最終章:勝算などどうでも良いのだ
吉田松陰の死から下ること、わずか数ヶ月。季節は巡り、万物が凍てつく冬から、新たな命が芽吹く春へと移り変わろうとしていた。
安政七年(1860年)三月三日、江戸の空に、季節外れの激しい大雪が舞っていた。
将軍への総登城のため、桜田門外へと差し掛かった大老・井伊直弼の行列を、突如として一団の武士たちが襲撃した。水戸浪士を中心とする尊王攘夷派の志士たちによる、白昼堂々のテロル――「桜田門外の変」である。
「天罰なり!」
雪を血で染め、最高権力者である井伊直弼の首が宙を舞った。客観的にこの事件を俯瞰すれば、それは幕府の絶対的な権威が、その根底から瓦解した「終わりの始まり」の象徴であった。そしてその引き金を引いた精神の奥底には、伝馬町で処刑された吉田松陰の、あの「止むに止まれぬ大和魂」の残響が間違いなく流れていた。
この大局の激変を、萩の地で、そして京都の動乱の中で見つめていたのが、松下村塾の生き残りたる若者たちであった。彼らの胸中にある思想は、松陰の死によって完全に変貌していた。
(勝算があるから動くのではない。正しいと信じる道を、命を懸けて貫くのだ。それこそが、先生が命を以て我らに示された『至誠』の在り方ではないか)
若者たちは、それぞれの志に従い、驚くべき変革を日本全土に巻き起こしていく。
久坂玄瑞は、塾生たちの先頭に立ち、京都を舞台に朝廷を動かす大和劇の立役者となった。彼は、身分の低い「草莽」の力を結集し、諸藩の志士たちを糾合する。元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)において、無念にも京の炎の中で自刃することとなるが、二十五歳という短い生涯は、まさに松陰が説いた「夏の苗、秋の実り」を体現する、峻烈極まるものであった。
高杉晋作は、松陰の「身分を排した草莽崛起」の思想を、最も具体的かつ実戦的な形で具現化した。彼は、武士だけでなく、農民や漁民、商人の倅を集め、実力のみで戦う前代未聞の軍隊「奇兵隊」を創設した。
「面白き こともなき世を 面白く」
旧弊な長州藩の俗論派(保守派)をわずか数十騎の兵で打倒し、さらには幕府が送り込んだ十万の大軍を四境の戦いで破るという、奇跡の構造的逆転劇を演じてみせたのである。晋作もまた、結核という病魔に冒され、二十九歳でこの世を去るが、その命の使い道は、日本の歴史を完全にひっくり返す爆発力となった。
そして、生き残った者たちもまた、松陰の「知」と「誠」を新政府の礎へと注ぎ込んだ。
桂小五郎(木戸孝允)は、薩摩藩の西郷隆盛らと協調して薩長同盟を結び、ついに明治維新という大業を成し遂げる。
足軽出身の伊藤利助(博文)は、初代内閣総理大臣として近代日本の憲法を起草し、山県小輔(有朋)は近代軍制の父となった。
彼らは、かつて松下村塾の八畳一間で、松陰と共に瓦版を広げて議論したあの夜を、生涯忘れることはなかった。
明治二十三年(1890年)、総理大臣の職を辞した伊藤博文は、かつて師が幽閉されていた野山獄の跡地を訪れ、静かに涙を流したと伝わる。
(先生、ご覧くださりませ。お前は実直に動く誠があると仰っていただいたあの利助が、異国と対等に渡り合う、新しい日本の国を創り上げましたぞ)
人間の生涯の価値とは、何によって決まるのか。
二百六十余年続いた徳川の世という、絶対的な「時代の制約」の中で、吉田松陰は一介の浪人として、何一つの権力も、富も、軍隊も持たずに死んだ。三十歳という若さは、この世の基準で言えば、道半ばの挫折に見えるかもしれない。
しかし、実証主義に基づいた歴史の必然性が物語るのは、彼の死こそが、最も巨大な「生」の始まりであったという事実である。松陰が己の死を恐れず、至誠を貫いて蒔いた一粒の麦は、松下村塾という苗床で育ち、やがて日本という巨大な国家の、黎明の光となったのである。
己の志はどこにあるのか。
何に命を使い、何を次代へと遺すのか。
百数十年の時を越え、松陰が遺した『留魂録』の墨痕は、今なお魂を激しく揺さぶり、その行く道を照らす「座右の火」として、静かに燃え続けている。
(『座右の火』全十章・完)
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