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喜劇  作者: 新原氷澄


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喜劇2 アンタゴニスト Chapter.5(下2)

 黄昏と共に、悪魔は客席の最前に降り立った。それはもちろん人の形をとり、醜い角は強く歪曲した黒髪に、山羊の蹄が地面を叩く音は踵の低い靴の足音になった。悪魔は人の心に食い入るような深刻な眼差しを、色付きグラスの眼鏡で隠して、針の先のような鋭さで舞台を見ていた。艶のある生地をたっぷりと使った暗色のインバネスコートは、分かりやすい拒絶を表していた。そのたじろがない目の前に、何人かの芸人たちが現れて消えていった。構成作家の灯明星(あかしあかり) がリハーサルで笑わないことを、彼らは嫌というほど知っていたが、期待から落胆へと変わる微かな温度差は、分かっていても彼らの心を暗くした。灯明は薄い唇からふわりとため息をこぼして、彼らの悲しみをひとつずつ、丁寧に吹き消した。


「灯明先生、こんばんは」


「友成さん、こんばんは」


 灯明は振り返らずに、客席の後ろからやってきた友成翠(ともなりあき)の声を受け止めた。踏み込むと贅沢な反発を返す絨毯の上を、友成の靴の先が静かに撫でていく。後ろを振り向かなくても、彼の歩き方が綺麗なことが分かる。控室に近い舞台上から来ることもできたのに、リハーサルに集中しているのを邪魔しないように気を使ったのだろう、と灯明は考えた。


「リハーサル、難航していますね」


 香盤表を長い腕の内側に折りたたんだまま、友成は言った。リハーサルの出来によって出演順を変えると聞いて、灯明の胸の内を問いにきたのだが、横顔の上で上下する長い睫は、小刻みに震えていた。友成が最前列の真ん中までたどり着くと、灯明は人の歩く音だけがする空虚な舞台から、やっと目を離した。友成は薄い灰色の瞳を灯明の顔に動かして、内心密かに驚いた。それは助けを求める人の眼だった。


「青崎と中村は、ご期待に添えませんでしたか」


「いいえ。もちろん……、彼らは完璧でしたよ。青崎さんの標準語の漫才も、決して悪くなかったです」


 灯明の温度のない言葉が、硬質な光を放つ舞台に転がる。暗い海のような暗幕のうねりが、一瞬の間にその声を飲み込んでいく。灯明の小さな焦燥、不服、それをかき消すように、闇の中で動く、人、人、人。友成は椅子に座らずに、立ったまま人の影を見ていた。


「……つまり、あなたが期待したような成果が出なかったということですね」


「…………」


「二人もきっと、灯明先生の反応を見て、足掻いている頃だと思います。こちらもできることをやってみます」


「有難うございます」


「いいえ」


 友成は灯明の表情がわずかに動いたことを、空気で感じ取った。たった一人で舞台の指揮を執る灯明の肩を、ほんの少し癒やす程度の安堵と期待。ほかの誰にもできないことを、友成は時々、驚くほど淡々とこなしてしまう。彼に聞いても、自分にできる範囲でやれることをやっただけだと言うに違いないが、彼はそんな小さな奇跡を積み重ねて、道を切り開いてきた男だった。


 結局、友成は椅子に座ることなく、ゆっくりと踵を返した。しかし彼はここで、もう一つ、灯明の目に映っていないものに、別の角度から光を当てた。


「伊丹と九朗のコンビは、もう見ましたか?」


「いいえ、彼らの出番はもう少し後の方ですね」


 香盤表はおろか、今日の客入りから近隣の飲食店の動きさえデータを押さえている友成が、演者の出演順を知らないなどあり得ない。極度の集中状態の中、意識の焦点を動かされた灯明は、もちろん訝しんだ。


「良かったら、ぜひ見てやってください。今回は力が入っているので」


「あなたがそこまで言うということは、よほど面白いのですね」


「はい」


 灯明は「よほど」のところに小さな驚きと疑念を込めたが、友成の美しい伏し目はそれに優しく圧をかけて答えた。


「きっと灯明先生のご期待に添えると思います」


 どの演者にも、等しく冷酷な灯明と、自分が担当する芸人にだけ愛情をかける友成は、見ているものが違う。それでも灯明は、友成が芸事の真髄を貫く「誇り」に向き合ってきた人間だということを知っていたから、黙って膝の上の香盤表に目を戻した。


