第11話 リトル・ロシアにて
かつて夜の歌舞伎町を『ワールドカップの前夜祭のようだ』と評した作家がいた。
歌舞伎町のメインストリートから少し外れた裏通りは、ちょっとした外国気分を味わえる多国籍な風景に映るが、その実、根っこの部分には強烈な愛国心が潜んでいる。そこに外国人たちのアンダーグラウンドなコミュニティが自然と出来上がり、それが新たな同胞を吸い寄せ、次第に小さな国家を創り上げる。特に住み手の日本人が居なくなってしまった雑居ビルは一つの国を形成していることが多い。例えば、地下には酒場、一階は料理店と雑貨屋、二階以上にロシア系のクラブや金融会社が入るビルがある。そこを中心に幾つかのテリトリーが形の無い『リトル・ロシア』として存在する。その一方でその右隣にはコロンビア、左にはパキスタンが隣接し、通りを隔ててはナイジェリアがそれぞれ睨みを利かせている。母国同士が近くても仲が悪いケースもあれば、大陸を超えて同盟的な結びつきを持つ場合もある。利害関係が一致すれば手のひら返しで連携し、個人の喧嘩が国交断絶に至ることも少なくない。そういった意味で狭い範囲でナショナリズムが燻っている状態は『ワールドカップ前夜』のような熱気を孕んでいるといえるのだ。
どうせそんな街を歩くのなら夜の方が趣向に合っていたのだが今枝は日中に自称『運送会社』を訪れることにした。プロを使ってショッピングモールで拝借した端末を解析した結果、色んな情報が入手できた。勿論、目的の会社の位置も分かっている。それはリトル・ロシアの中心地となっている雑居ビルの中にあった。今枝は昼間だというのに閑散としている外国人通りを散策しながらリトル・ロシアに向かった。
「どこもかしこも日本人お断りのようだな」
今枝はそう呟いて外国語の看板やポスターを眺めた。どの国も独自文化を前面に押し出していて日本語併記など有りはしない。サングラス型の端末で翻訳をするにしても言語が多様過ぎて、とても一般向けに営業している雰囲気はない。恐らくは同胞向けの商売だけで成り立っている店ばかりなのだろう。店先に国旗を掲げているのはまだマシな方で軒先に民族衣装をぶら下げているものや通りにはみ出して食材を山積みしている店は一見するとどこの国かさっぱり分からない。唯一共通しているのは、まるで一斉に30年前にタイムスリップしてしまったかのように今風な広告がどこにも無く、レトロな紙や看板が溢れているところだ。恐らく彼等には最新の技術を導入する余裕が無いのだろう。例えば、投射式立体映像(特定の光しか反射しない粉塵で満たされた空間に底面からのレーザー照射で映像を映す技術)などは比較的安価なはずだが、ここでお目に掛かることはない。そんな通りを5分も歩けば目的地に辿り着けた。今枝はリトル・ロシアの首都ともいえる雑居ビルを見つけると、いつものように周囲を点検した。そして荷物受けポストで入居店舗を確認していると背後から『迷ったの? おじさん』と、ロシア語で声を掛けられた。
「おじさん……」と、今枝が不服そうに振り返る。見ると小さな女の子がヌイグルミを抱いて今枝を見上げていた。5歳ぐらいの可愛い白人の子供だ。
「迷った訳じゃない。これがあるから大丈夫」
そう言って今枝が「ああ……」と、困ったような表情を浮かべる。なぜなら少女は端末を身に着けていなかったからだ。今枝は端末を操作してカタカナ表記されたロシア語をゆっくり読み上げる。
『迷っていない。大丈夫だよ』
そう伝えると少女はにっこり笑って頷いた。愛らしい少女だ。若いロシア人女性は総じて透明度の高い美しさを持ち合わせているが、この子はさらにそれをコンパクトに凝縮した完成度の高い人形のようだ。厚手のタイツを履いているが水色の短いスカートに白のトレーナーでは寒かろうと思われたが平気そうなところを見ると流石に寒い国から来ただけのことはあると妙に納得してしまった。少女は大きなヌイグルミをぎゅっと抱いている。それは耳と目がやたらと大きい猿のような生き物だった。人形のような美少女が大きめのヌイグルミを抱く姿はとても絵になる。こんな場末の街角には似合わない。だが、そのミスマッチが妙に痛々しい。
