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夫は今夜も触れない


扉が開き、乳母のヨシノは驚いて振り返った。


入ってきたのは、新たに妃となったばかりのシリだった。


ミンスタ領の姫にして、あのゼンシの妹。


気性が激しく、冷酷だと噂される兄と同じ血を引く姫とは、いったいどのような人物なのだろう。


しかも、新しい妃にとって、前妻の産んだ男児は邪魔な存在になりかねない。


――もし、この子が殺されたら……。


ヨシノは無意識に、腕の中のシンを強く抱きしめた。


「この子が、グユウさんのお子さん?」

シリは涼やかな声で尋ねた。


「はい」

ヨシノは慎重に頷いた。


シリは赤ん坊を驚かせないよう、足音を忍ばせて近づいた。


触れるつもりはなかった。


赤ん坊を扱う心得がなかったのだ。


視線の先には、細い絹糸のような巻き毛に覆われた小さな頭。


ぷっくりとした手足。


潤んだ黒い瞳が、じっとシリを見つめている。


ーーなんて可愛いの。


その目は、グユウにそっくりだった。


一瞬で心を奪われる。


指先が、ふくふくとした小さな手に触れると、シンはぎゅっと握り返してきた。


ーーこの子の母親は、私が嫁いできたことで城を出された。


そして、この子を置いて。


グユウが私に距離を置く理由が、少しだけわかった気がした。


妻であり、母親の座を奪った女。――それが私だ。


「抱いてみますか?」

ヨシノがおずおずと声をかける。


「抱いてみたいけど……私が抱いたら壊れてしまうんじゃないかしら」


その言葉に、ヨシノも、侍女たちも、エマまでもが思わず吹き出した。


レーク城に、こんな風に笑い声が響いたのは久しぶりのことだった。


おそるおそる、腫れ物に触るようにしてシンを抱き上げる。


「肩の力を抜いて、シリ様」


エマが囁いたが、言われたところでそんな余裕はない。


ぎこちない抱き方でも、シンはにこっと笑った。


温かな小さな身体。


甘い匂い。


ふっくらとした頬。


柔らかな小さな手。


胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。


知らない土地へ嫁いできた私と、母親と引き離されたこの子。


――少しだけ、似ている。


グユウさんは、この子にも無表情で接するのかしら。


そんな思いが過った。


ゼンシに報告するべきことは山ほどある。


けれど、その日、シンのそばを離れがたかった。


◇

夜になると、シリは再びグユウと同じ寝室へ入った。


昨夜あれほど取り乱したのに、彼は今夜も来てくれた。


そのことに、少しだけ安堵する。


――もう一緒には寝ないと、拒まれるかもしれないと思っていた。


緊張から身体がこわばる。


先に口を開いたのは、グユウだった。


「シンに会ったのか」


「はい。とても可愛らしいお子さんです。

目がグユウさんによく似ていて……」


「そうか」


シリは寝台の上で居住まいを正し、まっすぐにグユウを見つめた。


「私が嫁いだことで、前の奥様やシン様に酷なことをしてしまいました」


「……この結婚を受け入れたのは、オレだ」


「そうだとしても、グユウさんは望んでなかった。

政略とはいえ……申し訳ない気持ちです」


「シリも、オレとの結婚を望んでいたわけじゃないだろう」


その言葉に、シリは思わず身を乗り出した。


「名前……覚えていてくれたんですね!」


笑顔を向けると、グユウはわずかに目を伏せた。


少しの間を置いて、気まずそうに言う。


「もう遅い。疲れただろう」


そう言って彼は横になった。


ーーあれ? 今夜こそと思っていたのに。


グユウは、近づいたと思えば遠くへ行く。


隣で寝息を立てる彼を見ながら、シリもまどろみに落ちた。


◇

翌日。


レーク城の広間には家臣、侍女、料理番、庭師まで、すべての者が集まっていた。


今日は、グユウとシリの正式なお披露目ーー披露宴の日だ。


朗らかな雰囲気と笑い声が、城に満ちていた。


人数が少ない分、温かくて、結束の強さを感じる。


シュドリー城とは、まるで別の世界。


その中で、シリはまたもや鋭い視線を感じ取った。


義父マサキの重臣たちが、険しい顔でこちらを見ている。


ーーまた。2日前と同じ。


けれど今回は逃げず、にっこりと笑みを返してみた。


多くの者がたじろぎ、視線を外した。


ただ1人、広い肩と精悍な顔立ちをした若い男だけは動じず、シリを睨み続けていた。


その灰色の瞳に視線を返し、もう一度微笑む。


ようやく、彼も視線を逸らした。


ーーそれでも、隣の人は無関心。


淡い水色のドレスに身を包んだシリに、グユウは一瞥もくれなかった。


その夜も、グユウはシリに触れることなく眠った。


見届け役のジムとエマは、今夜も隠し部屋で監視を続けている。


2人が夫婦の契りを結ばない限り、彼らの役目は終わらない。


こうして結婚から3日が過ぎても、グユウがシリを抱くことはなかった。



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次回ーー



「疲れたわ」

結婚4日目の朝、シリはつぶやく。

乗馬、男装、質問攻め――常識知らずの新妻に、

無愛想な夫が放った一言は「美しい」だった。


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