「よく、過保護だって言われませんか?」


「すみません、自分の担当がかわいいもので」


 そう言いながら、今から青崎と中村に厳しい指摘をしに行くのだろう。芸の出来が良くない時、こういうマネージャーがいることは、もちろん幸運なのだが、当の芸人たちに有難がられることはない。友成は、失いたくないものを得た今も「死神」の渾名を返上していなかったし、今後もそうするつもりはないのだろう、と灯明は思った。利害が一致する灯明だけが、舞台の裏側を支える誇り高い自己犠牲の温度を知っていた。


「期待しています、友成さん。私が望む以上のものを見せてくれると」


 灯明がそう言うと、彼一流の、いつもの返事が返ってきた。強い照明が、ひそやかな声にスポットを当てるように、舞台の中央を照らした。友成は暗闇に溶ける通路をすり抜け、影の中に消えていった。


 灯明は背筋を再び伸ばして、自分だけの舞台に意識を沈めていった。やがて香盤表にひとつ、赤い丸がついた。


ーーー


 大きな業務用のエレベーターの前に、青崎と中村は立ち尽くしていた。冷たい汗が青崎の手の甲をぬらしていた。中村はカチカチと爪先で音を立てて、下階行きのボタンを押した。


ーーかつて東京中の大衆を魅了した、赤い風車が街を見下ろすその劇場ーーその名を継ぐことは許されずに、今は「Théâtre R」と名を変えたーーその建物の裏側は、粗末なハリボテに尽きる。建物の最上階にこそ、回り階段とシャンデリアを設えた艶のある赤色を基調とした重厚な劇場があったが、その下の階にある控室は、悲惨のひと言だった。


 なぜだか傾斜のある天井からは、上の階の物音が上演中不穏に響き、油紙のような色をした壁は仕上げが粗雑で、油断して関係ない笑い声でも立てようものなら、観客から苦情が来かねなかった。おまけにその部屋は徹底的に狭くて、鏡が向かい合う椅子の前に座ると、上着も脱げないほどだった。


 人というより貨物を運ぶための銀色の箱の前に立ち尽くしながら、青崎はぼんやりと、あの部屋に戻るのは億劫だと思っていた。しかし中村は、先にエレベーターに乗り込むなり、B階へのボタンを押した。


「……煙草でも吸いに行くんですか」


 青崎が低い声で聞いても、中村は答えない。目も合わせないまま、途切れ途切れに、なにかを小さな声で呟いていた。鋭敏な頭脳が灯明星の視線が示唆するものすべてを受け取って、フル回転している。周りの風景が褪せてぼやける、音も温度も水のなかに閉じ込めたように鈍くなる、中村がその極限の集中状態に没入していることが、青崎にもわかったが、一方で青崎は、自分がその感覚にほど遠いことも理解していた。手のなかにあるのは、やるべきことをやったが、届かなかったという自覚だけだった。エレベーターが降りていく間、地獄へ引きずり込まれていくような気持ちの悪い浮遊感と、沈黙を裂くピィーという風切り音に耳を傾けていた。


 エレベーターは建物の七階から一階まで入っている大型ディスカウントショップを通り過ぎ、やがて地階で止まった。エレベーターが開くなり、中村は先に立って降りていき、「予備室」と貼り紙のある部屋をめがけて歩いていった。中村は「Théâtre R」を知っているのか、と青崎は思った。廊下はひんやりとした弾力のある静寂に満ちていた。


 部屋の中は半分鏡張りになっていて、青崎が入ると、硬い顔をした中村が、パイプ椅子に手持ちのものを全部取り出して置く姿が映っていた。無造作に置かれた高価な時計がーー青崎はブランド名も名前も知らないがーー照明に照らされて細い光を放っていた。部屋の中は空調で蒸されて不愉快な暑さだった。青崎は、何も聞かずに壁際の空調機のスイッチを切った。