『友達は居ないのか?』と、今枝が周囲を見回す。それに対して少女は小さく首を振る。
「そうか……」
そういって今枝はしゃがんで少女の頭を撫でた。言葉も不自由な異国の地で同年代の子供がいないというのは可哀想でならない。今枝は、やれやれと首を振って静かに笑った。
『暗くなる前にお家に帰るんだよ』
今枝のつたないロシア語でも少女には十分伝わったようで、彼女は小さく頷いてクルリと今枝に背を向けると、ちょこちょこと走り去った。それを見送ってから今枝は、怪しさ満点のロシア式雑居ビルに入ることにした。
1階の料理店と雑貨店には目もくれず階段を上る。予定通り真っ直ぐ4階に向かい、事務所らしき扉を幾つかやり過ごし、一番奥の扉を選択した。扉に付けられたプレートで会社名を確認する。
「フン。一応、看板は出してあるんだな」
そう呟いてから今枝はノック無しで金属扉を勢いよく開けた。呼び鈴不要のやたら大きな軋み音が室内に響く。それぐらい何もない部屋だった。会社というには余りに物が無さすぎる。右手には大型デスクがぽつんと一台。左手には六人掛けのダイニングテーブル、しかも椅子が半分しか揃っていない。目につく調度品はそれぐらいしかなかった。窓際には港の倉庫にありそうな木箱が三つほど放置されている。内装は必要最小限で、明かりを点けていないせいで壁床天井はグレーに染まり、窓にはカーテンもブラインドも無く、まるで夜逃げの跡のような印象を受けた。それに室内の気温が廊下と同じぐらい低い。ちょうど外階段の踊り場で寒さに気付いた時のように、この部屋には寒々しい空気が潜んでいる。そんな室内に向かって今枝は「邪魔するよ」と、声を掛けて中に入った。そして数歩進んだところで何かの気配に気付く。
「なんだ。居るなら返事ぐらいしたらどうだ?」
今枝の言葉に対して返答は無い。窓からダイレクトに差し込む日光は床の半分程度しか侵食していない。その向こう側にイタチのような風貌の男は居た。彼は室内の片隅に立ち、じっとこちらを見ている。今枝の訪問に驚くこともない。ただ、冷めた目でその場に立ち続けているだけだ。
今枝が親指で背後の扉を指す。
「看板を見たよ。ちゃんと運送業を営んでいるじゃないか。表にトラックは一台も無いみたいだが」
それに応えるでもなくイタチ男はゆっくりと近付いてくる。その足音は固い床をノックするように固く、アンティーク時計の振り子のように等間隔だった。彼のつま先が影と光の境界線を超えたところで今枝が目配せする。するとイタチ男はダイニングテーブルを顎で示した。不揃いな椅子のひとつを選んで今枝とイタチ男が向かい合う形で着席する。
イタチ男は深く腰掛けながら呟く。
「車両を保有し続けるよりも頻繁に買い換えた方が低コストで済む。それに新しいもの好きでね。使えなくなったものは直ぐに取り換えることにしている」
今枝が意地悪そうな顔つきで質問する。
「ということは、あのワンボックス・カーもとうに処分したってことか。穴だらけにされてしまったからな」
それに対してイタチ男は回答する代わりに微かに口角を上げた。肯定も否定もしないといった風に。
それを見て今枝が核心を突く。
「アンタ達だろう? 池袋で金髪のアンちゃんを攫ったのは」
しかし、イタチ男は余裕の笑みを見せる。
「さあ。何のことかな?」
予想通りの反応に今枝が頷く。
「うん。まあ、そう言うだろうと思ったよ。ただ、未だに分からない。あの時、横やりを入れてきたのは誰なんだろう?」
今枝が話題にしたのは地下闘技場での銃撃戦のことだった。あの晩、ダイナマイト・アツシを拉致したワンボックス・カーに何者かがショットガンをぶっ放した。それは敵か味方か分からない。それどころか巷を騒がせている連続殺人犯の可能性が高いという。
イタチ男は足を組みながら首を振る。
「それはこっちが聞きたいね。顔が見てみたいよ。繁華街でショットガンなど……実に品が無い」
「もしあれが『ブレイン・ブレイカー』と呼ばれている殺人犯なら結果的にアンタ達はあのアンちゃんを救ったことになるな」
