27 婚約しました。
婚約しました。
……………………なんだろうか、なんか色々と腑に落ちないんだけど。兎に角、婚約しました。周囲から盛大におめでとうを言われましたとも。嬉しいし照れくさいんだけど、なんか腑に落ちない。
いや、状況的に仕方なかった部分はあるんですよ。例の、クリスさんの実家関連でですね、あちらさんがクリスさんの婿入り先を勝手に用意したらしいと三男さんから連絡がありまして。
兄、速攻で私とクリスさんを昨年末に婚約したことにしました。
もちろん、事前に確認されましたよ? お前はどうしたいって聞かれたので、咄嗟に横から搔っ攫われるのは嫌だとはっきり言いました。本人、隣にいたのに。言ってから思い出したんだよ、隣にいたのを!
もうね、顔から火が出るかと思った。言った瞬間、あって思ったんだけど、もうどうしようもないじゃない。考えるより先に口が動いちゃったんだもん、仕方ないじゃん! しかも隣でクリスさんもほんのり頬を染めつつ照れてたもんだから、余計に恥ずかしかった……! にやにやしてた兄は、一発殴っておきました。
あ、クリスさんはですね、私の承諾待ちだったのを兄も知っていたので、軽ーく確認しただけで終わってました。後から聞いたら、すでに兄には報告済みで承諾も得ていたらしい。私が頷いたらという条件付きで。知らなかった。
で、ですね。兄は私とクリスさんの意思確認をするとその日のうちに王宮へ行って一通りの手続きを完了させ、尚且つ受理された日付の調整も完璧に終了させてしれっと戻って来たそうです。クリスさんが兄の実家の養子になった時と同じ感じですね……
にーちゃん、たまにとんでもない事をサラッとやるけどさ、本当にどうなってんの? 権力には興味ないって常々言ってるけど、権力なかったらそんなことできないよね? もちろん、宰相様の協力があってのことだとは思うんだけど、それにしてもだよ。なんでそんな力技が通用するんだかな。
「権力に興味がない=権力を持たないではないですからねぇ」
そんな声と共に、目の前にお茶が置かれました。ありがとうございます、ザックさん。というか、私何も言ってないんだけど、相変わらず思考を読まれています。おかしいな。
「それは分かるんですけど、それにしたって色々と融通利きすぎじゃないですか?」
なんかね、その辺りもうレベルが違う気がするのよ。
「まあ、旦那に媚びを売りたい連中はいくらでもいますから」
「あ、そういう理由?」
媚び売りたいって、なんでだろう。あの兄に媚び売っても無駄だと思うんだけど。
「旦那の性格知ってたら、それがいかに無駄かはわかるんですけどねぇ。いかんせんあの人、基本的には外面が良い上に人たらしなところがあるんで、よく知らん連中からはただのお人好しと思われるんですよ」
「人たらし……」
確かに、そういった面はあるかも。でも、お人好しは絶対に違うと思う。元の世界で普通に兄弟だった時もだけど、兄は大切にしたい人とその他大勢の線引きがかなりはっきりしてた。言動に出ていたわけじゃないけど、その辺りはこっちでも変わってない気がする。
「貴族社会で生きていく以上、外面は必須だろうが」
扉が開くと同時に、そんな声が。
「おかえり、にーちゃん」
「おう、ただいま」
宰相様に呼ばれて出かけていた兄、通りがてらソファーに座ってる私の頭を、わしわしなでる。いつもの事なんだけど、いまだに兄は私を中学生かそこらの年齢と思っている節があるような気がしてならない。
「旦那の外面はちょっとやりすぎじゃないっすかね。老若男女、あちこちでひっかけてくるじゃないっすか。せめて頻度を減らしてくださいよ、後始末するのこっちなんすから」
