第二章 氷室叡――中東方面派遣隊司令 その一
一
関東地方裁判所第104号法廷――
この日も傍聴席は満席だ。
傍聴席の片側は、報道陣の腕章が二列並んで、静かな緊張が漂っている。
そんな中――被告人席の風間の白い制服が、やけに目立っていた。
証言台には、細身の身体に隙なくスーツを着こなした初老の男が立っている。
眼鏡の中の鋭い眼光が、見る者に冷たい印象を与える。
証人として嘘をつかない――と宣誓し、男は椅子に腰を下ろした。
「それでは検察官――主尋問を」
女性裁判長のゆったりとした声に、主任検察官が立ち上がり、質問を始めた。
男は氷室叡と名乗り、階級は一等海佐である、と述べた。
「現在の、証人の任務を教えてください」
「今は防衛研究所に勤めています」
淡々とした声が法廷に落ちる。
「2026年〇月〇日の時点では、証人は中東方面の活動部隊司令として勤務していましたね?」
「はい、そうです」
「あの『三日間戦争』と呼ばれる危機の渦中に、現場の最高指揮官だったのですね?」
「そうです」
「当時の編成を教えてください」
「当時、私は護衛艦『てんま』に乗り、ソマリア沖の海賊対処活動に従事していました。そして、オマーン湾で情報収集任務に従事する護衛艦『ぎんが』を麾下に置いていました」
「その『ぎんが』の艦長が、被告人だったのですね」
「そのとおりです」
氷室は、正面を向いたまま微動だにしない。
「当時の証人の、被告人の印象を聞かせてください」
「被告人――風間は、一風変わった男として有名でした。私の印象では、現場偏重主義とでも言いましょうか……演習訓練などで、法で定められた手続きを踏まず発砲を指揮するなど、好戦的な性格を有する指揮官、という認識です」
すっ――と、氷室の細い指が眼鏡のブリッジを押し上げた。
「なるほど。では、そんな彼を指揮下においた証人は、どんな心境でしたか?」
「疑問に思いました」
「何を疑問に思ったのですか?」
「なぜ、このような好戦的な指揮官を、この微妙な海域に送り込むのかと」
「なるほど、証人はこの人事に不安を覚えた、と?」
この時、初めて氷室は、ちらり、と風間を一瞥した。
だが――風間は、身動きひとつ、しない。
氷室は、目線を正面に戻し、
「そのとおりです」
「証人は被告人とどのような関係を持とうとしましたか?」
「風間には、独断専行せず、何かある場合は必ず私に連絡するよう厳命しました」
「その証人の命令は守られましたか?」
氷室の眼鏡の中の眼が、すっ――と細くなった。
「いえ……守られない時もありました」
「今回の事件の夜も、守られなかった時だった、ということですね」
「そうです」
氷室の声が、ぽつりと落ちた。
そして主任検事は一歩踏み込み――
尋問は、いよいよ当夜の状況に入って行った。
二
艦長からの要請を受け、氷室は急いで艦橋に上がった。
照明を落とした暗い艦橋、細かい雨滴に覆われた窓――
どす黒い海が重くうねり、護衛艦『てんま』がわずかに揺れる。
「どうした。何があった」
氷室の下問に、敬礼した艦長、渡辺二佐が、
「はっ! 先程、『ぎんが』副長、村澤三佐から連絡がありまして」
「ふむ。村澤君は、何と?」
村澤三佐。
慎重で法を守る、模範的自衛官――
「日本のタンカーからの救難信号を受け、風間二佐が司令の指示を待つことなく、急行を指揮したと」
胸騒ぎが走る。
中東派遣艦隊の司令官に氷室が任命された時――
麾下に『ぎんが』が組み込まれると知り、氷室は不安を覚えた。
艦長は、あの“好戦的な”男、風間だ。
だからこそ、副長に村澤を推した。
風間を止められるのは村澤しかいない、と思って。
事実――氷室の懸念は的中した。
“常に状況を報告せよ”という命令を無視し、風間はたびたび先走った。
その都度、村澤が報告を入れてくれたお陰で、風間を止めることができた――
氷室はそう、信じている。
そして――
今回もまた、風間は突っ走っている。突っ走ろうと、している――
イラン情勢が落ち着き始めている今、判断を誤ると重大な外交問題となる。
このことを、風間は判っているのか。
「救難信号の発信地点は?」
「ホルムズ海峡からオマーン湾に出てしばらくした海域だと」
風音が鳴り、したたかな雨が窓を打つ。
「続報はないか?」
「今のところ、まだ」
氷室は大きく息を吐く。
『てんま』と『ぎんが』の間の距離は、約千百海里――
どんなに不安に感じても、『ぎんが』の“現場”に手は出せない。