「フン。興味が無い話だ。ところで今日はどんな用件で? ようやく我々に協力する気になったのか?」
「いいや。落し物を届けに来ただけさ」
そういって今枝は懐から端末を取り出してテーブルに置いた。
「落し物……なるほど」
「届ける為に止む無く中を確認させて貰った。持ち主に返してやってくれ」
「それはご丁寧に。だが残念なことにその持ち主はもう居ない」
そう言ってイタチ男は冷たい笑みを見せる。
「居ないだと?」
「ああ。彼は寒いところに行ってしまった」
「寒いところ……ロシアにでも帰ったのか? なんだ。それなら特上のウオッカを送ってやりたいな。思い切りぶん殴ってしまったお詫びとして」
「せっかくの申し出だがそれは難しいな。届けるのが大変だ」
その様子から今枝に端末を奪われた男の行方は大方予想が出来た。しかし、この世界では良くある話だ。今枝は頭を掻きながらいう。
「なあ。『スティモシーバー』って知ってるか?」
今枝の言葉にイタチ男が怪訝な表情を浮かべる。
「なんだ。それは?」
その表情を探りながら今枝が問う。
「西園寺はどこまでアンタに話している?」
「ほう。そこまで掴んでいたか。やはり君は優秀な人材だな」
「恐らく、アンタ達を西園寺に紹介したのは奴の派閥長だろう。ロシア利権に強いベテラン議員だ」
「そうなのか」と、イタチ男は澄まし顔で肯定も否定もしない。
「西園寺はスティモシーバーを手に入れてどうしようというんだ? アンタのクライアントは何を企んでいる?」
「さあな。誓っていうが我々は何も聞かされていない。どうやら我々はビジネスパートナーとして認められていないようだ。単なる下請け扱いだ」
「気にならないのか? 大きなビジネスになるぜ」
そんな今枝の煽りに対してイタチ男は一寸、考える素振りを見せてから静かに首を振る。
「興味ない。我々の仕事は単価が決まっている。荷物をひとつ届ければ幾ら。必要経費はケースバイケースだがね」
「どうせ水増し請求だろう」
「酷い言われようだな。ぼったくりではない」
「テロ紛いの騒ぎを起こしておいてよく言うぜ」
「あれはクライアントの指示だ」
「へえ。変わった趣向だな。西園寺は政治家だろう。騒ぎがデカくなるのは普通、避けるはずだ」
「クライアントの趣味なぞ知らんよ。我々はリクエストにお応えしただけだ」
「なるほど。しかし、俺達はとんでもない事に巻き込まれてると思わないか?」
「さあ。何らかの目的があるのだろうが末端の人間には知る由もない」
そういってイタチ男は諦めているといった風に首を振ったが、その目は鋭さを含んでいる。そんな彼の反応を眺めながら今枝が忌々しそうに吐露する。
「どうにも気に入らないんだ。この踊らされている感が。それに納得がいかない。池袋の件といい、ショッピングモールの件といい、行く先々で絡まれる。疑いたくもなるさ。情報が洩れてることを」
それを聞いてイタチ男がニヤリと笑う。
「偶然、ということもあるだろう。意外と世間は狭い」
「いいや。職業柄、依頼主を無条件で信用しているわけじゃない。アンタと同じでね」
「ほう。面白いことを言う。だが、なぜクライアントを疑う?」
「依頼主を疑えっていうのは探偵小説のセオリーだ」
「なるほど」
「相手が政治家となるとアンタも気を付けた方がいいんじゃないか」
「それは心得ている。簡単に切られないように保険をかけておくのは当然の事。零細企業の知恵だ」
下請け同士ということもあって予想外に会話が弾んだことで緊張感が和らいだのか、そこでイタチ男が席を立ち「大したものは出せないが」と、デスクの前で屈んだ。彼はグラスを取り出しながら尋ねる。
「ウオッカでいいか?」
「洋酒ならなんでも」
「よろしい」
そう言ってイタチ男は右手にボトル、左手にグラスを2つ持ってテーブルに戻ってきた。そして「ウオッカの良いところは……」と、グラスにボトルの中身を注ぎ「常温でも美味しくいただけるところだ」と、続けた。
「同感だね。氷に頼らない。独り立ちした個性がある」
今枝の相槌にイタチ男は満足そうに頷く。
「ロシア人の燃料だからな」
