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宇治、よりみち茶房にて――参道の片隅で、好きだったものにもう一度  作者: 明石竜


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最終章 宇治、よりみち茶房にて

 四月になった。

 店の引き戸を開けると、朝の空気はまだ少しひんやりとしていた。

 四月の宇治は、日差しがやわらかいわりに、朝だけは冬の名残をかすかに残している。史桜里は店先に出していた小さな立て看板を拭き、黒板の前でいったん手を止めた。

 黒板には、昨日の夕方に書いた文字がまだあった。

 本日のおすすめ。宇治抹茶ラテ。ほうじ茶プリン。春限定、いちごと抹茶のミニパフェ。

 文字の横に、叶羽が描いた桜の枝のシルエットが入っていた。先月、一緒に春の黒板を作った時のものだった。叶羽の絵と、史桜里の文字と、二人で考えた余白の配置。今年の春の黒板は、去年とは違った。

 史桜里はそれを少し離れたところから見た。

これでいい、と思った。

去年は、その感覚をつかむまでに少し時間がかかった。けれど今は、黒板の前に立ったときから、もうそれがわかっていた。


 開店準備を始めながら、史桜里は今年の四月のことを考えた。

 去年の四月、叶羽が初めてこの店に来た。スケッチブックを抱えて、窓際の席に座って、抹茶ラテを頼んだ。何を描いているのか気になりながら、史桜里は声をかけられなかった。

 それから一年が経った。

 今は叶羽と一緒に黒板を作る。拓人と紙もの、の構成を話し合う。山吹の文章を読んで、感想を返す。そういうことが、自然にある。

 去年の四月には、なかったことだった。


「朝倉、豆ひくぞ」

 店の奥から佐伯の声がした。

「はい」

 史桜里は返事をして店内へ戻った。

 磨いたばかりのグラス、整えた椅子、窓際の二人席、まだ誰も座っていないカウンター。開店前の店が、きれいに息を止めているみたいだ、とまだ時々思う。

 でも今は、少し違う感じもあった。

 息を止めているのではなく、始まる前の静けさだと思うようになっていた。同じ景色なのに、見え方が変わっていた。


 入り口のカウンターに、春の紙もの、を補充した。

 冬の版は十二月から三月まで置いていた。春の版は今日から。叶羽の絵が変わった。宇治橋の欄干越しに見える藤の花、茶葉の新芽、「よりみち」の窓際から見える春の参道。史桜里の一言の文章は変えなかった。

 どこかへ向かう途中に、ここがある。

 その言葉は、季節が変わっても変わらないと思った。


 暖簾を出して、引き戸を引き開けた。

 朝の光が、一つのかたまりのように店の中へ入ってきた。

 参道はまだ静かだった。土産物屋が開きかけている。遠くで車の気配がする。店の奥から、抹茶の香りが漂ってくる。

 去年の四月と、同じ朝だった。

 でも史桜里は、去年の四月の自分とは少し違う場所に立っていた。


 最初の客は八時過ぎに来た。

 五十代くらいの女性で、一人だった。入り口で立ち止まって、紙もの、を手に取った。地図を開いて、少し見てから、鞄に入れた。

「いらっしゃいませ」

「おはようございます。平等院、開く前に少し休もうと思って」

「どうぞ、お好きな席へ」

 女性は窓際の席を選んだ。史桜里が水を持っていくと、「春のメニュー、ありますか?」と言いながら黒板を見た。

「はい、いちごと抹茶のパフェが、今月から出ています」

「それにします。あと、抹茶ラテも」

「かしこまりました」

 史桜里は厨房へ向かった。

 注文を受けて、水を出して、ラテを作る。そういうことは、もうずいぶん自然にできるようになっていた。去年の四月にも、そう思っていた。今年の四月にも、そう思っている。

 ただ今年は、そう思いながら、同時に別のことも考えていた。

 春の紙もの、次に直したいところがある。地図の宇治橋の部分の縮尺が、少しずれている気がして。直してから、また刷り直そうと思っている。

 仕事をしながら、作ることを考えている。その二つが今は、重なっている。


 午前中、何組かのお客さんが来た。

 家族連れが来て、子どもが宇治金時を見て「かき氷ある」と言った。春にはまだ少し早い、と史桜里は思ったが、メニューに入れてもよかったかもしれない、とも思った。来年の春、検討しよう。

 修学旅行生の引率の先生が一人で来て、生徒を連れてくる前に下見をしていた。史桜里が「何人でご来店の予定ですか」と聞くと、「三十人くらいで」と言った。予約の話をして、団体席の案内をした。こういうことも、今は慣れていた。

 海外から来た二人組が入ってきた。メニューを指差しながら、英語で何か話していた。史桜里は近づいて、簡単な英語でやりとりをした。宇治金時を指差して、「こちらは抹茶のかき氷です」と説明すると、二人は嬉しそうに頷いた。


