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江戸あやかし水幻記  作者: 猫塚ルイ


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第9話

神宝を取り戻し


雷神を退けた瑞樹さんの瞳からは、以前のような柔らかな熱が消えていた。


彼は店を去りはしなかったが、ただ静かに縁側に座り


冷徹な神の威厳を纏ったまま、空を眺める時間が増えていた。


私と目が合っても、そこにあるのは「見知らぬ人間」への淡白な会釈だけ。


胸が張り裂けそうな毎日の中で、江戸の町は七夕の季節を迎えていた。


「お小夜、そんな湿気た顔してちゃ、福も逃げるよ。ほら、瑞樹さんを連れて祭りに行ってきな」


煤けた火鉢が、珍しくお節介を焼くようにパチリと火花を飛ばした。


今日は七夕。


一年に一度、天の川の渡し守が粋な計らいをして、人と


江戸に潜む八百万の神々が境目なく混じり合う不思議な夜だ。


「……瑞樹さん。今夜、一緒に出かけませんか?」


おずおずと差し出した私の手に、瑞樹さんは無機質な碧色の視線を落とした。


「……祭りとやらに、何の意味がある。人の喧騒など、俺には不要だ」


「意味なんてありません。ただ、瑞樹さんに見てほしいんです。この町の人たちが、どれだけ星を、雨を、……あなたを愛しているか」


私の必死な訴えに、彼はわずかに眉を動かした。


「……ならば、一度だけ同行しよう」



◆◇◆◇


そしてやってきた、祭りの夜───


江戸の町は、色とりどりの短冊と


笹の葉が擦れ合う「さらさら」という涼しげな音に包まれていた。


今夜だけは、路地裏の小さな神様たちも人の姿に化け


屋台の飴を舐めたり


子供たちと駆け回ったりしている。


「賑やかですね、瑞樹さん」


私は彼がかつて愛用していた藍色の着流しを無理やり着せ、雑踏の中を歩いた。


相変わらず彼の周りだけは空気が澄んで、触れることもできないほど高潔に見える。


けれど、私の耳には、あの日失われたはずの「音」が、かすかに聞こえ始めていた。


(……うるさい。だが、なぜだろう。この提灯の灯りが、やけに目に沁みる……)


それは、記憶を失ったはずの彼の中に眠る「魂の残響」だった。


「ほら、これ、食べてみてください。江戸で一番の冷やし飴ですよ」


差し出した甘い飴を、瑞樹さんは怪訝そうに口にした。


「……甘い。そして、少しだけ……懐かしい味がする」


彼の表情が、一瞬だけ、かつての「居候の瑞樹さん」に戻った気がして、私は鼓動を早めた。


私たちは、町外れの静かな橋の上まで歩いた。


頭上には、天界へと続くような満天の星空。


そして足元には、町中の人々が願いを込めて流した


数多の「灯籠」が川面を埋め尽くしている。


「瑞樹さん。あなたの記憶の中に、私はいないかもしれません。でも、この江戸の八百万の神々も、道具たちも、みんなあなたが守ってくれたから、今夜こうして笑っているんです」


瑞樹さんは川面に浮かぶ光の群れをじっと見つめていた。


やがて、彼は自分の胸を強く押さえ、苦しげに顔を歪めた。


「……思い出せない。だが、心が騒ぐのだ。この光の中に、俺が守りたかったものが、もっと別の何かがあったはずだと」


彼はゆっくりと私を振り返った。


その瞳に、一筋の光が戻る。


神宝の冷たい輝きではなく、かつての、あの雨上がりの月のような温かな光。


「さよ……。たとえ、天界での地位も、完全な記憶も、すべてが戻ったとしても……」


瑞樹さんの手が、私の頬を包み込んだ。


ひんやりとした指先。


でも、そこからは激しいまでの「心の声」が溢れ出していた。


(……離したくない。神の座などいらぬ。俺は、この温もりの傍にいたい…)


「俺は、お前の傍にいたい。たとえ何者であったとしても、この江戸で、お前の用心棒として生きていたいのだと、俺の魂が叫んでいる」


瑞樹さんの唇から漏れた言葉は、私の涙を誘うのに十分だった。


たとえ記憶が完璧に戻らなくても、彼の魂が私を選んでくれた。


天の川の向こうで、誰かが笑ったような気がした。


束の間の平穏。


けれど、それが嵐の前の静けさであることを、私たちはまだ知らなかった。


「……なら、帰りましょう。八百万堂へ」


「ああ…」


繋いだ手から伝わる鼓動は、もう二度と解けないほど強く響き合っていた。

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