第二章 氷室叡――中東方面派遣隊司令 その二
六
「私は現場の状況を把握しようと努めましたが、被告人の独断による攻撃、および敵艦船乗員の救助放棄は、覆しようのない既成事実となっていました。特に、被告人による敵艦船撃沈は、我々自衛隊や、日本の民間船を危険にさらしたのみならず、“三日間戦争”と呼ばれる戦後日本最大の混乱を引き起こした……」
氷室は、特に“三日間戦争”という言葉に力を込めた。
「幸い、敵艦船はイラン軍の統制を離れたテロリスト部隊であったことが判明し、事態は沈静化しましたが、もし、これがイラン正規軍の艦船であったならば、我が国がイランから宣戦布告されかねない――いや、そこまでいかなくとも、イラン軍が我々自衛隊や日本のタンカーを攻撃する口実を与えかねない、非常に危険なものでした」
大きな声を震わせここまで語った氷室は、いったん口を閉ざした。
よく見ると、声だけでなく、氷室の腕も細かく震えている――
それを悟られまいと、氷室は大きく息を吸ってから、続けた。
「あの時点で、私に残されていたことは、邦人救助だけでも成し遂げるよう彼らに厳命することだけでした。そして幸いにも我が国の炎上するタンカーから邦人十一名を救助することができた――この際、敵兵を“排除”したことは、彼らがテロリストであったことも考え合わせれば、立入検査隊の行動には、法的に何ら問題なかったと私は思っています。いや、彼らの行動は英雄的であったとさえ評していいでしょう。ただ、館野隊長の未帰還は……ええ、本当に――不幸な出来事、でした……」
沈痛な面持ちで言葉を絞り出す氷室――
眼鏡をやや震える指先で押し上げ、きっ――と鋭い眼差しで正面を見据えた。
「風間二佐が、我が隊の指揮命令系統に則って行動していたならば、こうした現場の混乱を未然に防止でき、整然とした作戦行動となれば、館野隊長を喪うこともなかったのではないかと、私は残念でなりません。現場の指揮官として、我々の部隊どころか、日本すらも未曽有の混乱に陥れた風間二佐の判断は、あまりに軽率であり、海上自衛隊の規律を根幹から破壊するのみならず、法治国家としての日本の立場をも蔑ろにするものでもありました。しかしながら――」
氷室は再び風間を、ちらっ――と一瞥した。
風間は、無表情に視線を床に落としたまま動かない――
「副長の村澤君には、なんら罪はありません。彼は最大限、自衛隊の規律と法を守ろうと最後まで死力を尽し、タンカー救出においては、見事自己の職責を果たしてくれた。そんな村澤君を、私は誇りに思っています。それだけは、最後に一言、申し添えさせていただきたい」
氷室の結語を聞いた主任検事は、厳しい顔つきで一度、しっかりと頷き――
「私からの質問は以上です」
着席し、質問を終えた――
七
青い空の下、巨大な港が渇いた大地に張り付いていた。
氷室は、ボート上で、太陽光に熱せられた風を浴びている。
岸壁のひとつに、護衛艦『ぎんが』の巨大な艦体が接岸していた。
オマーン国、ドゥクム港――
中東方面派遣隊の、実質的な現地の母港、である。
タンカー『五輪丸』の乗員十一名を救出したあの夜から一週間――
『ぎんが』は交代の艦が派遣されるまでここで待機し、『てんま』は一時的にその任務を兼務するよう指令を受けていた。
『てんま』は、港の港外に停船し、氷室と『てんま』幹部を乗せたボートが、今、港に向かって疾駆していた――
「それにしても、風間って艦長、やるなあ」
背後で幹部の一人が言った。
「まったくだよ、大したもんだ、あの状況で、十一名の邦人の命を救ったなんてな」
「おい、余計な話をするんじゃない」
渡辺艦長が、振り返って注意する。
「奴がどんな行動を取ったか知ってるだろう。お陰でイランと日本は戦争しかけたんだぞ。手放しで喜べる話じゃない」
「はい、軽率でした」
「申し訳ありません」
渡辺の叱責と幹部の謝罪に、氷室はやり切れない思いで腕を組む。
その氷室の視界に――『ぎんが』の巨体がそそり立った。
「おい……見ろよ」
「――すげえな」
背後の幹部たちが驚きの声を上げる。
『ぎんが』の艦首番号が、大きな穴でえぐれていた。
“敵艦”の砲弾を受けた痕だ。
へこみ、めくれ上がった鋼板の縁――
奴はあの時、“戦争”をしていた――
氷室はいまいましげに弾痕を睨みつける。
何もかもが制御不能だったあの夜――
氷室の胸を、苦々しい何かが突き上げた。
我々と日本全体を危機に晒した引き金を、風間は、迷いなく引いたのだ。
その一方で、奴は「日本人乗員十一名救助」という成果を上げた。
そしてそれを≪≪賞賛している者が確かにいる≫≫。
この事実が、氷室の胸を苦しめ続けていた。
なぜだ。
自衛権を逸脱し、国際法も無視した男が、賞賛の的になるなど……
そして、俺は間違いなく、責任を取らされ、懲戒処分を受ける――
だけで済めばよい、懲戒だけで終われば……が、しかし――
氷室は激しい胸やけを自覚する。
くそっ――
やがて――ボートは桟橋に接岸し、氷室たちは上陸した。
向こうから、二人の士官が近づいて来る。
『ぎんが』艦長の風間と、副長の村澤だった。
相互に歩み寄り、風間と村澤が敬礼した。
氷室も答礼する。
「司令、『ぎんが』及び乗員、並びに救助者十一名に異状、ありません」
風間の薄灰色の瞳を見詰め、氷室は「うむ」と頷いてから、村澤に目を向け、