 昼前に、沢渡さんが来た。

「おはようございます、史桜里さん」

「いらっしゃいませ、沢渡さん。今日は早いですね」

「今日は花見の前に寄ったの。宇治川沿いの桜、まだ少し残ってて、昼前に歩こうと思って」

「いいですね、今日は天気もよくて」

 沢渡さんはほうじ茶と柏餅を選んだ。五月が近くなると食べたくなる、とまた言った。今年も同じことを言ってくれた。

「史桜里さん、入り口のところのパンフレット、変わったわね」

「春の版に作り直しました」

「また作ったの。叶羽ちゃんの絵も変わって、素敵よ。藤の花、好きよ」

「ありがとうございます。少し直したいところも見つけてて、また作り直す予定で」

「また直すの」

「直せるうちは、直したくなってしまって」

 沢渡さんは少し笑った。

「それがいいのよ、直し続けられるうちは、作り続けてるということだから」


 午後になって、参道が込み合ってきた。

 観光客の声がして、土産物屋の呼び込みが聞こえた。修学旅行生が何列かになって歩いていくのが、窓から見えた。「よりみち」の席も、次第に埋まってきた。

 史桜里は動き続けた。

 注文を聞いて、運んで、会計をして、次のお客さんを案内する。仕込みの補充を確認して、佐伯に声をかける。お客さんがメニューを迷っていたら、少し話しかける。

 込んでいる時でも、今の史桜里は落ち着いていた。

 この場所の真ん中にいる感じ、と沢渡さんが去年言ってくれた。今日もそういう感じがあった。


 三時過ぎに、叶羽が来た。

 スケッチブックを抱えて、入り口のところで春の紙もの、を一度手に取って見てから席へ向かった。

「変わりましたね、春の版」

「今日から出しました」

「藤の花の部分、前より線が細くなってる」

「描き直してもらったんです。先月よりよくなった気がして」

「わたしも、そっちの方が好き」

 叶羽は窓際の席についた。スケッチブックを開いて、今日の宇治を描き始めた。

 去年の四月と同じ席で、同じように描いている。でも今年の叶羽は、去年より少し違った。手の動きが迷わなかった。描くことが今の叶羽の場所になっていた。


 夕方に、拓人が来た。

 方眼紙のノートを持っていたが、今日は開かなかった。ほうじ茶を頼んで、窓の外を少し見ていた。

「ゲーム、どうですか」

「先月、公開しました」

 史桜里は少し驚いた。

「公開したんですか」

「しました。小さいゲームで、完成度もまだ高くないですけど、出せました」

「どうでしたか、出してみて」

「こわかったです。でも、出したら、感想を書いてくれた人がいて。面白かった、という人も、ここが気になった、という人も。全部読みました」

「よかったですか」

「よかったです。完成前に止まってたら、何も起きなかったと思うから。出して、反応があって、次を作りたいと思えた」

 次を作りたいと思えた。

「次はどんなものを作りますか」

「まだ決めてないですけど、今回のゲームで宇治のことを少し入れたくて。参道を歩くゲームを作ってみたいと思ってます」

「宇治の参道を歩くゲーム」

「朝倉さんの紙もの、を見てたら、参道を歩く感じをゲームにできたら面白そうだと思って。まだアイデアの段階ですけど」

 史桜里は少し笑った。

「紙もの、が影響したんですね」

「影響しました」


 夕方の終わりに、山吹が来た。

 今日は制服ではなかった。春休みだったためか、今日は私服で来ていた。

「久しぶりの私服」

史桜里はこう反応する。

「学校が終わって、少し気が抜けてます」

 山吹はほうじ茶ラテ、アイスで、と頼んで、いつもの席に座った。スマートフォンを出してから、今日はすぐに置いた。

「今日はどうしたんですか?」

「書けない日で。でも家にいると余計に書けない気がして、来ました」

「来てくれてよかったです」

「来たら、少し落ち着いた」

 山吹はラテを飲みながら、窓の外を見た。

「宇治、今日もきれいですね」

「そうですね」

「去年の春から来てるけど、同じ季節がまた来るのが、なんか好きで。同じようで、少し違って」

「どんなところが違いますか?」

「わたし自身が少し違う気がして。去年の春と今年の春、同じようにここに来てるけど、去年より少し根っこが増えた感じがして」

 根っこが増えた。去年、山吹は根っこみたいなものができてくる、と言っていた。今年は増えた、と言っている。

「山吹ちゃんは、今年も書き続けますか?」

「書きます。やめる理由がないので」

 それだけ言って、山吹はまたラテを飲んだ。

 やめる理由がないので、という言葉が、史桜里には少しまぶしかった。でも今日は、その言葉が遠くなかった。自分も同じ気持ちに近いところにいると思えた。


 閉店の時間が来た。

 叶羽が会計をして出ていった。拓人も出ていった。山吹も「ごちそうさまでした」と言って出ていった。

 店の中が静かになった。

 史桜里と佐伯だけになった。椅子を上げて、カウンターを拭いて、床を掃いた。いつもの閉店の作業だった。

 佐伯が電気を一つずつ落としながら、言った。

「今日の紙もの、何枚出た」

「確認してみます」

 史桜里は入り口のカウンターを見た。朝に補充した枚数から、残りを数えた。

「十一枚です」

