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喜劇  作者: 新原氷澄


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喜劇2 アンタゴニスト Chapter.5(下1)

こうした共犯関係は、青崎にとって初めてのことだった。彼が芸の上で信頼を置く御舟師匠たちは、青崎と伊丹の成長をゆっくりと見守ってくれた。師匠たちが舞台の上で生じさせる笑いの波や、空隙を静かな凪の間に変える絶妙な技術を感じ取ることこそ修行であって、他人を自分の研鑽の道具に使えなどと言ったことはなかった。師匠たちは、時が来れば必ず世間は青崎と伊丹の才能を見つけ出すだろうと確信していて、今は不安定で未熟な彼らを肯定してくれた。その信頼を、裏切ることになるかもしれない。成長を急ぐ青崎に、「功を急いても良いことないで。なめくじのように這って進むのが芸人や」と釘までさしてくれていたのに、青崎は不肖の弟子である身分に甘え、自分を粗末にする生き方を、今は許してほしいと後ろめたい背中で願った。


 師走の日は、一つずつ蠟燭を拭き消していくように、日の出ている時間が短くなっていく。そうして夜の時間が長くなる。青崎が根城にしているロフトの奥まった空間にも冬が来て、伊丹と二人でなんとか運び上げた炬燵で指先を温めながら、心も体も冷え切った日々を過ごした。青崎の意識は、誰とも接続せず、この屋根裏に引きこもっていた頃に戻ってしまったかのように沈黙していた。それまでの青崎の言葉は、いつも伊丹との会話から始まっていた。漫才のネタは、二人の生活の延長線上にあった。関西弁の言葉を封じられた今、自分に残っているのは本当にささやかなものだけなのだと、青崎は思った。望めば手のひらいっぱいに掬いたいだけ出てきた言葉が、どこを探しても見つからない。指の節が曲がらなくなるような寒さの中で、タイプする指先が震えて割れそうになっても、探し続けなければならなかった。見つけられなければ、自分は漫才師ではいられない。そうなったら伊丹との縁も途切れてしまう。そんな強迫観念が、常に頭の隅にこびりついていた。


 実際には、伊丹は気づかいの視線を青崎に向けても、なにも言わなかった。様子がいつもと違うことを察しながら、中村と組むプレッシャーだとか、二人の間にある力関係だとか、否応なく続くモデルの仕事だとか、そういった外側の出来事を仮定して、青崎の苦悩を慮った。青崎は、ある意味で伊丹の信頼に安心しながら、泥濘の中を進むことができた。一種の自罰的な感情を抱えたまま、荒廃していく精神の砦の中で、一人で鋭い頭痛の日々を飲み込み続けた。


 青崎の孤独には、中村からの干渉も一役買っていた。中村の電話は、青崎がパソコンの光を眩しく疎ましく思う頃、屋根裏部屋が真っ暗になる日の暮れを狙ってかかってきた。昼間は劇場やテレビの出演で忙しいのだろうと不承不承その電話を受けているのに、中村は二人の漫才の話などひとつもせずに、どうでもいい与太話を披露した。そして「どう、今日は出てこない?」と軽く誘いを持ちかけた。中村の背後には、彼が親しくしている芸人仲間たちが日替わりで現れた。中村は青崎が持ち得ないもの――学生時代から芸の世界に入って培った人脈や、人たらしの極意、年の近い芸人同士の間に現れる軽い連帯感などを、惜しみなく与えてくれた。翌日に仕事のない日は、断りの言葉も尽きてしまって、青崎も何度かその輪に加わった。彼の仲間たちは、旧知の仲であるかのように青崎を歓待してくれた。若い頃から芸能界と交わっている人たちだけあって、遊びの趣味も悪くなかった。それでも、青崎は寂しかった。不思議と怒りのようなものが湧いてこなかったのは、その言葉を中村に奪われていたからかも知れない。あるいは、こんな光景を心のどこかで望んでいたのだろうか。答えはみつからなかった。青崎は写し鏡になってくれる伊丹を失ってから、ほとんど自分の心を測る方法を持たなかった。


 伊丹の日々にも、ゆるやかな変化が訪れた。伊丹は九朗とのネタ合わせという名目で、平日の午後に時々出かけていった。パソコンを持って九朗の部屋に行き、互いに特に言葉を交わさないまま、日が暮れるまでそこにいることもあった。九朗は時折パソコンの画面を伊丹に見せて、ほにゃっと笑った。ネタが出来たか、仕事が捗ったかなどの気遣いは、お互いにしなかった。その顔を見ていると、伊丹はまたこの部屋に来たいと思うのだった。段ボールの箱も、ひとつか二つは減ったような気がした。