それを聞いて今枝が意外そうな顔をする。
「アンタ、ロシア人なのか? 日本人にしか見えないが」
「母親がハーフでね」
「なるほど。クォーターか。ロシアには?」
「子供の頃に何度か行ったきりだ。祖父が生きている頃に。寒かった記憶しかないがな」
「仕事で行く機会は無いのか?」
「行かなくても差し支えは無い。日本に居ても商売はできる。それにあの国は浮き沈みの激しい国だからな。地方格差も酷い。自分の記憶では、なぜか祖父は『使い捨てライター』を土産に望んでいた。日本製は安くて長持ちすると言ってな。あっちではガスが無くなったらそれを詰める商売すらあったらしい。祖母は祖母で近所に配る為の生理用品を所望した。祖母はソ連時代に逆戻りしてしまったとよく嘆いていたな。確かに公園のベンチに血の跡が普通にあった。物資が乏しいというのは惨めなものだよ」
イタチ男が子供の頃というのは資源の輸出に頼りきりだった経済が傾いて悲惨なことになっていた時代を指すのだろう。
彼はグラスを一気に傾けてから今枝に尋ねる。
「そういう君はどこで銃を覚えた?」
「グァムだ。十歳の頃、両親が離婚して母親が祖父を頼って移住した。祖父はリタイヤ後に日本を脱出してグァムで野外射撃場を経営していたんだ」
「ほう。それで銃の扱いに慣れているということか」
「自然とな。祖父には感謝している」
「銃を教えてくれたからか?」
「いや。学校に馴染めずに引き篭もっていた自分をハードな世界に放り出してくれたからだ」
「ほう。良い話じゃないか」
「どうだか。いきなりマフィア紛いの探偵に預けるか? ずっと後になってそのことを問い詰めたら『弁護士だと聞いていたんだが』だとさ」
そう言って今枝はウオッカを飲み干した。イタチ男がそれを見てボトルに手をかける。と、その時、窓の外から怒号が聞こえてきた。そして突然の銃声。
「騒々しいな」と、イタチ男がボトルを持った手を止める。
今枝は何となしに立ち上がって窓際に移動する。そこから外の様子を確かめようとしているとイタチ男も寄ってきて窓の外を覗き込んだ。
「どうやら、うちの者が通りの向こうと揉めているみたいだ」
イタチ男は半分他人事のようにそう言った。見ると通りの向こう側にあるナイジェリアのテリトリー内に黒人青年の姿が見える。軽トラックを挟んで2人、雑貨店の窓から身を乗り出している者が1人、合計3人がこちらのビルに銃口を向けながら何やらまくし立てている。足元のロシア側の様子はここからでは把握できない。
イタチ男が少し考え事をする素振りをみせてから今枝に提案する。
「ひとつ頼みがある。援護してやってくれんか? 金なら払う」
「放っておけばいいだろう。直ぐに警察が来る」
「いいや。この辺りではそうもいかない。ここの警察は発砲事件があった場合、時間を置いてから出動することになっているらしい。裏マニュアルでな」
「そうなのか。怪我人が出る前に何とかした方が良いんだが、生憎、今日は銃を持っていないんだ」
そういって首を竦める今枝を見てイタチ男が意外そうな顔をみせる。
「銃を持っていないだと? 手ぶらで来たのか?」
「ああ。アンタと争う理由が無いからな」
単身で乗り込んでくるからには護身用の銃ぐらいは持っているとイタチ男は考えていたのかもしれない。しかし、今枝は事もなげにそう言った。
「なるほど……それもそうだ」
イタチ男は納得したように頷くとデスクに向かい、引き出しから拳銃を取り出してきた。そしてそれを窓の桟に『どうぞ』といった風に置いた。今枝が黙ってそれを手に取る。その間にも窓の外では2発目3発目の銃声が響いた。
今枝は銃を点検しながら呟く。
「トカレフか。まあ、ありもので間に合わせるしかない」
その間にイタチ男が上げ下げ窓(電車の窓のようなスライド式の窓)を開けて今枝の射撃をサポートする。
「さて、と」と、今枝は左手に持った銃を外に向ける。そして予備動作なしに、いきなり発砲した。