「青崎くん」


 中村はスマートフォンを一瞥して、それを椅子に置きかけてから、もう一度取り上げて、


「なんですか」


「今日の漫才、一回忘れて」


「あ?」


「もう一回作り直す。ベースから変える」


「今から?」


 青崎は素早く腕時計を見た。ちょうど開演の二時間前だった。


「僕らの出番は最後から二番目だから、開演してからも一時間近く使える。三時間あれば、新ネタできるよね?」


「……できるかできないかと言われれば、できますけど」


 それは今でも二人が積み上げてきた稽古を完全になかったものにするということで、青崎の声が沈むのも当然だった。


「灯明先生の反応見て、思っちゃったんだよね。期待値上回れなかったって」


「…………」


「せっかく君とやれる機会なのに、それは悔しいじゃない。僕はもう一段深いところまでいきたい。他の誰にも追いつけないところまで」


 青崎は、黙って中村の目を見ていた。その目は、俎上にのった素材を調理する料理人の目と相違なかったが、確かに青崎という人間をもう一段深く理解しようとしている目だった。隣に並ぶ鋭い包丁の鋼に気付いていても、獲物は震えなかった。その代わり、視線を外して、何故か分からないまま、心の中で友への謝罪の言葉を呟いた。


「……いいですよ。ネタ合わせからもう一回」


「いや、ネタはもう時間ないから僕が考える。君はこれ覚えて。覚えられたらもう一回声かけて」


 中村はスマートフォンを繰って、なにかを青崎に送りつけた。青崎もスマートフォンをポケットから出してみたが、電波が安定しない。立ち位置を変えて腕を伸ばしてみても、同じことだった。


「……ここ、電波入らん」


「情弱ぅ。もう、仕方ないな。僕のスマホで見て」


 情弱ってそういう意味ちゃうやろ、と思いながら、中村が投げてよこしたスマホを受け取る。YouTubeの画面が開いていて、今風の、鮮やかな色を使ったアニメーションのサムネイルが見えた。


「なにこれ?」


「卒ない感じでスッと入ってたけど、今日の漫才、ツカミがちょっと弱かったんだよね。入りから一瞬でお客さんを掴めるやつ、入れたいと思って」


 中村が覗き込んできて、勝手に再生ボタンを押す。青崎の知らない、軽快なメロディの流行歌が流れ出した。背の高い黒髪の青年がダンスを踊っている。指でハートを作り、両手で作った銃で画面の向こうを撃ち抜き、流れるように長い腕で大きなハートを作る。口元には柔らかい笑み。少し前から流行しているアイドルのポップソングを、中村は青崎に見せた。青崎がアニメーションの青年と同じようにやれば、きっと会場は沸くだろう。特に、四千五百円で先行チケットを買ってくれた人々は。そのイメージは簡単に浮かんできたが、青崎は暗い目をして、


「……俺に愛嬌やれって?」


 俺は漫才師や、と心の中で呟いた。舞台で愛嬌振りまくのは俺の仕事じゃない。そんなんで客が沸いてもなんも嬉しない。


 つらつらと頭の中に浮かんでくる言葉を、中村には投げつけずに、ひとつひとつ、飲み込んだ。


「うん。やって。そのほうが面白いから」


 青崎にスマートフォンを渡してしまった中村は、手書き用のメモとペンを取り出して、既になにか書きはじめていた。額に浮かぶ汗が、中村の焦燥を語っていた。


 青崎は後ろを向いて、別のパイプ椅子を出して、ジャケットとネクタイを上に置いた。胸元のボタンをひとつ外して、身軽になってから、中村のスマートフォンに向き直った。有線のイヤホンを挿して、動画に集中する。動きを覚えるのは簡単だったが、曲のテンポが速く、一瞬でも気を抜くと流れについていけなくなる。舞台上では、客の方を絶えず見続けながら踊るという制約も課される。そして、自分のことをどう思っているか分からない不特定多数に見られていることを意識しながら、完璧に笑う。純粋な会話劇で人を笑わせるのとは違う、別の筋力が必要だった。