「人聞きの悪いこと言うな」
いつもの軽ーい感じのやり取り。内容的は軽くないけど。
「それより宰相様、どうでした?」
「予想通りだな。あちらの外交部をすっ飛ばしてこっちに直接連絡してきたらしい。まあ、事前に根回ししといたんで問題なかったが、外交部にも一通りのことは説明してきた」
「やっぱ、常識ない連中でしたか。身内に外交官がいるってのに、何考えてんですかねぇ」
呆れ顔のザックさんに、兄が疲れたような顔で頷いていた。
今日は兄、外交部からの要請でお城へ行ってました。なんでもとある国のさる伯爵家から、こちらに滞在している子息に対しての帰国要請が届いたと連絡が来てのことです。もちろん、クリスさんの事ですよ。
「こっちは何年も前に向こうの国に問い合わせ、貴族籍がないのを確認済みだ。向こうの家が勝手にクリスの貴族籍を届け出たのが昨年末、こっちが貴族籍に入れたのは昨年春だ」
「まあ、書類上はそうっすね」
うん、書類上はそうですね。
「外交部の連中も今回の要請は問題外ってことで、処理すると言っていた。返答を見たあちらがどう反応するかは知らんが」
「怒り狂うんじゃないっすか」
そうだよね。聞いた限りだと私もそう思う。
どうも次男さんって、何でも自分の思い通りにならないと気が済まないところがあるっぽいらしいんだよね。そんな人が、自分の為に利用しようとしていた相手が利用できないと知ったら、そりゃもう盛大に暴れるんじゃないかと。まあ、暴れるまではいかないにしても、周りに当たり散らしそうな気はする。あと、正妻さんの反応も怖いな。
「まあ、それで手を出してくるならその方がありがたいっすけど」
ニコニコとザックさんが言ってますが、不穏なものを感じるのは気のせいでしょうか。気のせいじゃないよね、コレ絶対に。
「やりすぎるなよ」
「向こうの出方次第ですねぇ」
「出方次第じゃなくて。加減しなさい」
「え、面倒」
「面倒じゃねーだろ、お前」
会話がとても物騒。てか、にーちゃん、そんな優雅にお茶飲みながらする話じゃないでしょうよ。内容的に。
「この程度、日常茶飯事ですので」
いつもの事だそうです。私、声に出してなかったはずなんですけど、そうですか。
なんだかなぁと思いつつも、その後は二人から今後の注意点等を延々と聞かされました。そろって、まだまだ警戒心がなさすぎると言われましたが、そんなに? 最近はかなり気を付けるようになってきたんじゃないかと、自分では思うんだけど。
そう言ったらですね、そこから更に言われたというか、説教されました。これまた延々と。兄曰く、今の私ではパトリック君たちより全然警戒心が足りないそうです。え、そこまで?
でもさ、あの子たちはいいトコのお坊ちゃまなわけじゃない。それこそ生まれる前から色んな意味で狙われていて、それが現在進行形なわけだから、そもそもが私とは違うと思うんだけどなぁ。
まあ、ヘタに反論すると説教が長引くので、お口チャックです。余計なことは言いませんとも。
「それはそうと、マキさんとクリスの件。早々に告知しておいた方が良いんじゃないっすかね」
「まあ、身内と世話になってる連中には知らせておおいた方が良いだろうな。あとは、王宮関係も必要か」
「王宮関係は大丈夫じゃないっすか? 宰相閣下が浮かれて言いふらしてそうですし」
「…………否定できないな」
いや、やめてほしいんですけど!?
にーちゃんも納得しないで止めてよ!
「マキさん、諦めてください。止められるもんなら止めてますよ」
ザックさん。そんな笑顔で言われても、説得力ないんですが?