1発目は緑の看板に当たった。一呼吸おいて2発、3発、4発と続けざまに発砲する。そのどれもが黒人青年の持つ銃に命中した。彼等は何が起こったか分からなかったのか一斉に喚くのを止めた。そして弾かれたように動き出した。銃を落としてパニックになりながら屋内に引っ込む者、慌てて窓の中に引っ込む者、そして逃げ遅れた一人がこちらに気付いて睨んでくる。が、今枝の放った5発目の弾丸がその頬をかすめたところで慌てて建物に引っ込んだ。
一連の動きを確認して今枝は黙って銃を元の位置に置いた。それを見てイタチ男が感心する。
「ほう。一発目はわざと外したのか。たった一発で慣れない銃の癖を把握した訳だな。それにしても全弾をピンポイントで当ててしまうとは……実に見事な射撃だ」
今枝はチラリとイタチ男の顔を見て、ぽつりという。
「撃つ気はなかった。だが、奴等、子供に銃口を向けやがった」
そう言って今枝は窓の外に目を移した。その視線の先には赤い車の脇で震える少女の姿があった。今枝がここに来る際に声を掛けてきた少女だ。彼女は必死で茶色いヌイグルミにしがみついているように見えた。
イタチ男が「フム」と、頷いてから懐に手を入れた。そして札を何枚か取り出して今枝に握らせようとする。
「少ないが、これは礼だ」
「よしてくれ。見世物じゃない」
「しかし、借りは返さねばならない」
「だったら、その金であの子にお菓子でも買ってやってくれ」
「……ほう。何でまた?」
「怖がらせてしまったお詫びさ」
「分かった。そうすることにしよう。見かけによらず子供好きなんだな」
「いいや。なんとなく気持ちが分かるんだ。異国の地で友達が出来ないのは寂しいものさ」
そう言って今枝は上着の襟を直し、手で埃を払うと無言で出口に向かおうとした。
その背中にイタチ男が声を掛ける。
「どうかね。今度、一緒にダーツでも楽しまないか。レートは任せる」
今枝は一瞬、考えるような素振りをみせてから首を振った。
「よしとくよ。それじゃ賭けにならないぜ。それはアンタの得意分野だろう」
「そうか。それは残念だ。君とは気が合うと思ったんだが」
「気のせいだよ」と、言い残して今枝は振り返ることなく右手を挙げた。そして扉を開けて外に出るなり扉の前で待機していた若いロシア人に予め用意してあったロシア語で話しかける。
『お勤めご苦労さん』
今枝の言葉に懐に手を入れたままのロシア人青年が戸惑う。恐らく彼はイタチ男の用心棒なのだろう。銃声がしたので、いつでも室内に飛び込めるように待機していたのだろうが、そんなことは今枝には『お見通し』だったのだ。
ロシア人向け雑居ビルを出たところで今枝の端末に八神青年からの連絡が入った。
『今枝さん。今どちらに?』
「ああ、ちょっと新宿をブラブラしていた」と、今枝は歩きながら答える。
『新宿ですか。それなら近いですね。今から池袋に向かえますか?』
「池袋? 何かあったのか?」
『はい。地下闘技場で合流しましょう』
「地下闘技場……なんでまた?」
『今夜の試合にダイナマイト・アツシが出場するようです』
それを聞いて今枝が驚いて立ち止まる。
「バカな! 奴は拉致されてアレを抜かれたんじゃないのか? なぜピンピンしてる?」
『それは分かりません』
「いや。死んだとばかり思っていた。良くて人体実験……」
そこまで口にして自分の発した単語の物騒さに気付いて今枝が声を潜める。
「拉致されて頭の中を弄繰り回されたはずなのに、なぜ無事なんだ?」
『自分もそう考えていました。ですが彼は社会復帰しているようです。それを確かめに行かなくてはなりません』
青年は冷静にそう主張するが今枝は『きな臭いもの』を感じていた。予想外の展開ではあるが、あれこれ考えても仕方が無い。
「分かった。20時に地下闘技場で」
『はい。お願いします』
通信を切ってから今枝は大きくため息をついた。
「マジかよ……どうなってるんだ」
乾いた北風が今枝の足元を吹き抜け、異国の風情が漂う街並みを駆けていった。見慣れない文字がプリントされた紙ゴミが風に乗って、そそくさと今枝の足元を横切ろうとした。つま先でそれをぐっと抑え込んで今枝は険しい顔を見せる。その背後では遅ればせながら到着したパトカーのサイレン音が虚しく重なっていた。