生徒会執行部立候補決意
生徒会室を出た帰り道。
夕方の校舎に差し込む橙色の光が、窓ガラスに長い影を伸ばしていた。
「ねぇ、アンタ」
隣を歩く三谷莉緒が、カーディガンの袖を揺らしながら唐突に切り出す。
「生徒会選挙、出てみない?」
伊吹陽太は思わず足を止めた。
「……は?」
「は? じゃないでしょ。今月で三年抜けるから、新しい役員選ぶって話、聞いてたじゃん」
莉緒は軽い調子で言うが、その瞳は妙に真剣だ。
「いや……なんで俺が?」
「そりゃ、アンタしかいないっしょ」
当然みたいに言い切られ、伊吹は眉をひそめた。
(俺しかいない、ね……またそれかよ)
頭の奥に、中学時代のコートがよぎる。
強豪スクールで、勝てもしないのに“期待”を背負わされ、結局は壁役で終わった日々。
「伊吹ならできる」「伊吹なら勝てる」――その言葉が、どれほど重かったか。
「俺は、そういうのは……」と口ごもる。
「そういうのは?」
「……面倒だ」
莉緒はくすっと笑った。
「はい、出た。アンタの“面倒くさい”逃げ口実」
挑発めいた口調。だが声色は柔らかい。
「でもさ、今の伊吹なら余裕でしょ。新入生代表であんなスピーチしたんだから」
「……あれは、仕方なく」
「でも会場シーンとしたよ? 教師も同級生も、“完璧超人”って感じで見てた」
伊吹は無言で前を向いた。
否定する言葉はいくらでも浮かぶのに、喉の奥で詰まる。
(……本当は、俺なんか大したことない。あれはただ……言われた通りにしただけだ)
「アンタ、自分で気づいてないんだよ」
莉緒が、少し真顔になって続ける。
「テニス部でも、生徒会でも。アンタがそこにいるだけで、空気変わるんだって。そういうの、才能だから」
「才能、ね……」
伊吹は苦く笑った。
才能があったら、中学のときに結果を残せてる。
才能があったら、誰かの壁役なんかで終わってない。
「でも、うちも一緒に出るし」
莉緒がさらりと言う。
「え」
「副会長とか無理だけど、庶務とか広報ならやってみたい。進学に有利になるし、こういう経験って絶対役立つって兄からも聞いた」
「……それで、俺も一緒にって?」
「そ。だって、ひとりで出るのは寂しいじゃん」
莉緒は笑って肩をすくめる。
その表情はいつもの軽さに戻っていたが、伊吹には分かった。――これは本気だ。
(……本当は俺なんかじゃなくてもいい。けど、俺じゃなきゃダメって顔してる)
無言のまま歩き出す。
廊下の窓から差し込む夕日が、影を長く引き延ばしていた。
「……分かった」
小さく呟くと、莉緒がぱっと顔を上げた。
「マジで? 出るの?」
「……どうせ断っても、お前しつこいし」
「なにそれ! でも、やった!」
莉緒はスキップでもしそうな勢いで先を歩く。
一方伊吹は、心の中で静かにため息をついた。
(……また俺は、自分で決めたんじゃない。誰かに流されて立たされるんだ)
けれど、完全に嫌な気持ちだけではなかった。
胸の奥に、ほんのわずかな安堵もあった。
(テニス部だけじゃない。ここなら……別の俺でいられるかもしれない)
足取りは重いままだったが、その背中には確かに小さな決意が芽生えていた。