 SNS上で自分の偏った推論を正義のように吹聴する論客や、「西中島南方の青崎雲雀」に価値を見出してくれた人々は、今夜の彼を見てなんと言うだろう。嘲笑も偏見も、すでに慣れてしまっていたが、伊丹は悲しむだろうなと思った。青崎は彼らになんら気持ちを明らかにする気はなかったし、一切はどうでもいいことだったが、伊丹だけは、青崎を取り巻く悪意に抗ってくれていた。青崎が手を伸ばしても届かない傷に、伊丹だけが触れてくれた。青崎は、その事をほんの少しだけ思い出して、わずかに首を振った。


 今更。なにを言っても今更だった。中村と舞台に立つと決めた時から、自分はとっくに道を踏み外している。


「今日の主役は、君と僕だ。絶対失敗できない」


 中村の呟きは、消えかけの蝋燭の芯のように軟く崩れかけていた。ちらりと見ると、いつも笑顔を貼り付けていた顔に苦渋が浮かんでいた。鏡張りの室内では、すべてが露わになった。視線の乱れ、落ち着きのなさ、喉がカラカラに渇いてひきつる。どこにも逃げ場はない。


 ーーこいつも命賭けとる漫才師なんやな。


 中村は、当たり前の顔をして客の期待と興行側のプレッシャーを背負っている。青崎が中村に一目置いたのも、そういうところだった。好ましいとはいえないが、尊敬に値すると思った。


「……五分で完璧に覚えるから、ネタの構成だけ考えといてください。筋と作り込みは、一緒にやる」


「それは」


「俺は自分が納得できないネタは、絶対やりません」


「……いいよ。分かった。僕を圧倒する切り返し、考えといてよ」


 視線がすれ違った後、中村はメモの一枚目を素早くポケットに突っ込んで、また何か書き始めた。青崎は覚悟を決めて息を吸った。


 二人が別々に作業を始める直前、青崎の短い抗弁の間、エレベーターホールから予備室までの間を通る足音がした。中村はその音を認識して顔を一瞬だけ上げた。イヤホンをしていた青崎も、その動きにつられるように扉を見たが、足音はそっと部屋の前を通り過ぎ、再びエレベーターの前へと戻った。誰も何も言わなかったし、物音も立てなかった。彼らはまるで決められたように、代わる代わる時計を見上げた。そして、刻々と時計が刻む音を聞きながら、できれば時が止まってくれないかと祈った。


ーーー


 リハーサルが終了した後、伊丹と九朗は自分たちのコンビが最終組だと告げられた。中村と青崎の漫才が終わった後、セットの設えのために短い暗転を挟み、トリの出番が来る。伊丹はスタッフからそう伝えられても、まったく動じないで、すぐに舞台のセッティングの話を進めていた。だから九朗も、こんなことはよくあることなのだろうかと思っていたが、俯瞰してみると、やはり心が揺れた。脈拍が上がって、顔がのぼせるのを感じて、逃避のために顔をうつむけたままスマートフォンを開いた。「久しぶりの舞台で緊張しています」とありのままを書いたストーリーズに、たくさんの反応が返ってきていた。予期せぬ反響の連続で、スマートフォンの中にも、現実にも逃避できなくなり、九朗はとうとう伊丹の傍らに、そっと戻ってきた。スタッフとの打ち合わせを終えた伊丹は、


「九朗、足大丈夫か?」と足元に目を落とした。


「や、大丈夫です。この靴、見た目ほど痛くないです」


 九朗は垂れ下がる長い髪を邪魔にしながら、屈んでピンヒールの踵を撫でた。売れっ子のキャバクラ嬢を演じるために用意した衣装のヒールが、九朗の猫背を伸ばしてくれていた。顔を上げて、舞台袖の鏡に映った自分の顔を見る。そこにいるのは、しょぼくれてうどんを啜っていた無名の漫才師ではなかった。