「あー、マキ。義兄上はアレだ、感性が独特というか、妙なところに強い拘りがあるというか、こう、身内認定した相手への対応がちょっと普通じゃない事があるんだ。すぐ暴走するが、悪意はないんで諦めろ」
「諦めろって、簡単に受けどさ。いやそれより、宰相様にものすごく失礼なこと言ってない?」
「事実だ」
いや、事実だとしてもそんなはっきり言ったらダメでしょ。
宰相様と兄が話している所は何度も見てるから知ってるけど、本当に遠慮ない言い方してるからね、兄。
「義兄も、お前の恩恵を受けている一人だからな。色々と便宜は図ってくれるだろうからそれで納得しろ」
「納得しろと言われても」
色々と思うところはあるけれど、正直私だけじゃ何をどうすればいいのか全く分からないのは事実なので、周りを頼るのは仕方ない事ではある……んだとは、思う。でも、今回は完全に周囲に頼り切ってしまった感じがあるので、ちょっと申し訳なく思う気持ちもあった。レティちゃんやシルヴァン様も色々と動いてくれていたようで、後から知って謝り倒したよ。でもね、私の車から供給される物資のお礼もかねての事だから気にしなくていいと言われてしましました。あれは勝手に湧いて出るから、使ってもらってるだけなんだけどなぁ。
「あ、時間か。すまん、ちと行ってくる」
時間を確認した兄が立ち上がる。そういえば、なんだかの立会いするって言ってたね。
「すぐ終わるから、待ってろよ」
「わかってるよ」
私に念押しして、兄退場。
それにしても……みんな、私の車の物資を物凄く有難がってくれるよねぇ。もとはただなんだから、気にしなくていいのに。
「そうだとしても、車はマキさんの所有物ですからねぇ。我々はその恩恵をいただいていることには変わりないんですよ」
そう言いながら茶のお代わりを入れてくれたのは、ザックさん。私がぶちぶち言ってたのを聞いていたようです。
「食べ慣れたものを食べたいという私の我儘でもあるんですけど」
「それでも、です。旦那なんて大はしゃぎしていましたから」
確かに。
私の車の物資、その中でも兄が一番喜んだのは米。次に和食的な調味料一式。
米も調味料もこっちの世界にはあったんだけど、食べ慣れた日本のモノとはやっぱりなんかちょっと違う感じがする。こっちのも美味しいんだけどね。それに、こっちには顆粒だしとかコンソメキューブとかないから、あれもとっても喜ばれました。
「まあ、取り合えず旦那が戻ってくるまではここにいてください」
「はーい」
返事をして、お茶を一口。美味しい。
「ザックさん」
「なんです?」
「兄が前世を思い出したのって、レティちゃんが生まれた後だったんですよね?」
「そうですよ。お嬢が三歳くらいの時でしたかねぇ」
「前世を思い出す前と今の兄、何か変わりました?」
「いえ、特には。強いて言えば、奇行が多くなったくらいです」
「は?」
奇行?
どういう事だろうかとザックさんを見ていたら、ザックさんにっこり。
「いまの自分と前の自分の記憶が混ざったわけですから、混乱するのは分かるんですが……まあ、魔道具の開発をするには何かと都合がよかったみたいですけどねぇ。こっちでは通用しないことを当たり前のようにやろうとしたら、傍目には奇行ですよ」
「あ、なるほど」
「食事中に棒を二本取り出して、それで食事を取り始めたのを見たときには頭がおかしくなったのかと思いましたから」
「あー……」
それは、わかるかも。
ナイフとフォークで食事するのが当たり前なのに、いきなり箸なんで使い始めたらこいつ大丈夫かってなると思う。ていうかにーちゃんも、いきなり使い始めるのは止めようよ……
「ですが、その知識があったからこそ防げたこともありました」
「それはレティちゃんの件ですか?」
兄、前世を思い出してまず最初にやったことが、レティちゃんの教育の見直しだったったらしいからね。うん、いま思えば私、ゲームの画面を見せながらレティちゃんの事も力説してた気がする。見た目天使なのに、ものっすごく怖いんだよ的な感じで。実物のレティちゃんとは全く結びつかないけど。
「お嬢もそうですけど、一番は奥様でしょうね」
「あっ……そっか。エレーヌさんは」
言いかけて、止めた。たとえ話でも、エレーヌさんが亡くなってたかもなんて口に出したくはないから。
ちらっと聞いた感じでは、魔道具の事でミサキさんと知り合えたからこそ、助かったようなものだ。それでも、かなりぎりぎりだったみたいだし。
「見てればわかると思いますけど、旦那は奥様がいないとダメな人ですからね。色々な偶然が重なった結果とはいえ、聖女様への伝手が手に入ったことは大きかったんですよ」
「エレーヌさん、いまはもう心配ないんですよね?」
「ええ。ただ、旦那が勝手に過保護になってるだけです」
普段から兄がかいがいしくエレーヌさんの世話を焼いている姿は、割とよく見かける。そうか、あれは過保護の延長だったのか。
「旦那が奥様の世話を焼いているのは、ただ単にやりたいからやってるだけでもあるんですが」
やたらときっぱり言われたよ。ていうかですね、私、何も言ってなかったと思うんですが?
