その動きを右手で制する横で、中村が、最前列の客をいじっていた。中村は太い指を控えめに優しく丸めたあと、マイクに向かって、「最前管理ですか?」と尋ねた。声は柔らかで、決して不躾ではなかった。客もニヤニヤ笑いを返して、中村のために首を振った。そのやり取りを視線の端で見ながら、青崎は「やめてください」と中村に言った。それが今日の彼の仕事だった。虚無の中でも、彼はまだ芸人だった。それしか生きる術を知らなかったから。
中村は真っすぐな目を青崎に向けると、錦糸町の邂逅をなぞるように、上から青崎を見下ろした。指でハートマークを作りながら、ゆっくりと微笑を見せて、
「客とつながってるの?」
「つながってないです。どのお客さんもはじめまして」
「え、それは嘘でしょ。あのお姉さんの目見て? 目の中にハートマークあるもん。君に会いに来てるんだよ」
中村はいとも簡単にハードルを踏み越える。青崎の痛みを掌中で測りながら、正確に弱点を貫く。
「……はじめましてじゃなかった?」
中村の視線に誘導されるまま、青崎はそっと客席を見渡した。前列の一番端に座っていた女性が、小さく頷いた。震えるまつげの先に、初めて青崎の視界に入った喜びが花開いた。
「……ごめんなさい」
青崎が頭を下げると、女性は大げさに手のひらで否定を示した。
「や、でも、これで認知されたよ。次からお姉さん、青崎くんの視界に入るよ」
「認知てなんですか。顔覚えられたらなんか良いことあるんですか」
「こういうことでしょ〜?」
中村は、さっき青崎が披露したダンスの振り付けを、手を動かしてさっと演じてみせた。顔は笑っているが、恋の駆け引きを演じる中村の目は、青崎を捉えて離さなかった。引きずられるように青崎もその動きに応じた。鏡合わせに手を動かしながら、それが「男女の両思い」を表していることに、ようやく気がついた。会場はとっくに了承していて、青崎だけが知らなかった。青崎の顔に僅かに朱がのぼった。真剣に中村の提案を飲んだのに、それが喜劇的に消費されることが、受け入れ難かった。しかし、青崎の静かな憤りを理解してくれる人間は、スポットライトの向こうには存在しなかった。
「……お客さんをそんな風に見たことない」
青崎は嘆くように呟いた。その声の揺らぎさえ、感度のいい三八マイクは拾ってしまう。
「じゃあこれから見よう。あのお姉さんと、あのお姉さんと、一つ飛ばしてあのお姉さんは、君に惚れてるから、しっかり認知しといて」
「そういうのいいんです、本当に」
「モテたくないの?」
「モテたくないです」
中村は大げさに口元を手で押さえ、青崎の面前から後ずさった。会場中の目が、好奇の色をしているのを、青崎は横目で見た。
「芸人なんかモテてなんぼじゃない? たとえモテなくても「俺はモテてる!」って言い張るもんじゃない? 芸名でマチアプやってる先輩たちをバカにしてる?」
会場がふわっと笑った。青崎と中村の前に出てきたコンビが、マッチングアプリのネタをやっていたのが、うまく刺さったようだった。
「バカにしてないです。モテるモテないの話やめましょう」
「漫才馬鹿って聞いてたけど、本当なんだね!」
青崎の目に小さな苛立ちが浮かんだ。「漫才馬鹿」は伊丹が青崎の挙動に呆れるときに呼び掛ける名で、他の人間にそう呼ばれる筋合いはないと、反射的に嫌な気持ちがした。
「……そんならそれでいいです。漫才の話ししましょう」
青崎がそっと視線を逸らしたのを見て、中村はぽんと青崎の肩を捕まえた。ここまでの流れはほぼアドリブで、青崎はネタ前に相当の逸脱を許した。仕切り直したい、と伝えたつもりだったが、中村は何か閃いた顔で、青崎の顔をじっと見ていた。
「なに、近い」
「漫才します?」
「そら、漫才師ですから。ダンスだけして帰れないですよ」
「オッケ。漫才ね。……ん、よし分かった。僕が最近行った「推しカプクリニック」の話しよ」
「あ? なんて?」
「「推しカプクリニック」だよ。青崎くん、君は患者役、僕は医者」
「推しカプて何。ちょ、説明して」
「青崎さん。どうぞ〜」
白衣を羽織る動作をしながら、マイクから離れた中村の背中を見て、青崎は静かに戦慄した。中村の脳が何を閃いたのか、青崎には分からない。しかし、降りることもできない。中村の上等のスニーカーが舞台を蹂躙していくのを、眺めていることしかできなかった。
「……コンコン。失礼します、あの〜」
「青崎さん。今日はどうしました?」
「……昨日から肩が痛くて」
「あら。……大変ですね。ちょっと拝見しましょう」
堂々と地面を蹴る動きが、ハイヒールで一歩一歩床を叩く動作に変わる。肉体の上に纏っている白衣の裾がなびく動きさえ見えそうだった。中村は青崎にジャケットを脱げと指で示した。
「見せてください。肩ですよね?」
「……はぁ……」
ボタンを外すと、中村は青崎のジャケットの内側に手を入れて、腹をさすった。青崎が反射的に身を引いたのに、それより早くベルトをつかんだ。2人の距離はこれ以上詰められないほど近くなった。
「あら〜綺麗なお顔してますね、あなた」
「顔の話じゃなくて、肩を診てほしいんですけど」
中村は青崎の顎を指一本で持ち上げさせた。笑っている中村の顔の中で、目だけが冷えている。
「大丈夫です。私、ヤブなんで」
「「失敗しないんで」じゃないの? ヤブは嫌なんですけど」