 夜になるとドラァグクイーンや妖艶な歌姫が出演する箱としての顔を持つ「Théâtre R」には、豊富なメイク道具が揃った化粧室があった。九朗は自力でやるつもりで初心者用の道具を持ち込んでみたのだが、「Théâtre R」の腕のいいメイクが手を貸してくれて、長い睫毛や初々しく染まる頬、完璧に愛らしい唇が出来上がった。関節の太さや喉を隠す衣装を身に纏い、長い黒髪のウィッグをつけると、これまでほとんど人の視界に入ることのなかった九朗が、控えめな解語の花になった。楽屋中の注目を集める存在になった九朗を、伊丹が写真に撮ってくれて、彼は初めて自分を客観視できた。そして、これまで一カ月かけて作り込んできたものに、意味があるんじゃないかと、辛うじて思えるようになった。


「俺らが最後やなんて……ほんまにええんですかね」


 剥き出しの肩の上を、長い髪が滑っていく。手の甲でそっと掬って髪を後ろに流す。女性の仕草にはこんな意味があるのかと、ふと考えてしまう。


「心配か?」


 黒服の衣裳を着た伊丹は、そっと椅子を勧めてくれた。伊丹はいつもと違う薄いピンク色の硝子が嵌ったサングラスをかけている。


「まぁ、正直に言うたら……」


「大丈夫や、青崎と中村くんがちゃんと盛り上げてくれるし、俺らはその空気に乗っかって、いつも通りしたらええ」


 一カ月に及ぶ稽古期間中、伊丹の言う「いつも通り」の基準がとてつもなく高いことは、九朗もよく分かっていた。大阪で五年間きっちり下積みをしてきただけあって、伊丹は手順を飛ばしたり、省略したりすることは決してなかった。時間をかけてネタ合わせをして、何度も推敲を重ねて、お互いの見ているイメージをすり合わせて、齟齬を解消していく。そんな「普通」の繰り返しで生まれたネタは、客前に出しても恥ずかしくないほどの強度を保ち、観客に様々な考察の余地を与える深みを作った。


 伊丹は今回、台本に一カ所もアドリブを入れなかった。代わりに、ネタ合わせ中に思いついたことはすべて台本に書き加え、その度に頭から演じ直し、二人が納得したものだけを残して、ネタの完成度を上げていった。ネタの作り方も九朗にとっては新鮮だったが、何度も繰り返し稽古をする伊丹の表情に、疲れも呆れもないことが、静かに嬉しかった。「面白いよ」と言われなくても、その真剣さが物語ってくれている。一夜限りの相方であることが残念でたまらない、そう思えば思うほど、練習に熱がこもった。九朗にはなにもかも初めての経験だった。


「きっと、うまくいくよ」


 伊丹の言葉にも、素直に頷いた。


「成功したら、お疲れ様会やりましょう」


「ええよ。今度は俺がオススメの店教えるわ」


 伊丹は何の憂いもないように、穏やかに笑った。


ーーー


 傘をばさりと頭の上から下ろすと、黒い影が背中を追い越したような気がして、瀬尾橙(せのおだいだい)はちょっと背筋が震えるのを感じた。黒い大きな傘は、華やかな女性向けの傘が多い会場では、少し異質だった。


(思ったより女性客ばっかやな)


 濡れた傘を閉じながら、エレベーターを待つ。「吾輩は猫である」の女性ファンはほとんど夏目のものだと思っていたが、そうでもなかったのかもしれない。ーーあるいは、もう一人の主役である青崎のファンが、よほど多いか。エレベーター内に貼られた青崎と中村の顔が大きく写るように構成されたポスターを横目で見ながら、そんなことを考えた。そして、ふと気づいて被っている帽子の庇を深く下げたりした。いるかどうか知らないが、九朗を見に来た人もいるかもしれない。


