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小説 吉田松陰 座右の火 1830-1859  作者: 山田 誠一


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第九章:武蔵の野辺に、身は朽ちるとも

安政六年(1859年)十月二十七日、午前十時。江戸・伝馬町牢屋敷の刑場。


十むら(敷物)が敷かれた白洲の上に、吉田松陰は静かに座していた。周囲を囲む幕府の検使役や役人たちは、これまで数多の罪人を処刑してきた者たちであったが、眼前の三十歳の青年の姿に、一様に奇妙な威圧感を覚えていた。


普通、死罪を言い渡された者は、恐怖のあまり腰を抜かすか、あるいは世を呪って狂乱するものと相場が決まっている。しかし、松陰の表情には、微塵の怯えも、怒りもなかった。ただ、春の陽だまりにいるかのような、穏やかで澄み切った笑みを浮かべている。


首斬り役の役職を担う九代目・山田浅右衛門が、刀を手に松陰の背後に立った。

浅右衛門は後に、この時の松陰の様子を周囲にこう語り残している。

「吉田松陰という男は、実に天晴れな人物であった。白洲に出てきても、泰然自若として少しも乱れた様子がない。自ら姿勢を正すと、検使の役人たちに向かって、実に見事な口調で『ご苦労様にございます』と一礼したのだ。あれほどの人物の首を斬るのは、後にも先にも、私の生涯で一度きりであった」


松陰の思想は、この一瞬、完全に「完成」をみていた。

(私の肉体が滅びることで、ようやく私の言葉は完成する。私が生き延びてしまえば、それは幕府の不義に妥協した証となってしまう。私がここで首を刎ねられるという非業の事実こそが、天下の義士たちの眠りを覚ます、最後にして最大の文字となるのだ)


これこそが、松陰があえて取った危険の、最終的な「答え」であった。彼は自らの命を最高の大砲の弾丸として、徳川幕府という巨大な門扉に向けて発射したのである。


「構えよ」

検使の冷徹な声が響く。


松陰は静かに目を閉じ、最期に心の中で一句を紡いだ。


「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

(私の身体は、この江戸の武蔵野の地に斬られて朽ち果てようとも、国を思う我が熱き魂だけは、この世に永久に留め置いてみせる)


浅右衛門の刀が、秋の陽光を浴びて一閃した。

鈍い音が響き、吉田松陰の三十年の生涯は、ここに唐突な幕を閉じた。


客観的にこの瞬間を俯瞰すれば、それは幕府という圧倒的な権力構造が、一人の危険思想の不穏分子を合法的に圧殺した、完全なる「幕府の勝利」に思える。一介の浪人の首が落ちたところで、天下の幕政は何一つ変わらないかのように見えた。


しかし、歴史の必然性という大局の視点から見れば、この瞬間こそが「徳川幕府の崩壊」へ向けて、最後の砂時計がひっくり返った瞬間であった。井伊直弼が冷徹に下したこの一太刀は、長州藩の若者たちの魂に、決して消えない「不滅の復讐の火」と「志への執念」を爆発的に植え付ける結果となったからである。


松陰の遺体は、小塚原の回向院に無造作に埋められた。しかし、彼の至誠のネットワークは死後も機能し続けた。牢内の仲間たちによって命懸けで持ち出された『留魂録』は、やがて密かに長州へと運ばれ、松下村塾の塾生たちの元へと届けられたのである。


安政六年(1859年)十一月、萩。

小さな松下村塾の小屋に、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤利助らが集まっていた。彼らの中心には、松陰の直筆で書かれた『留魂録』が置かれていた。


「今日死を决するの安心は四時の順環に於て得る所あり……」


久坂が震える声でそれを読み進めるうち、塾生たちの間から、嗚咽が漏れ、やがてそれは激しい慟哭へと変わった。

彼らがかつて「狂気である」として反対し、止めてしまった間部要撃策。先生は、勝算のために動いたのではなかった。己の命を「一粒の麦」として死なせることで、自分たちを覚醒させるために、あえて死地へと向かったのだという真実を、彼らは知ったのである。


高杉晋作は、血を吐くような思いで『留魂録』を抱きしめた。

「先生……間違っていたのは我らでした。勝敗など、何の意味もない。我らが、先生の遺志を継いで、この国をひっくり返してみせます!」


百姓上がりの若き伊藤利助も、拳を握り締め、涙を床に滴らせながら、己の命の使い道を定めていた。


松陰という巨星は墜ちた。しかし、彼が蒔いた「草莽の火」は、八畳一間の物置小屋から飛び出し、若者たちの血管を流れる血となって、激動の日本全体へと燃え広がり始めようとしていた。


時代は、彼らの進撃を待っている。


次章、最終章(第十章)へ続く。

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