ジトッとした目で見たら、ニコってされた。
「まきちゃん、いるー?」
ノックと同時に扉があき、ひょっこり顔を出したのはパトリック君。
「坊ちゃん、ノックしたら返事があるまでは扉を開けたらだめですよ」
「あ、そっか」
パトリック君、そう言って引っ込むと扉をぱたんと閉めた。
なにするのかと思って見てたら、再びコンコンって。
ザックさんがどうぞって言うと扉が開いて入って来たよ。やり直したのね、律儀に。
そのまま近づいてくると、隣にポスっと座った。
「ザック、ぼくもおちゃちょうだい」
「はい、ただいま」
ささっとお茶を用意してパトリック君に渡すザックさん。ついでにお皿に乗せたクッキーも出てきた。
「ありがとう」
ちゃんとお礼を言って、お茶を一口。
「それで坊ちゃん、何か御用ですか?」
ザックさんが尋ねると、なぜか私を見るパトリック君。なぜ?
「よていがいのおきゃくさん、きてるんだ。まきちゃんにあいたいって言ってるから、ここから出ないようにって母上が言ってた」
「私に?」
このタイミングで私に客って、どう考えても普通に会いたいですってわけじゃないよね? そもそも私を訪ねてくるような人って、ほとんどいないんですが。ザックさんがあーって顔になってるのがちょっと気になる。
「うん。母上がおきゃくさんにかえってもらうまで、まっててねって」
「どういうこと???」
「それに関しては、俺から説明しますよ」
ザックさんの説明によると。
どうやら兄が私の婚約に関して色々と準備をしているときに、察した人たちが私に接触しようと色々やってたんだそうです。要するに、お前にクリスさんはもったいないから辞退しろと圧力をかけたかったらしい。兄やシルヴァン様には正面切ってケンカ売れないので、何とか私に直接……ってことらしいですよ。
「いや、それ後でバレたら同じことなんじゃ? ていうか、訪ねてきてまで実行したら、バレるバレないの話ではないですよね?」
仮に、私がそんなことされたと知った兄が黙っているとは思えないし。
「それがわからないおばかさんだから、まきちゃんに会いにくるんだよ」
諭すように言ったのは、パトリック君。
ザックさんに言われるならともかく、パトリック君に言われたぞ!
え、ちょっと待って、こっちの世界の八才ってこれが普通なの? そんなことないよね?
本当に、このお子様は八歳なのかしら。なんか外見と中身の年齢、ずれてるとかないかな?
「正真正銘、八歳ですよ。坊ちゃんは」
「ぼく、八才だよ!」
「何も言ってないです」
まじまじ見てたら、二人に突っ込まれた。何を考えていたかバレバレだったようです。
その後はパトリック君も加わって兄のこれまでの事を聞いたり、パトリック君の事を聞いたりして楽しく過ごしていました。途中、外から奇声が聞こえたようなきたしたけど、きっと気のせい。まあ、奇声というよりはヒステリックな金切り声? どっちにしろ、私は気づかなかった!
**********
クリスが初めてマキに抱いた印象は、どことなく旦那様に似ているな、といったモノだった。容姿は全くと言っていいほど似ていなかったのに、なぜそう思ったのかは自分でもよくわからなかった。
パトリックから窓の話を聞いたヴィクトルがマキに会いに行くようになり、それを知ったシルヴァンから探りを入れてくるように言われたのがきっかけだが、窓越しに出会った時、よくわからない衝動を感じた自分に戸惑った。
最初、この窓の存在はパトリックが気付いた。好奇心旺盛なパトリックは自宅の壁に突然現れた窓に興味津々で、護衛達がちょっと目を離した隙に単独で突撃してしまったのが始まりだったのだ。
護衛達は慌てたモノの、開いた窓から姿を見せた女性と話し始めたパトリックを、何かあればすぐに行ける距離で観察していた。最初の交流が終了した後、すぐにパトリックは興奮気味に母親に窓の事を報告。母親はそんな事があるのかと目を丸くしていたが、護衛についていた数名からも同じような報告を受け、少し考えていたが他の要因からも危険はないとの判断が下った。護衛を近くに潜ませてはおくが、交流自体は禁止しないで様子を見ることになったのだ。
そして、その交流から数日後にヴィクトルとクリスが加わったのだ。
マキは、本当に不思議な女性だった。