 二人連れの客が多い会場の中で、橙は一人で開演時間を待った。チケット発券の待機列に並ぶ間、煙草を吸いに行こうか、いや一階まで降りるのは面倒だと思考を繰り返しつつ、そのまま逃げたいような気持ちにも気づく。今晩、「Comedyコメディ Laboratoryラボ」ーーこれがイベントの名前だったーーに顔を出すことを、九朗には言わなかった。形だけのマネージャーから優待チケットがあるのを教えられて、自分から手を挙げて手に入れた。九朗とは、なんの話も進んでいなかった。近々話そうということだけは意見が一致していたが、「芸人辞めるんか?」という質問に答えはなかった。橙の脳裏に、九朗の怯えた顔が浮かんだ。すぐ頬が赤くなる癖がある九朗は、舞台袖に行く度、顔を赤くしたり青くしたり忙しかった。衣装の袖を擦りすぎて、そこだけテカテカになったこともあった。今日はどんな顔をしているだろう。九朗の斜め下向きの目線を思い出し、「ビビリだが、訳の分からん台本を書いて人に笑われるのは平気」という、奇妙な相方のことを考え、神経がささくれるのを感じた。やはり煙草を吸おう。煙草を吸いたくて苛立っているのだと思いながら、ポケットの中にある電子タバコの丸いフォルムに指で触れた。取り出した途端、それは赤色の絨毯の上に吸い込まれていった。


「どうぞ」


 目の前にいた人が、音に気づいて手を伸ばしてくれた。その声に聞き覚えがあった。


「あ……、な」


 夏目さん、と言う前に声を抑えるくらいの配慮は、橙にもできた。夏目洸なつめみつるは、ゆったりとした動きで橙の電子タバコのケースを拾い上げ、掌の上に返してくれた。


「君も来てたの」


 夏目は背の高い橙の顔を下から見上げた。近くで見ても人形のような顔をしているな、と橙は思った。そんな距離で会話をするのは初めてだった。


「……あ、いかたが、出てるんで」


 相方。相手もそう思ってくれているだろうか。一瞬声が揺らいでしまった。


「九朗くん、だっけ」


 夏目はかけていた透明のメガネの縁をそっと指で撫でた。


「あ、はい……俺らのこと、知ってくれてはるんすね」


「同じ事務所だし、何回も同じ舞台に立ってるよ」


「そ、そうですね。……猫さんみたいな拍手もらえたことは、一回もないけど」


 自信の喪失が、思わず口をついた。これでは九朗のことを後ろ向きだなんて言えないと思いながら、視線を逃がすと、夏目は不思議そうに橙を見た。


「君たちは頑張ってたと思うけど。……それとも、手、抜いてた?」


「い、いやいや、まさか」


 「吾輩は猫である」は、「桜桃」が入社した当初から、「天才」「看板」と呼ばれていた。橙だって最初はこうではなかった。いつかあの人たちより売れてみせると思っていた。いつからこんなに卑屈になったのだろう。九朗と歯車がかみ合わなくなった時、一番近くにいる相方の心が分からなくなった時からだ。そのことにすぐ思い至るくらい、ここしばらく内省を重ねていた。


「悪くないと思うよ。君たちのコンビ」


 夏目は淡々とそう言って、前を向いた。橙はその後ろ姿をじっと見ていた。銀色の髪はシャンデリアのギラギラした光を吸い込んで、うっすらと神々しい光をまとっているように見えた。


 「悪くない」という夏目の言葉と、「光が強すぎる」と言った青崎の声が混ざって、橙の中に新たな感情が芽生えつつあった。しかし、それを口にするには、既に遅すぎる気がした。橙が煩悶していると、列が動き出した。会場のドアが開き、座席案内が始まった。


「な……、えっと、あの、一緒に見てもええですか」


 橙の呼びかけに、夏目は振り返って、軽く顎を引いた。長い中華風のピアスが涼やかに揺れた。橙はその時、嬉しさだけで気づいていなかった。夏目の眼が、壁に貼られたポスターの中の芸人たちに、一瞬同情的な眼差しを送ったことに。


「行こうか」


「あ、はい」


 橙は、手に返されたチケットの半券の感触を、ポケットの中で確かめた。四百五十キャパの、堂々たる劇場の天井から下まで響くさざめきの中に、彼は立ち尽くしていた。そこでどんな実験が行われるのか、彼はもちろん知る由もない。劇場に入ると、彼は自分もこのイベントの一部に組み込まれたような気がした。橙の隣に座った夏目にも、同じ気配を感じた。それが決して気のせいではなかったことを、彼はこれから、嫌というほど知ることになる。

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