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江戸あやかし水幻記  作者: 猫塚ルイ


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第10話

七夕の祭りが終わり


江戸の町に静寂が戻ったその夜。


八百万堂の裏手に広がる古びた井戸の周りだけが、異様な冷気に包まれていた。


「……あ、がっ……!」


瑞樹さんが突然、胸を押さえてその場に崩れ落ちた。


彼の体から、取り戻した「神宝」が凄まじい光を放ち


周囲の湿気をすべて吸い上げるように渦巻いている。


「瑞樹さん!どうしたの?!しっかりして!」


駆け寄ろうとした私の足を、目に見えない「水の壁」が阻んだ。


瑞樹さんの碧色の瞳が、深い、深い水底の色へと沈んでいく。


彼の頭の中に、失われていた数千年の月日が濁流となって流れ込んでいた。


(…見つけた。やっと、見つけた……)


私の耳に、誰の音でもない、瑞樹さんの「懐かしい声」が響き渡る。


それは、今の彼のものではない。


もっとずっと古く、狂おしいほどに誰かを求めていた「水神」の絶叫だった。


瑞樹さんの脳裏に、かつての光景が蘇る。


そこは江戸よりも遥か昔、名もなき時代の村だった。


酷い旱魃が続き、大地はひび割れ、人々は飢え死にゆくのを待つばかり。


天界の法は「人の運命に干渉すべからず」と定め、雨を降らせることを禁じていた。


けれど、若き日の瑞樹さんは見てしまったのだ。


枯れ果てた村の片隅で


自分に捧げるはずの最期の水を、泥まみれの犬に分け与えて微笑む一人の娘を。


(……この娘を、死なせたくない)


たった一度の、神にあるまじき「情」。


瑞樹さんは天界の禁を破り、その村に三日三晩


慈雨を降らせ続けた。


村は救われた。


けれど、その代償として彼は神籍を剥奪され


すべての力を封じられたまま地上へと叩き落とされたのだ。


そして───彼が雨を降らせてまで守り抜いたその娘こそが


数多の輪廻を巡り、今、目の前で泣き出しそうな顔をしている私だった。


「……やはり俺が、この江戸に辿り着いたのは、偶然ではなかったのだな」


光が収まり、瑞樹さんがゆっくりと顔を上げた。


その瞳には、すべてを思い出した「完全な神」としての叡智と


そして、ひとりの男としての痛切な愛が宿っていた。


「瑞樹、さん……?思い出して、くれたんですか?」


「ああ。さよ。お前が、俺のすべてを狂わせ、そして俺に『心』をくれたのだ」


瑞樹さんは震える手で私の頬を包み込んだ。


今度は、心の声がはっきりと聞こえる。


(……お前だったのか。何百年も、ずっとお前を探していた。お前が笑っている世界を、俺は守りたかったんだ……)


「瑞樹さん、私……なにが、なんだか…」


「お前は何も知らなくていい。ただ、俺がお前を愛しているということ。それだけが、俺の唯一の真実だ」


けれど、感動に浸る時間は与えられなかった。


瑞樹の記憶が戻ったということは、天界が「罪人の覚醒」を察知したことを意味する。


突如、夜空が真っ二つに裂け


黄金の光を纏った軍勢が雲の間から姿を現した。


「罪深き水神・瑞樹よ。そして、神を惑わした人の娘よ。その因果、今度こそ完全に断ち切ってくれよう」


瑞樹さんは私を背中に隠し、腰の刀───


いや、もはやただの鉄塊ではない、水の霊力を纏った神剣を静かに構えた。


「さよ。俺がかつてお前を救うために雨を降らせたこと、一度だって後悔したことはない。……今度こそ、最後までお前の傍にいる」

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