 青崎の神経が張り詰めて行き先を失った頃、南天の実が濃緑の葉の下で赤く灯る頃、ようやくイベントの本番の日が来た。伊丹はその日、何事もなくネクタイを結んでいたが、部屋の外で物が砕け散る激しい音を聞きつけて洋室の扉を開けた。眼を上から下へおろすと、ロフトへ向かう急な階段の下で、硝子瓶が粉々に砕けていた。


「雲雀、大丈夫か?」


「……やってもた」


 青崎が青い顔をして階下を見ていた。


「怪我無い? 大丈夫?」


「……うん。俺は大丈夫。……あの」


「危ないから降りてこんときな。俺、掃除機出すから」


 青崎は口の中で何度も呟いた。ごめん。ごめん。涙をこぼすような寂しい頻度で落ちる言葉は、伊丹が硝子を拾い集める間続いたが、あまりに微かで、伊丹に届くことはなかった。


 伊丹が記憶を巻き戻すと、硝子瓶は二回に分けて階段にぶつかっていた。記憶をなぞった通り、下から三段目の段と、一番下の段に大きめの欠片が散っているのが見つかった。怪我をしないように指先で拾い集め、会社からもらってきた分厚い封筒に入れた。それから掃除機を持ってきて、硝子が金属の管を通る音がなくなるまで、屋根裏に上がる階段と、紺色の絨毯の上を掃除機のヘッドで撫でた。


 部屋の隅まで掃除機をかけ、三度も同じ場所をうろうろと繰り返し通ってから、伊丹はようやく「もうええよ」と階段の上に向かって声をかけた。スーツのジャケットを着た青崎が、恐る恐る下の階へおりてきた。悔恨がトン、トンと静かな音を立てた。その音は、なんとなく伊丹の胸にも不安の影を落とした。


「お前、また痩せたんちゃうの」


 夜の月のように蒼白い横顔に声をかけると、図星をさした時のような、小さな間があった。


「……どうやろな」


「もー、ちゃんとごはん食べへんからやで。今日はなんか食ってから行こう」


「食欲ない……」


 階段の手すりにもたれかかって、憂鬱そうに低い声で呻く青崎を無理矢理食卓に座らせて、伊丹は冷蔵庫を開けた。


「なんか食べれそうなもんは」


「なんやろなぁ……玉子豆腐とか」


「好きやなぁ、玉子豆腐」


 時々熱を出す青崎のために、買い置きしてある玉子豆腐を鍋に入れて、ついでに冷蔵庫の中にあったプリンや、杏仁豆腐や、ヨーグルトを取り出してみる。二人掛け用の狭いテーブルがふるふるしたものでいっぱいになると、青崎は微かに笑った。


「そんなにやらかいもんばっかりいらん」


「なに食べれるかわからんて言うからよ」


「……ほなお前は何食べんの」


「俺はね、今日の昼は鶏のから揚げて決めてんの。前に「コントの会」で優勝したときも、鶏のから揚げ食べたんよね」


 伊丹は胸を張って言い、青崎も「ゲン担ぎは悪くない」と納得した。


「俺は今日のためにから揚げ専門店でから揚げ買ったあんねん」


「そうか」


「お前の分もあるから、帰って来てからでもええから食べ」


「……ありがとう」


 鍋の縁から湧き出る白い湯気が、窓から入る冬の日差しを浴びて温かな情景を縁取った。伊丹は鍋の玉子豆腐を皿に移してから、貰い物の蟹の缶詰と和風だしで餡かけを作り、美味しそうなとろみをつけてやった。


「熱いうちにおあがり」


 伊丹の声が薄い耳の内側にほっこりとたまる。青崎は冷蔵庫から出した鶏のから揚げを皿に入れて、オーブンレンジのボタンを押した。時間は自動で測ってくれるので、それでいい。それから電気ポットのスイッチを入れて、茶色い陶器のポットを出してきて茶葉を入れ、二人分の遅い朝ごはんの支度をした。思い出したように腹が減ったので、玉子豆腐を匙で掬って、湯気を吹き消す前に口に運んだ。玉子豆腐はちょうど良い温度に温められていた。


「美味いか?」


「……うん」


「そら良かった」


 紅白の梅の花に似た蟹の身の赤色と、玉子豆腐の鳥の子色のコントラストが目に優しい。和風だしの良い香りが伊丹のところまで漂ってきた。


「今日の出番、雲雀の方が早いな」


 伊丹は友成から送られてきた進行表を眺めながら言った。スマートフォンの操作をしている時、そういえば今日は眼鏡をかけていないことを思い出した。だから、友の顔に微かな不快感が現れたのを見落としてしまった。