「ご苦労だったな」
声をかけた。村澤は、氷室からすっと視線を外すと、
「はい――」
小さく返事をした。
八
「館野一尉は、残念だった」
氷室は、横を歩く風間と村澤に声をかけた。
二人は沈黙したまま――地面を踏みしめる足音だけが響く。
「だが、彼は、十一名の邦人を救出してくれた。救いは、館野君が見事に職務を全うしてくれたということに尽きるな」
風間も村澤も何も答えず、視線を落としたままだ。
ドゥクム港を、熱い風が吹き渡った。
接岸した『ぎんが』が正面に迫る。
舷側から降ろされたタラップを、十名ほどの日本人が下りていた。
「司令――ちょうど今、『五輪丸』の生存者を下艦させているところです」
村澤が説明した。
「おーい、ゆっくり休めよ!」
「日本に帰ったら、メールよろしく、カオリちゃーん!」
『ぎんが』艦上から声がかかる。
舷側には多くの乗組員たちが立ち並び、生存者たちを見送っていた。
「慣れ慣れしいんだよ! 全く……でも、本当にありがとう!」
大地を踏みしめた大柄な女性――カオリ――が、笑顔で手を振る。
隣には、小さな女性が寄り添うように立っていた。
「カイトぉ! またお前のカレーライス、食べさせてくれよぉ!」
艦上からの別の声に、タラップを降りていた華奢な青年が振り返り、
「いつでも呼んでくださいよ! ……って、無理かぁ」
氷室の胸中に、一服の清涼剤が吹き込まれた。
まだ心に傷を負ったままの生存者もいるが、笑顔を取り戻せた者もいる。
一瞬、氷室は、自衛官としての誇りを胸に感じることを己に許した。
その後、氷室は、『ぎんが』の接岸した岸壁に集まっていた日本大使館やオマーン国の代表者と、あいさつと握手を交わした。
これから、『ぎんが』の救った生存者たちを、彼らに引き継ぐのだ。
風間が、大地に立った生存者たちに向き直り、艦内での不便を謝し、労をねぎらい、安心して帰国の途に就くよう告げた。
その声は、あくまで落ち着き払っていた。
生存者の中から、カオリが小柄な女性の腰を支えたまま、風間の前に進み出た。
「本当に、ありがとうございました!」
大きな声で言い、頭を下げる。
「ありがとうございました!」
生存者全員がカオリに倣う。
「大丈夫ですか?」
頭を上げたカオリに、風間が心配そうに声をかけた。
カオリは、脇に抱えた女性を見詰め、
「ええ……ええ、何とか、連れて帰ります、日本に」
女性のうつろな目は、何も映していないようだ――
「時間はかかるでしょうけど……私たち、多分、あの海に、何かを置いてきてしまいましたから……」
その言葉が、氷室の胸を小さく疼かせた。
九
「すまない」
制帽の下の薄灰色の瞳を落とし、風間がカオリに謝した。
どくん……氷室の心臓が一拍――ゆっくりと鼓動した。
「そんな! 艦長はそんな、謝らないでください!」
カオリの声が弾けた。
「私たちみんな、艦長には感謝してるんですから! 艦長は立派です! 私たちを、あの地獄から救い出してくださったんです! だから……」
それでもなお、風間は顔を上げない。
カイトと呼ばれた青年も、
「そうですよ! 艦長! 艦長はもっと胸を張ってください! 僕たちが一番、艦長のこと解ってるんですから! 艦長は、僕たちにとって英雄です!」
風間は薄灰色の瞳をカイトに向け、ふっ……と力なく笑った。
「では皆さん! これからオマーン国への入国手続きのために移動します。ついて来て下さい!」
大使館職員の声がカオリたちに飛んだ。
カオリは、もう一度、風間に頭を下げると、
「ありがとうございました、本当に……」
カオリの目から、涙がこぼれた。
そんなカオリを、風間が静かに見詰めている――
「さよなら」
言って、カオリは、生気のない女性を支えながら歩き始めた。
「艦長! ありがとうございました!」
カイトが風間の右手を両手で握りしめ、その場を去る。
「艦長! ありがとうございました!」
「艦長! お元気で!」
風間の前で頭を下げたり手を握ったりしながら、口々に別れを告げる生存者たち。
彼らはまた、村澤や氷室たちにも、次々と礼を言って去って行く――
氷室は心の中で呟いた。
「すまない」だと?
礼を言い、頭を下げる生存者たちを笑顔で見送りつつ、氷室の心は急激に曇っていく――
なぜだ? なぜ、奴は生存者に謝ったんだ?
そんな氷室の背に、『ぎんが』艦上の自衛官たちの、
「元気でな―っ!」
「しっかりやれよー!」
見送りの声が刺さる。
「いやあ、やっぱり気分いいなあ」
「そうだな、風間艦長の指揮のお陰だな!」
彼らの言葉が、氷室の胸の奥を、ざらり――と撫でつけた。
「イケイケイケメン艦長! ってバカにしてたけど、どうしてどうして、英雄だぜ!」
「だから俺は前から言ってたんだ! あの人はやる人だって!」
「何言ってんだよ、お前だって――」
そんな声を聞きながら、氷室の胸中にどす黒いものが渦巻き始める――
……何が英雄だ――
規律を破り、手順を踏まず、独断で動いた者が、英雄だと?
氷室は、舷側から立ち去る『ぎんが』乗員たちを睨み上げた。
危険だ――
戦争を起こしかけた者を――
あわや国を滅ぼしかけた男を英雄と呼ぶ。
こんなことは赦されない。
奴の重い責任を、白日の下に晒さねばならない――
氷室の胸の奥で、何かが焼けつくように疼いた。
オマーンの熱い大気に、冴え冴えと氷室の心は凍りついていたのだった――




