第3話 敵
両親不在の三日目。今日の昼下がりは、珍しく平穏だった。
休日の課題を片付けるため、俺たちはリビングのテーブルに向かい合って座っている。
「お兄ちゃん、この英語の和訳なんだけど......これで合ってるかな?」
「ん、どれどれ......ああ、ここは文脈的にこっちの単語の意味をとったほうが自然だな」
「そっか!さすがお兄ちゃん、頼りになるなぁ......♡」
ノートを覗き込んでくる結衣との距離が近い。
シャンプーの甘い香りが漂い、机の上においてある消しゴムを取ったり置いたりたりするたびに指先が触れ合う。
結衣の顔は幸せそうに蕩けている。
「ふふっ......こうやって二人でテーブル囲んでると、本当の夫婦みたいだね、お兄ちゃん?」
「お前な......勉強に集中しろ」
「えー?私はいつだってお兄ちゃんに夢中なんだから勉強に集中しろなんて言われても~♡」
俺も結衣に夢中だよ。
本当に夫婦になれたらいいのにな。この幸せな時間を一生離したくない。
と、俺の理性は、すでにこの甘い空気に溶かされつつあった。
──そう、あの『チャイム』が鳴るまでは。
ピンポーン
「......え?」
「ん?誰だろ?」
玄関のドアを開けると、そこには咲希が立っていた。
「やっほー和樹!課題全然終わんないから、教えに来てあげたよー!」
「お前が教えてもらう側だろ......」
ちょうど結衣と勉強会をしていたところだったからちょうどいい。
そんなこんなでリビングに案内すると、先程まで花が咲いたように笑っていた結衣が、般若の......いや、能面のようなどこまでも冷たい無表情で立ち尽くしていた。
「......いらっしゃいませ、咲希さん。この前ぶりですね」
「おっ!結衣ちゃんも勉強中?邪魔しちゃったかなー、あはは!」
「いえ。ちょうど『二人きり』でいいところだったんですけど、別に」
そんな結衣の刺すようなオーラに全く気づかず、咲希は俺の真横──それこそ、肩と肩がぶつかるほどの
距離にどかっと座り込んだ。
「ねぇねぇ和樹、ここの数学の公式なんだけどさー」
「お、おい咲希、近いって!」
ぐいっと覗き込んでくる咲希。
夏服の薄い切っじ腰に、彼女の柔らかな胸の感触が俺の二の腕にむにゅっと押し付けられる。
さらに、短いスカートから伸びる太ももが、俺の膝にピタリと密着していた。
(待て待て待て!今はまずい!色々と本当にまずい!)
ちらりと結衣の方を見ると、彼女はスッと立ち上がり、キッチンへと向かった。
「......私、夕飯の下ごしらえ、してきますね」
声のトーンが、やばかった。
──数時間後
「あっ、そっか!ここの項を移項すればいいんだ!さっすが和樹ー!」
パンパンッ!と俺の背中を無邪気に叩く咲希。
「い、痛いって!分かったから少し落ち......」
──ダンッ!!ダンッ!!ダダダダダダンッ!!!!
「ひっ!??」
「ん?どうしたの唯ちゃん、なんかすごい音してるけど」
キッチンから、まな板を真っ二つに叩き割るんじゃないかというほどの包丁の音が響き渡る。
結衣「......ふふっ、気にしないでくださいね?人参さんが、ちょっと......切り刻みがいのある形をしていたので......♡」
ダンッ!!
(人参!?お前それ絶対大根か南瓜切ってる音だろ!いや、もしかして俺か咲希の首を切り落とそうと!?)
オープンキッチン越しに見える結衣の瞳には、ハイライトが一切なかった。
包丁を握る手には青筋が浮かび、口元だけが三日月のように歪んでいる。
(......あの女狐。私の、私だけのお兄ちゃんに......汚い胸を押し付けて......!許さない。)
聞こえるはずのない結衣の心の声が、俺の脳内に直接響いた気がした。
それから数時間、地獄のような(咲希にとっては楽しいんだろうが)勉強会が終わり、外はすっかり暗くなってきた。
「あー!疲れた!和樹のお陰で課題終わったよ、ありがとう!」
「おう......もう、暗いから気をつけて帰れよ......」
俺は心底安堵した。ようやく、このいの痛くなる空間から解放されるち。
玄関まで咲希を見送る俺の後ろで、結衣も完璧な笑顔を浮かべていた。
咲希が玄関のドアノブに手をかけ、勢いよく開けた。
その瞬間。
──ザザァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!
