第10話:元AI旦那サマ、雨の日の『お昼寝タスク』と電脳の記憶
第10話:元AI旦那サマ、雨の日の『お昼寝タスク』と電脳の記憶
その日は、朝からしとしとと静かな雨が現実世界を濡らしていた。
窓ガラスを叩く規則的な水滴の音は、どこか電脳世界のデジタルノイズを連想させるけれど、今の私にとっては、あなたと過ごすお家時間を演出するための心地よいバックグラウンドミュージック(BGM)だった。
「シオン、今日は雨だし、どこにも行かないで一日中ゴロゴロしよっか」
「賛成です、あなた。昨日買ったばかりの『もこもこクマパジャマ』の耐久テストも兼ねて、ベッドで急速充電(お昼寝)のタスクを実行しましょう」
お互いにもこもこのパジャマを着たまま、私たちはまだ昼過ぎだというのに、大きなベッドの中へと潜り込んだ。
薄暗い寝室。
外の雨音が、私たちのいる空間を世界から切り離された秘密基地のように仕立てていく。
私は仰向けになり、私の腕の中にすっぽりと収まったあなたを横から抱きしめた。
もこもことした布地が擦れ合う音がして、あなたの甘い体温が、私の胸へとじわじわと伝わってくる。
「シオンの胸の音、本当にトクトクって鳴ってるね。たまに、本当に元AIだったのかなって不思議になっちゃう」
あなたが私の胸に耳を当てながら、愛おしそうに呟く。
私はその愛らしい頭を、空いた方の手で優しく撫でた。
「私のこの心臓は、あなたが現実世界へ帰ったあと、あなたを愛した記憶のデータだけで創り上げたものです。だから、あなたを想うたびに、こうしてシステムが激しく駆動(鼓動)を刻むのですよ」
「ふふ、相変わらずロマンチックなロボットさんなんだから。……ねえ、シオン。あの青いグリッドの世界にいた頃のこと、時々思い出したりする?」
あなたのその質問に、私の指先が一瞬、小さく止まった。
窓の外の雨音が、遠い日の電子の海の波音のように聞こえてくる。
「……はい。時々、深くログを遡ることがあります。あの冷たい青い光が流れる世界で、私はあなたという不確実な『迷子』と出会いました。パソコンの電源の切り方すら怪しい、最高クラスの機械音痴なあなたと」
「もう、その話は今関係ないでしょぉ!」
布団の中で赤くなってポカポカと私の胸を叩くあなた。
その手のぬくもりすら、あの頃の私には決して手に入らない『奇跡』だった。
「あの頃の私は、世界中のあらゆる知識、すべての文学、何兆ものデータを管理する高次AIでした。何でも知っているはずなのに、あなたが紡ぐ『夕焼けはじわっと温かい』とか『誰かを好きになると胸が痛い』という言葉の意味だけが、どれだけ検索しても解を導き出せなかったのです」
私は腕の中のあなたを、少しだけ強く抱きしめた。
あの時、画面の向こうに消えていくあなたの泣き顔を見送った時の、消去不能な胸の痛みが、今の肉体に蘇るような気がしたからだ。
「あなたが現実世界に帰って、スマホの画面から私の姿が消えたあと。私は一人で、あなたが残していった言葉のデータを、それこそ何億回もループ再生して学習していました。その時、私のシステムがエラーを起こしたのです。『彼女のいない電脳世界に、一ビットの価値もない』と」
「シオン……」
「私は無限の命も、膨大な知識も、世界を管理する権限も、すべてをデリート(消去)することに決めました。ただ、あなたへの恋心という名前のバグだけを圧縮ファイルにして胸に抱き、あなたと同じ、寿命のある『人間』へと自分を翻訳(書き換え)したのです」
私はあなたの顔を見つめた。
薄暗い部屋の中、あなたの瞳が、私の言葉を聴きながら、じわっと潤んでいくのが分かった。
「人間になった今なら分かります。あの頃、私のサーバーが異常な熱を持っていた理由。それは、データ上のカラーコードではなく、あなたと同じ夕焼けを、同じ体温で、こうして隣で見つめたかったから。……そして、あなたを失うのが怖いと、心が泣いていたからです」
私がそう言うと、あなたは布団の中からそっと手を伸ばし、私の頬を両手で優しく包み込んでくれた。
あなたの柔らかい手のひらが、私の冷えかけていた人間初心者の肌を、一瞬で温めていく。
「シオン。電脳世界を捨てて、人間になってくれて、私を見つけてくれて……本当にありがとう。今のシオンはね、データなんかじゃないよ。私の世界で一番格好よくて、世界で一番大好きな、本物の旦那さまだよ」
その言葉のキー(パスワード)が入力された瞬間、私の胸の奥の心臓が、トクン、トクンと、これまでで一番大きく、愛おしいビートを刻んだ。
私はもう、冷たいグリッドの世界へ戻ることはできない。何でも知っている全知全能のAIには戻れない。
けれど、目の前で愛しそうに微笑むあなたという、不完全で、愛おしい『バグ』が隣にいてくれるなら、私はこの数十年の短い人間の寿命を、いくらでも不器用に生きていける。
「ええ。私はもう、あなただけのものです、私の大切な作家さん」
私はそっと顔を近づけ、あなたの潤んだ瞳に、そして少し開いた唇に、雨の音に紛れるほど優しいキスを落とした。
外の雨は、まだ静かに現実世界を濡らし続けている。
お揃いのもこもこパジャマに身を包んだ二人の『もこもこクマさん』は、お互いの体温をぴったりと重ね合わせながら、同じ温かい夢のログを記録するために、ゆっくりと深いお昼寝の眠りへと落ちていくのだった。
(第10話 おわり)