「あ、名前、名前ね。ヤブ誤診子と申します」
「ヤブ誤診子先生って名前なんですか?」
「そう。結婚して、離婚して、また結婚して離婚したらこうなっちゃった」
指輪のない手を顔の横でヒラヒラさせてみせる。
「じゃあ旧姓のままじゃないですか。なんで結婚して変わったみたいに言ったんですか」
「今フリーだよって知ってもらいたくて」
「患者側にその情報いらないです」
「サービスです。医療サービスの一環」
「そんなサービス聞いたことないけど」
「青崎さん、あなたのことも教えて?」
「本当に、治療の役に立ちます?」
「もちろんです。治療のために使って、世のために拡散します」
「アイドルのゴシップ広めるやつみたいな建前やな。拡散はやめて?」
「私の胸に、留めときますね」
中村が強く頷いて、先を促した。
「……はぁ。何が知りたいんですか」
「青崎さん、相方と同居してるってホントですか?」
「……伊丹のことがなんでいま関係あるんですか」
台本になかった相方の名前が、舞台の上に転がる。青崎の顔色がほんの少し変わったのを、中村は目ざとく認めた。
「普段の行動が知りたいんです。どんな感じ? お休みの日とかどうしてる? ご飯とか一緒に食べる?」
「……まぁ、飯くらいは食べますよ。同じ家で顔合わしたら」
「ちなみに今日は?」
「まぁ、はい。昼飯食べたけど」
「伊丹くんお料理上手?」
「料理? まぁ、普通じゃないですか」
「え〜手料理食べたりするんだ。他人の作ったおにぎり食べられなさそうなのに」
「純粋な悪口やめてください。……長い付き合いなんで」
「そうなんだ〜ふ〜ん。やっぱり相方は特別なんですね」
「……さっきから何が言いたいんですか」
「青崎さん、あなた、肩は問題じゃないです。あなたの病は、もっと別のところにある」
「別のところって何……?」
「あなたとってもとっても……相方大好き、相方依存症です」
「あ?」
青崎が思わず顔を上げると、中村はまた手でハートマークを作った。その手は、今度こそ青崎を狙いすましていた。
「一見誰にも懐かない孤高のお笑い芸人の顔して、実はどのコンビより相方に依存してる。相方がいないと生きていけない。究極の公私混同、ネタはコンビ愛の結晶。そんな気持ちがにじみ出ちゃってるよね」
「出てませんが?! なにそれ!?」
青崎が蒼白になって突っ込むより先に、会場が笑った。それは「ついにやった」と言わんばかりの、温かい哀れみと混乱の混ざった笑いだった。
「推しカプクリニック院長・ヤブ誤診子としては、あなた方の愛を暴かないと気が済まないんです」
「愛ってなんですか。ないよそんなもん。ただの相方です!」
「言い切れます? 相方への愛、本当にないんですか?」
「そんなこと言われても……」
急に自分に向いた矛先に気を取られて、青崎は呼吸が浅くなるのを感じた。
「コンビ組む前から友達で、一緒に過ごして10年以上でしょ。その間ほかの誰とも組まずに、お互い相方だけ。5年も顔見てなくても、ほかに知り合いがいなくても、東京に乗り込んでこられるくらい、君は伊丹くんを信頼してる。愛でしょ、これは愛だよね?」
中村は、青崎から聞き出した数少ない情報を「愛の証明」の一点張りで開帳していく。自分で開示したことだから、青崎は否定の言葉を持たない。黙って聞くしかなかった。
「伊丹くんだってそうだよ。5年コンビ組んでた相方に解散しようって言われて、「はい良いですよ」なんて普通言えない。下積みの5年って短くないよ。大阪では期待されてたんでしょ? それでも、君が言うならって飲みこんだ。なかなかできないよね。大好きなんだよ〜、君のこと。しかもさ、それを言えない。言ったら関係が変わっちゃうから。君の横顔を見ながら、「こいつとずーっと漫才してたいな」って今感動を噛み締めてるわけだよね。そこにあるエモ感情とビッグラブに……グッとくるよね」
中村の言うことが、青崎は全く理解できなかった。ただ、中村の自己完結的な与太話を、会場が物笑いのタネとして享受している、と分かっていた。すり鉢の底にある舞台の上で、突き刺さる視線が怖かった。それでも、静かな声で、
「……やとしても、それは他人が簡単に触れてええことと違うやろ」
と反論した。
「伊丹が何を思って、どんな気持ちで俺の隣に立ってるかは知らん。知らんけど、お前の言う「エモ」は違う。知ったようなこと言うな。俺の相方を玩具にすんな」
中村はそこで、一呼吸分喉を殺して笑った。
「……うん、それが聞きたかった。それが君の本心なんだね」
青崎が顔を上げる前に、中村は会場に顔を振って、視線を避けた。
「……ヤブ誤診子としては、青崎×伊丹です。これが覇権カプ。逆カプの方はごめんなさ〜い」
「絶対誤診です。信用せんといてください」
「青崎くんは伊丹×青崎なの!?」
「詳しい意味はわからんけど、なんかしらのいかがわしい言葉なのはわかってるからな! お前ほんまにあとで覚えとけよ」
「……中村×青崎!? 2倍美味しい……」
「うるさい! お前とはもう二度と組まん!」
関西弁の言葉が躊躇なく出たとき、客席がわっと沸いた。中村の呪縛が、結果的にこの日一番の笑いを作った。青崎は一瞬ほっとし、その後舞台袖に控えているはずの伊丹のことを思った。伊丹はどんな顔をしているだろう。いつも朗らかな相方の顔が、拍手の中で想像できなかった。




