姫は命令に従わない
春の気配がまだ遠く、寒さの残る午後だった。
開け放たれた窓から、湿った土の匂いがシュドリー城の一室へ流れ込んでくる。
ここはミンスタ領、モザ家の本城。
その三階、城の最奥にある姫君の私室――だが、その様相はどこか異様だった。
壁には戦地の地図が無造作に貼られ、
鏡台の上にはリボン、ヘアブラシではなく、
硬くて、打たれたら痛そうな鞭が転がっている。
驚くべきことに鞭は数本ある。
その鞭を手入れするために布や油が鏡台の椅子に置かれていた。
ベットの横には、戦法の本が数冊置いてある。
何も知らない者が見れば、
きっとこの部屋の主を“王子”と勘違いするだろう。
しかし、そこは姫の部屋だった。
シリは20歳。モザ家の姫である。
兄弟姉妹は二十三人。
共に育った者のほうが少ない。
特に姉たちは、十三歳を迎えるころには次々と政略結婚で他国へ嫁いでいった。
「次は私かもしれない」と緊張した夜もあった。
だが、なぜかその順番は回ってこなかった。
18を過ぎても、誰も彼女に縁談を持ってこなかったのだ。
気がついたら20歳になり、城に残された唯一の姫となっていた。
なぜ、兄は私を結婚させないのだろうか。
シリをはじめ、乳母、家臣達も疑問に思っていた。
シリ自身も18歳までは悩んでいたけれど最近は気にしなくなった。
なぜなら、男の人と一緒に過ごすより、馬と一緒に過ごす方が楽しくなってしまったのだ。
馬は良い。
気を使わない。裏切らない。
乗馬にのめり込むシリに
乳母のエマは「女性らしく過ごしてほしい」と嘆いていた。
呑気に楽しく過ごしていたのに。
「シリ、ワスト領のグユウと結婚してくれ」
領主である兄のゼンシから突然結婚を命じられた。
「・・・結婚?」
シリの声が部屋に響いた。
ーーグユウ? ワスト領? それは悪い冗談か。
突然の命令にシリは何も言えなくなってしまった
シリはもちろん、背後に佇む乳母のエマも驚きのあまり声を発することができない。
「兄上、待ってください。グユウ様はどんな人ですか。聞いたことがない名前です」
シリは思わず声を上げた。
ゼンシはすでに部屋を出ようとしていた。
ゼンシは立ち止まり、振り向きもせずに淡々と告げた。
「グユウ・セン。23歳。・・・妻とは離婚させた。シリにふさわしくないからな。赤ん坊がいる」
言葉の冷たさに、背筋が凍る。
まるで市場で家畜を選ぶかのような説明だった。
隣に控えていたエマが、驚きのあまり息を呑む気配がする。
シリは唇を強く噛んだ。
「それだけでは分かりません」
怒りを含んだ声に、ゼンシはついに振り返った。
その目は冷ややかで、鋼のように硬かった。
「モザ家の姫に生まれた以上、覚悟はしておけ。――これは命令だ」
「・・・命令、ですって」
シリは、ふっと笑った。
乾いた笑いだった。
「馬のほうが、よほど話が通じるわ」
小さくつぶやいた。
ゼンシには聞こえてないようだ。
彼女の瞳は青く澄んでいたが、その奥に、嵐のような怒りと戸惑いが渦巻いていた。
「お言葉ですが兄上、なぜ、領力が低いワスト領に嫁ぐのですか?教えてください」
シリは顎をあげて質問をした。
次回ーー
嫁ぐのは北の小領・ワスト領。
政略の駒と知りながら、シリはただ従うのではなく――
「自分の意志で」その道を選んだ。
その瞳には、乙女ではなく戦士の覚悟が宿っていた。