警戒心が強いはずの子供二人があっという間に打ち解けた事にもクリスは驚いていた。二人とも何かと狙われる立場にいるだけの事はあり、家族以外に対してはかなり警戒心が強い。守る側としては有難い事ではあるのだが、それがマキに対しては全くそんなそぶりも見せず、楽しそうに話をしている姿に内心驚愕していたのだ。
この時点で、クリス自身も窓の向こうにいる女性に少なからず興味を抱いていた。
一応、役目として出来る限りの事を彼女から聞き出そうと話しかけてみたが、彼女自身もこの現象に戸惑っているように思えた。当然だなと思いつつもクリスが名前を尋ねれば、あっさりと教えてくれた。最初にフルネームらしき名を口にしたが、すぐに【マキ】とだけ名乗りなおしていた。なぜかこの時、この名を忘れてはいけないような気がして密かに書き留めていたのだが、これが後に彼女の正体を知ることに繋がるとは、この時点では思いもしていなかった。
子供たち二人は、クリスが名を聞き出した以降は【まきちゃん】と呼んで、懐いていた。
窓越しの、限られた時間の交流。
遠慮のない子供二人からの言葉にも嫌な顔一つせずに話に付き合い、ポンポンと弾む会話。ニコニコと楽しそうにしているその姿に、気付けば目が離せなくなっていた。
見慣れない菓子を二人にふるまう際には、まず自分が食べて見せて、それから二人にも勧めていた。
お互いの家族の事を話したり、文化の違いに驚いたりと、実に楽しそうな交流。
一応、相手は正体不明な上によくわからない事象で姿を見せている相手だ。両家の嫡男である二人の子供に何かあってはと、自分以外にも常に護衛が周囲に潜んでいる。しかし、その護衛の立場からしても、護衛は必要ないのではと思えるくらいに楽しそうで有意義ともいえる交流に見えていた。
窓は、常にあるわけではなかった。
どういった法則で出現するのかは定かではなかったが、出現するのは昼を過ぎた頃。出現する直前に壁の一部が仄かに輝き出し、それが収まると窓が出現する。
窓が出現すると見張りからパトリックとヴィクトルに連絡が行き、気づけばクリス含めた三人が向かうと言う流れが出来上がっていた。
しかし、こんな不思議な現象がいつまでも続くわけがなかった。
出かけていたパトリックの父ルシアンが戻り、クリスはすぐにこれまでの出来事を報告した。そして、聞き出したマキのフルネームを告げたところ、ルシアンの目がこれでもかと言うほどに見開かれたのだ。
そして、ルシアンから明日は自分も行くと言われ、その時に何となく予感はしていた。
翌日、ルシアンだけがそこへ向かった。
クリスと子供二人は見える位置にいて、近づくことはしなかった。
どれほどの時が過ぎただろう、窓が今までにない輝きを放ちはじめ、ああこれで終わるんだなと悟った。
子供二人にお別れをと言えば、二人は大きな声で名前を呼んで手を振った。マキの視線が、一瞬こちらを捕らえ……
窓は、輝きと共に消えた。
その後、ルシアンから彼女の正体を聞いたクリスは、最初に抱いた印象の理由を知って納得した。同時に、もう会えないのだと言う事実を突きつけられて、胸が苦しかった。
この時になって初めて、クリスは自身がマキに惹かれていたのだと自覚した。全ては後の祭りだったが。
言葉にしようのない喪失感を感じつつも、日々は流れていく。
何時もの日常が戻り、何時ものように過ぎていく。
それでも、ふと気づけば彼女の痕跡を探している自分がいた。
もう会えない、会う手段などないとわかっているのに、諦めきれないでいる自分がいる。
これまでそんな経験など皆無だったクリスは自身の身に起こっていることが信じられなかったが、それでも胸に宿る小さな痛みは消えることなくしこりのように残っていた。
自分も人並みに恋愛感情を抱ける人間だったのかと戸惑いつつ過ごすこと二か月。
それは、何の前触れもなく。
知らせを聞いたクリスは居てもたってもいられず、見える位置まで来ていた。
そこで、焦がれた姿を見つけたのだ。
全身を包み込むような歓喜に、この奇跡を起こしてくれた存在に感謝せずにはいられなかった。
文字通り、住む世界が違ったが為に諦めるしかなかった思い。
しかし、どういった理由があるにしろ、今はこの世界に自身の両足で立っている。手を伸ばせば届くところに彼女がいる。
もう、遠慮する必要はない。
「逃がしませんよ。覚悟しておいてくださいね」