 ――青崎は匙を唇から離さずに首肯した。ちょうど、オーブンレンジが止まる音がした。伊丹の視線が自分から外れたので、青崎はほっとした。そして、何故こんなに神経質になっているのだろうと自問した。中村との稽古は、本人の申告通り厳しかったし、青崎も意地を張り通して完璧の上まで仕上げた。憂うことがあるとすれば、客の入りくらいのものだったが、チラシに中村の名前と写真を大きく出した効果もあったのか、チケットは早々に完売していた。若手の漫才師が中心のイベントとしては異例なくらい順調だと友成も控えめに褒めてくれた。なのに、青崎の心には高揚の兆しがまるでなかった。寧ろ、開場の時間が迫るほどに、慣れ親しんだ空気と離れて、虚空に放り出されるような孤独感が増した。


「なあ――」


 伊丹に話しかけようと顔を上げたとき、青崎はなにも考えていなかった。ただ縋るように、短い呼吸のために、相方の名前を呼んだ。伊丹は白飯をついだ茶碗を持った手をテーブルに置いて、「なに?」と聞いた。青崎は揺れ動く眼を伏せた。ウイスキーの水割りのグラスと、太いシルバーのリングがはまった指が、指揮をするように優雅に動く映像がダブって見えた。焦燥で耳が神経質に尖るのが、自分でも分かった。


 青崎は秒に満たない短い時間迷った末、耳の上の髪をちょっと撫でる仕草をした。


「お前、ネクタイずっと半分裏返ってんで」


 意図して自分の挙動を演じる。中村の前ではずっと出来ていた。だから大丈夫だろうと信じて、ひどく軽い口調で親友に指摘を投げかけた。


「え? あ、ほんまや」


「ていうか今日の服装はなんなん? 葬式……にしては浮かれたネクタイしとんな。三下のホストか?」


「キャバクラ! コントでキャバクラの黒服役をやんの」


「へえ。お前、キャバクラ行ったことあったん」


「……ないので、これは想像の黒服さんの衣装です」


 伊丹は恥ずかしそうにテーブルの隅に視線を投げた。話を変えようとして口ごもっているのが分かる。これから演じるコントの内容を打ち明けないよう自制している賑やかな内心のさざめき、隅々まで台本を磨き上げた末に得た微かな自信、九朗への期待と先輩としての誇りも。そこまで分かっていても、その奥底の本心までは、青崎にも見抜けなかった。


「雲雀」


「なに」


「今日もお前が一番面白いってところ見せてくれ」


 青崎の乾いた喉が、小さく戦慄いた。筋肉の震えが肩を通って、左手の指先に届く前に、青崎は右手でその動きを制した。あぁ、と簡素な声が出る。他人のもののように遠い声を出しながら、窓の外を見た。曇りガラスと白い光が混ざって、スカイツリーは影も形も見当たらなかった。左手を机から下ろし、スーツのポケットに突っ込んで隠す。青崎は仕立てのいい、彼に似合いのスーツを着ていた。三下のホストみたいな、と青崎が名付けた伊丹のスーツとは対照的だった。伊丹のそれは、きっと軽くて見栄えだけのものなのに、うっすらと熱がこもって温かいのだろうと、青崎は思った。


 青崎は、今すぐこの家を出るべきだと悟った。あと少しでもこの居心地のいい場所に沈んでいたら、もう二度と立てなくなってしまう。そんな気持ちが腹の底で渦巻くのを感じた後、玉子豆腐が消えた後の器を、カップと重ねて持ち上げた。伊丹の眼が軽く追いかけてくる気配がする。


「もう行くん?」


「うん」


 本当は、行く宛などなかった。伊丹のそばにいられないことが、今の自分への罰なのだと、青崎は思った。

 後ろで金属の扉が閉まる音を聞いた後、青崎は大事にしている革靴の爪先で地面を叩いた。心が砕け散る音が、エレベーターホールにこだました。


「……東京なんか嫌いや」


 壁ひとつを隔てた部屋の中には伊丹がいた。伊丹は温かいポットの口から漂う白い湯気を、静かに見つめていた。皿の縁が熱いからと、誰にともなく言い訳をして、唐揚げにも手を付けなかった。


 壁の向こうで、エレベーターが到着を告げた。青崎はどこへ行くのだろうと思った。中村の隣へ行ってしまうのかと思うと、寂しさが胸を刺した。青崎を引き止めなかった伊丹の目の奥に、流れない涙のかけらが溜まった。彼の心はどこへも行かなかった。エレベーターが動き出し、彼らの長い別れが始まった。

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