待つしかないのか。
外交問題程度ですめばいいが――
氷室は、不気味にうねる黒い海面を、じっ――と見詰めた……
三
ざあっ――
雨が窓を叩きつけ、着信音が暗い艦橋の静けさを切り裂いた。
「『ぎんが』の村澤副長からです」
通信員が報告する。
受話しようとする渡辺艦長を制し、氷室は自らハンドセットを取った。
「氷室だ」
しばらくの間――衛星通信の僅かなラグ。
「し、司令!」
切迫した村澤の声が耳に届く。
この“ラグ”が村澤との――『ぎんが』との、埋められぬ距離そのものだ。
「どうした、何があった?」
「はい、その、本艦は、国籍不明の艦艇を撃沈し、目下――」
「何だと!」
反射的に叫んだ。足元の床がふわりと揺れる。
「撃沈? どういうことだ!」
「あ、いや、その、救難信号の発信源で、我が国のタンカーが炎上しているのを確認したんです……風間艦長は直ちにタンカーの救助に急行する判断を下し、そ、そこに国籍不明の艦船が急迫してきて……」
「撃ったのか!」
「は、はい、風間艦長の命令で……」
遠くの雲がぎらりと光る。
目の前が真っ暗になる。受信機を握る手が冷たい――
「君は制止しなかったのか!」
思わず怒鳴る。
「い、いえ、私は止めたのですが、風間二佐は、全く聞き入れず……」
何という事だ――絶望的だ。
海上自衛隊開隊以来の一大不祥事――
国籍不明? どこの船だ? まさか――イランか?
であればせっかく収束に向かっていたイラン戦争が再燃する。
防衛省も非難を免れない――国民も自衛隊非難に回る……
アメリカは? 待て、待てよ――
もしかしたらイランと日本は“戦争”に?
イランが我々を攻撃してくる可能性は?
ペルシャ湾の我が国のタンカーは?
いや、待て、日本本土は? 本土も標的に?
くそ、まずい、まずいぞ……よりによって私が司令の時にこんな――
だから村澤を副長につけたというのに。
風間、やりやがった……やはりアメリカ人の血か、これは――
短い間に、思考がぐるぐると踊る。
ざおっ――艦外の雨勢が強まった。
暗い中、視界の隅で呆然と自分を見つめる渡辺艦長の視線――
「そ、その後、撃沈した艦船の乗組員が波間に漂っていたのですが、艦長はそれを無視し、タンカー救助を優先すると言って……」
もう聞きたくなかった。
終わりだ。自分のキャリアも、これまでの経歴も、何もかも――
いや、それどころか――
自分は法廷に立つのか?
日本には軍事法廷はない。
とすると、この責任は――
内部の“懲戒処分”だけですむのか?
――刑事裁判?
私が……被告に?
いや、待て――そんなのはごめんだ。
私は現場にいなかった、この件の――
“戦争”の全責任は、艦長である風間ジェミニにあるはずだ……
「……現在、本艦はタンカーの乗員を救出すべく航行中です……か、艦長に撃沈した艦船の乗組員の救助を優先するよう指揮してくださいますか?」
村澤の声が遠い。
しばらく黙ってから――氷室は言った。
「いや……いい……そのまま、タンカーの邦人救助を優先しなさい……任務が終了したら、また報告をしてくれ……後は……君に任せる」
高波に乗り上げた『てんま』の床が、ぐわっ――と揺れた。
君に任せる、か――
氷室は自嘲した。
艦長は風間だ。
村澤にそう告げたところで、指揮権が移動するわけではない。
いや、司令権限を行使し、指揮権の臨時移譲を命じることも可能だ。
だが、引き金はすでに引かれていた。
今さら指揮官をすげ替えたところで何になる。
この破滅的な事態をなかったことにはできない。
もはや――何もかも手遅れだった。
そして、“邦人救出”のみが、残された“最善手”であることは間違いなかった。
「解りました」
村澤が言った。
無念さを滲ませた声――
大丈夫だ――君のことは、悪くしない。
心の中で語り掛け、回線を閉じる。
渡辺艦長が険しい視線を向けてきた。
氷室は力なく笑いながら、
「心配するな。君や村澤君には害が及ばぬよう、努力するさ」
窓外では、いよいよ降りつのる雨幕の向こうで、雲間に不気味な雷光が瞬いていた……
四
指先が冷え切っていた。
ぎゅっ――と、氷室は拳を握りしめる。
ここは、関東地方裁判所の証言台席――
今、私は被告人ではなく、証人として、ここに座っている――
その事実を噛みしめ、ゆっくりと顔を上げた。
「被告人のイラン艦船撃沈について、証人のお考えをお聞かせください」
この質問は私を追い詰めるものではない――
