8.年上皇妃ブリジットの離婚事情 〜後編・スティーブン皇弟殿下の場合〜
イアンの成人の儀は滞りなく進み、国内外の貴人を招いた晩餐会も無事に終えた。あとは着替えて寝るだけとなると、今日という日を終えるのが名残惜しく感じる。ブリジットは部屋を抜け出て庭園に向かった。
護衛を遠ざけガゼボの白い石造りの椅子に腰かけると、ランタンの灯りがぼんやりと足元を照らす。ガゼボの外では満月の光が花々に降り注いでいた。
(この美しい庭園ともお別れね)
夜の庭園は鮮やかな色を隠してしまう分、香りで楽しませてくれた。今は薔薇の香りが強いが、すぐにラベンダーの季節がやってくる。皇妃としての重圧に耐えきれず、眠れない夜を幾度も過ごしてきた。そんな時はいつもラベンダーの香りが心を安らげてくれた。
(ポプリにして枕元に置いたりもしたわね。でも次にラベンダーが咲く頃に私はもう……)
物想いに耽っていると、低く落ち着いた声が降ってくる。
「おや、こんなところに花の妖精が」
「殿下!」
スティーブンがブリジットを見守るように佇んでいた。夜の闇の中で、ラベンダー色の瞳が柔らかく細められる。
「どうやら美しい花は夜露に濡れているようだ」
「あっ、申し訳ありません。少し胸がいっぱいになってしまって」
「誰にも見られないようにしてしまおう」
ブリジットが目尻をそっとぬぐうと、スティーブンがランタンの灯りをふっと消した。暗闇で二人の影が近づき、スティーブンの手が優しくブリジットの背中をなでる。
「泣くあなたを見るのは久しぶりだ」
辛い夜に庭園で涙を流したことは数知れず、そのたびにスティーブンが慰めてくれた。
(殿下の優しさは昔から変わらないわ)
満月がスティーブンの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。精悍な顔立ちは時を経てなお凛々しく、むしろ円熟さが増していた。ブリジットは胸が苦しくて目を逸らしたくなったが、最後と思えばそれもできずしっかりと目に焼きつける。いけない恋心を抱いたのはいつからだっただろうか。スティーブンに優しくされるたび、それはブリジットの胸の奥で育っていった。
スティーブン自身は、イアンの成人を見届けるまでは……と結婚を拒否してきたが、想い人がいるという噂だ。ブリジットが宮殿を去る決意をしたのは、スティーブンの結婚を間近でみたくないせいもあった。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
高鳴る胸の鼓動に気づかれないよう静かに身を離したら、強く手を引かれ抱きしめられた。
「ブリジット」
「殿下……っ!」
ふり払わないといけないと思うのに、手に力が入らない。甥の妃と夫の伯父――お互いそれ以上近づくことなど、これまで決してなかったはずだ。
「美しい花に悪い虫がつく前に、私に手折らせてもらえまいか」
「え……?」
「ブリジット、私と結婚して欲しい」
驚いて顔を上げると、いつになく真剣なスティーブンの顔を月が照らす。
「あなたたちの離婚が公になれば、多くの虫があなたに群がるだろう」
「まさかそんな」
「花は自分の美しさを知らないらしい」
スティーブンがふっと微笑む。二人きりの時だけ見せるスティーブンの優しい笑顔。胸がまたひとつ大きく高鳴った。
「あなたに求婚することはイアンに許可を取っている。もちろんあなたの父君にも」
「父にも、ですか?」
「もちろん。我々がイアンの幸せを願うように、エディントン侯爵も娘の幸せを願っている。侯爵があなたのために立派な縁談をいくつも用意していると聞き及んでね。私もぜひそのリストの末席に名を連ねさせてもらえないかとお願いした」
「殿下が末席なんて、そんな……」
「私はあなたより十も年上だ。現に侯爵は難色を示しておいでだったよ」
「父が失礼いたしました」
「いや、娘を思う父なら当然だ。だが私の熱意を汲んで、一番に求婚する権利をいただけた。侯爵はあなたの心に従うと」
スティーブンがブリジットの手を取り指先に口づける。
「私と共に歩んでもらえまいか」
了承の返事をしたいのに、動揺して喉からは音にならない声しか出せなかった。しかし想いはしっかり伝わったようで、抱きしめる腕に力が込められた。
「ブリジット」
顔がゆっくりと近づいてきて、目を閉じると柔らかく温かいものが唇に触れた。
「花を手折るのは心が痛むが、手に入れられると思うと仄暗い喜びが心を満たす」
ラベンダー色の瞳があやしく光り、ブリジットの背筋がぶるりと震える。
「私が怖い?」
「いいえ……殿下……」
それは決して恐れなどではなく、手に入らないと諦めたものを思いがけず手に入れた喜びで身体が打ち震えているだけだ。スティーブンが耳に口を寄せる。
「私の名を呼んで」
「スティーブン様……んっ」
すぐに唇がふさがれ、熱い舌が口の中を満たす。初めての深い口づけはブリジットの心も身体も甘く溶かしていった。
「誰よりもあなたを幸せにすると誓おう」
「いいえ、もう幸せ……」
満月が照らす庭園で、ブリジットは皇妃でなければ決して手に入れられなかっただろう幸せに浸るのだった。