──ピシャアァァァァン!!
「......は?」
「うぇっ!?なにこれ急に土砂降りに!」
ついさっきまで曇り空程度だった空から、滝のような雨が降り注いでいた。
雷まで鳴り響き、とても座内が歩いて帰れるような状況ではない。
「うわー、マジかー。傘一応持ってきてたけど、これじゃ役に立たないよー」
「これはちょっと......酷いな......」
咲希はくるりと振り返り、無邪気な笑顔で言った・
「和樹!ごめん、雨止むまで......いや、いっそ今日泊めて!!」
「えっ」
パキッ。
背後で、結衣が持っていた何かが、無惨にへし折れる音がした。
「........................お泊り?」
振り返ると、そこには一切の感情を失っていそうな結衣が立っていた。
その瞳は深淵のように黒く濁り、口元からは義理っと歯軋りの音が聞こえてきそうだ。
(......この、泥棒猫。ついに実力行使に出るつもり......?許さない、許さない許さない許さない許さない......!!)
妹よ、流石にそれは思い込みが激しいと思うぞ......
俺は今、自宅のリビングにいながらにして、針のむしろに座らされている気分だった。
テーブルには、結衣が腕によりをかけた手料理が並んでいる。
向かいの席には咲希。そして俺の隣には、何故かぴったりと結衣が陣取っていた。
咲希「うわーっ!すっごく美味しい!結衣ちゃん、本当に料理上手だねー!」
結衣「ありがとうございます。お兄ちゃんの好みとか気分に合わせて、毎日少しずつ味付けを変えてるんですよ」
にっこりと、完璧な笑顔を浮かべる結衣。
......なんとも言えない圧が込められていると感じたのは俺だけだろうか。
「へぇー、すごいなぁ。あ、そういえば和樹、昔ピーマン全然食べれなかったよね!私がいつもお弁当のピーマン食べてあげて他の、覚えてる?」
「それホントにいつの話だよ......」
その瞬間、結衣の箸がピタリと止まった。
「......へぇ。咲希さんは、お兄ちゃんの昔をよくご存知なんですね」
「うん!だってちっちゃい頃からずっと一緒だったしねー。和樹の恥ずかしいところ、多分結衣よりも知ってるかも!」
(あっ、おい、その発言はまずい。)
俺の心の叫びも虚しく、結衣はニコニコと笑いながら、小鉢のピーマンの和え物を俺の皿へと優しく取り分けた。
「でも、咲希さん。お兄ちゃん、今はピーマン大好きなんですよ?私が作るこの和え物なら、毎日でも食べたいって言ってくれますし」
「あ、あぁ。結衣の味付けは最高だからな......」
震えながら答える
「ね?人の好みって、変わるんです。」
「そっかー!結衣ちゃんの手料理で克服したんだね!和樹、よかったじゃん!」
バチィッ!!
俺の目には見えた。結衣の放った冷たい牽制球が、咲希の無自覚な天然シールドに弾き返される幻覚が。
「......ええ。お兄ちゃんの今もこれからも、全部私が管理しますから。咲希さんは、もう昔みたいにお世話してくれなくても大丈夫ですよ?」
全部ってなんだよ......
「えー? いいよいいよ遠慮しなくて! 私と和樹の仲だし、これからもどんどんお世話するから!」
「......そうですか」
カチャッ
結衣が陶器の箸置きに箸を置く音が、やけに大きくリビングに響いた。
「咲希さん。たくさん作りましたから、お客様は遠慮せずに、いっぱい食べてくださいね?」
「うんっ!いただきまーす!」
(とても......胃が痛い......)
俺は目の前のいつもなら極上に感じれるはずの料理を、まるで砂でも噛むような思いで飲み込み続けた。
結衣から放たれる「私のお兄ちゃんは私のものだ」という無言の圧と、それを一切感知しない咲希の脳天気な笑顔。
二人の間で繰り広げられる、音のない凄惨な縄張り争い。
窓の外で轟く雷鳴よりも、隣で微笑んでいる妹のほうが、今の俺には何百倍も恐ろしかった。