氷室は、冷えた指先で眼鏡を押し上げる。
「軽挙妄動――いえ、暴挙です」
断言した。
「では、証人は、被告人はどうするべきであった、と思われますか?」
「警告、威嚇射撃――と、手順を踏むのがセオリーです」
「なるほど、ではまず、警告するべきであった、と」
「そうです」
主任検事が少し間を置く。
「しかし、証拠の記録映像では、『ぎんが』はほぼ同時にイラン艦船から攻撃を受けています。このことについてはどう思われますか?」
「攻撃を受けてからの反撃であれば、正当防衛です。ですが私は、攻撃を受けてもなお、反撃せず警告を与え続け、相手が何者なのか問うべきだったと思料します」
「攻撃を受けても、なお、反撃せず警告を――」
ざわめきが走った。
傍聴席の報道員数名が、一瞬、顔を上げ――また、書類にペンを走らせる。
「そこまでしなければならないと思う、証人のお考えをお聞かせください」
「明白です。相手がイラン艦船であると判明すれば、交戦を避けるよう説得に切り替えられる。そうすれば、日本を混乱に陥れた『三日間戦争』は防ぐことができました」
氷室は、いったん言葉を切り、傍らで俯いて座る風間に視線を移す。
「後の分析で、撃沈した舟艇にはテロリストの指揮官と通訳が乗っていたと判明しています。被告人がこれらを一撃で排除してしまったために、交渉の窓口が失われ、現場は最悪の混乱に陥ってしまった――」
冷えた視線で風間を刺してから、正面に向き直って胸を張った。
「まったくもって、被告人の指揮は、自衛権を逸脱し、現場を混沌とさせた――
暴挙の極みであったと、断じざるを得ません」
氷室から、断罪の白い意思が立ち上るようであった――
その後も、検事は淡々と質問を続けた。
村澤は、適宜、氷室に『ぎんが』の救助状況を報告していた。
タンカーには敵性兵士少なくとも十名が乗り込んでいること。
立入検査隊に銃器使用を許可して乗り込ませたこと。
十一名の乗組員を救助できたこと。
銃撃戦になり、敵兵を排除したこと。
館野一尉が未帰還、という不幸が起こったこと――
それらすべてを、氷室は、村澤からの報告で知ったのであった。
「この件に関し、最後に貴方が言っておきたいことはありますか?」
この質問に、氷室の意識は事案の翌朝の海に引き戻されて行った――
五
朝の陽光がギラギラと海面を照り返り、艦橋に突き刺さる。
昨日の荒天から一転、雲はすっかり薙ぎ払われ――
カモメか?
青い空を白い鳥がのんびり飛んでいるのを、氷室は忌々し気に睨んだ。
ピ――――ッ
甲高い通信音が艦橋をつんざく――
「司令。横須賀の艦隊司令部から緊急指示入電。ディスプレイをご確認ください」
渡辺艦長と共に、ディスプレイを覗き込む。
直ちにオマーン湾に向かい、『ぎんが』と合流せよ。
合流後は、オマーン国のドゥクム港に向かい、『五輪丸』乗員を降ろせ。
同海域は極度の緊張状態にある。
不測の事態に万全を期し備えよ。
渡辺は、さっと立って艦内マイクを取ると、
「これより、本艦はオマーン湾に向け急行する! 面舵一杯!」
ずざざざざざ――
『てんま』が大きく右に舵を切る。
「『ぎんが』と回線を開き、現在位置を報せるよう指示――両舷全速、第一戦速!」
ドゥルルルルルルル……!
機関の音が明らかに変わり、艦橋が震えた。
『てんま』は青い海を疾駆し始めた。
しばらく腕組みをして艦首方向を睨んでいた氷室が、
「渡辺君」
声をかけた。
「強速でいい。航行速度を強速に落としなさい」
「は? 強速、ですか? ですが、司令部からは――」
「航行速度の指定まではされてはいまい」
「は、はあ」
困惑を隠しきれない表情で見詰め返す渡辺――
氷室は、その視線を愉しむように唇の端を吊り上げた。
「判らんか。今、『ぎんが』周辺の海域は一触即発の危険な状態だ。そこに本艦が急行すれば、イラン海軍を強く刺激しかねん。しかも、状況は不透明だ。第一戦速で燃料を浪費すれば、後の作戦行動に支障をきたす――判るな」
ゆっくりと、教え、諭すように言った。
渡辺は、しばし氷室を凝視し――踵を返すとマイクを再び握り、
「航行速度、強速! 強速に変更せよ!」
徐々に――艦橋を揺らす機関の振動が緩やかになった。
これでいい――
何も風間と心中する必要はない。
奴の始めた“戦争”に、私が巻き込まれる言われはないのだ……
茫漠たる青い海の先の、『ぎんが』のいる一点へ、氷室は冷えた視線を送り続けていた――