「春の版、出る方が早いな」

「そうですね。これからもっと増えると思います、藤の季節になれば」

「次の版、また作るか」

「夏の版も考えてます。宇治の夏を、ちゃんと入れたくて」

 佐伯は最後の電気を落とした。

「やれ」

「はい」


 勝手口から出ると、四月の夜の空気があった。

 ひんやりとしていたが、冬とは違う冷たさだった。春の夜の冷たさで、朝になれば温かくなるとわかる冷たさだった。

 参道は暗くて、静かだった。

 遠くに宇治川の音が聞こえた。川はずっとここを流れていた。橋がかけ替えられる間も、参道の人が増える季節も減る季節も、川は変わらなかった。

 史桜里は少し立ち止まって、参道の先を見た。

 暗くて、道の先は見えなかった。

 それでいいと思った。見えないところへ続いていく道が、史桜里は今は怖くなかった。どこへ続くかわからなくても、続いていることはわかった。


 川沿いを少し歩いた。

 叶羽がこの店に来始めてからのことを、ゆっくり考えながら歩いた。

 叶羽、拓人、山吹。三人それぞれが、それぞれの途中を生きた。史桜里はその隣で、自分の途中を歩き始めた。

 紙もの、を作った。十一枚が、今日誰かの手に渡った。来週はもっと多くなるかもしれないし、変わらないかもしれない。どちらでも、作り続けることは変わらないと思った。

 宇治の案内の紙だけではなく、次は小さな冊子のような形も作れるかもしれない、と史桜里は思った。参道を歩く人が、少しだけ立ち止まって読みたくなるようなものを。まだどう作るかはわからないが、わからないことが怖くなかった。わからないままに向かっていく気持ちが、今はあった。


 橋の上で立ち止まった。

 欄干から川を見下ろした。

 去年もここに立った。同じ川面を見た。あの時は、止まっていた途中にいた。なぜ止まっているのか、どこへ向かうのか、わからなかった。

 今も、どこへ向かうかは、はっきりわかっているわけではない。

 でも、動いていた。

 それで十分だと思った。


 橋を渡り切って、帰り道へ向かいながら、史桜里は明日のことを考えた。

 明日も開店前に黒板を見る。春の文字が、まだ黒板に残っているはずだ。叶羽の桜の枝のシルエットも。それでいいか確認して、もし直したいところがあれば直す。

 お客さんを迎える。注文を聞いて、水を出して、ラテを作って、運ぶ。ときどき道を教える。紙もの、を手に取る人がいれば、持っていっていただく。

 そういうことを、明日もする。

 仕事の中で、作ることを考える。作ることの中で、誰かに届けることを考える。その二つが今は重なっていて、それが史桜里にとっての今の形だった。


 参道の石畳を歩きながら、声が聞こえた気がした。

 実際に聞こえたわけではない。でも、今日お客さんたちが言った言葉が、史桜里の中で続いていた。

 これ、好きな言葉です。温かい感じがして。この道、歩いてみます。

 小さな言葉だった。でも、積み重なっていた。

 そういう言葉が返ってくるたびに、また作りたいと思えた。それが続く理由になっていた。


 家に近づいた頃、スマートフォンが振動した。

 叶羽からだった。

『今日の黒板の写真、撮ってきました。来年のために』

 写真が添付されていた。

 春の黒板が、夕方の光の中に映っていた。桜の枝のシルエット、宇治の春のメニュー、余白の呼吸。二人で作ったものが、一枚の写真に収まっていた。

店先で見上げていた時とは、少し違って見えた。

 その場に立っていた時には、まだ途中のもののようだったのに、写真の中では、もうちゃんとここにあった。二人で作った春が、消えずに残る形になっていた。

 史桜里は少し間を置いてから、返信した。

『ありがとうございます。来年も、また一緒に作りましょう』

 送信して、スマートフォンをしまった。

 来年も。

 その言葉が、今日は自然に出てきた。今さらかもしれない、という言葉の代わりに、来年も、という言葉が先に来た。それがどういう変化なのかは、うまく言葉にできないが、変わったことはわかった。


 翌朝、史桜里は店の引き戸を開けた。

 四月の朝の空気が、ひんやりとして、やわらかかった。

 黒板を見た。昨日のままだった。桜の枝と、春のメニュー。これでいい。今日はこのままでいい。

 暖簾を出して、立て看板を拭いた。

 参道はまだ静かだった。

 しばらくすると、お客さんがやって来る。今日も誰かが、この参道を通って、「よりみち」に来る。どんな人かはわからない。でも来てくれた人に、今日もちゃんと向き合えると思った。

 佐伯が厨房から出てきた。

「朝倉、豆ひくぞ」

「はい」

 史桜里は返事をして、店内へ向かった。

 開店前の「よりみち」は、いつものように静かだった。

 今日が始まる。

 その静けさの中に立ちながら、史桜里は少しだけ、自分の意志で今日をここから始める気がした。

 引き戸の向こうに、四月の参道が続いていた。

 どこかへ向かう途中に、ここがある。

 今日も、誰かがよりみちしてくれる。

 それだけで、十分な一日の始まりだった。

(了)


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