インデペンデンス・デイ その3
一夜明けて、とうとう撮影最終日となった。その日は10時からミーティング、10時半からカメラを回す予定だったが、俺とスライは気合いを入れるため、8時前からアパートを出て、町内をランニングしつつ大学へ向かった。
国道沿いの歩道をスライと前後に並んで走る。ふと横を見れば、骨のように痩せた赤い自転車が路端を走り、俺達をぎゅんと追い抜かした。対抗して速度を上げるが、やはり追いつかない。「今は負けだ」と、自転車乗りの背へ向けていた視線を上に向けると、7月の太陽がぎらりと輝いている。まるで亜熱帯のような、湿度を含んだ匂いがする。今日しかないというくらい、絶好のアクション日和だ。
大学に着いたのは9時半前で、普段着に着替えて部室に向かうと小津監督が既にいた。「来たか」と俺とスライを交互に映した瞳には、期待の色が揺らいでいる。
ソファーに腰かけ待っていると、白鯨のメンバーが続々やってきた。三池先輩、園先輩、北野と来て、集合時間のギリギリに部室にやってきたのが黒沢先輩だった。どこか沈んだ表情の先輩は、「おはようございます」と挨拶こそしてくれたものの、決して俺の顔を見ようとはしなかった。
それから、小津監督によりこれからの段取りが説明された。今日の撮影も例によってゲリラ的に行うのだが、怪我の恐れもあるファイトアクションということで、警察や大学職員を呼ばれる危険性が大いにあり、そのためリテイクは許されないとのことである。つまるところは出たとこ勝負のワンカット撮影、成功も失敗も〝小津組〟の手腕次第というわけだ。
「プランBは用意していない。ここで決めるぞ、覚悟を決めろ」
小津監督からの決起を促す言葉を皮切りに、インポッシブルなミッションがスタートした。
まず、撮影の三池先輩とその補佐役として北野が部室を出た。2人には、撮影現場となる正門の付近で風景を撮るふりをしつつ、カメラなどをスタンバイする役目が与えられている。10分ほど遅れて園先輩が出る。先輩の役目は正門に立つ守衛の気を逸らすことだ。恐らく、気を失って倒れる演技でもして、守衛が一時的に職務放棄せざるを得ない状況を作り出すのだろう。さらに後に小津監督が出たのは、現場状況を確認し、撮影開始に問題は無いか判断するためである。
監督が部室を出て5分ほど後に、携帯に電話が入りスライを先行して出すようにと伝えられた。「行ってくる」と力こぶを見せつけたスライは、意気揚々と部室を出る。部室には、俺と黒沢先輩だけが残った。
「ここしかない」と確信した俺は、対面するソファーの対角線に座り、スカートを握って背中を丸める先輩に話しかける。
「先輩、今日の撮影が終わった後って、時間ありますか?」
「……すいません。今日は予定が――」
「時間は取らせません。5分……なんなら、1分でもいいんです」
「でも」と先輩が下を向いたままそう答えた時、携帯がヴーンと震動した。取ると、小津監督からの電話である。
「さあ、始めるぞ。最高の映画にしようじゃないか」
返事を待たずに通話が切れる。携帯を机に置き、尻ポケットにヌンチャクを詰めた俺は、「行きましょうか」と先輩を先導する形で部室を出た。
○
――ミフネがタカクラと共に大学へ向かっていた時のことである。タカクラの頭に突如、黒い液体が降ってくる。コーヒーであった。彼らの前を歩いていた男子学生の3人グループのうちひとりが、友人にちょっかいをかけられた拍子に、手に持っていた飲みかけのコーヒーカップを放り投げ、それが運悪くタカクラの頭に飛んできたというわけである。
幸いなことにそれはアイスコーヒーであったため、タカクラに怪我は無かったのだが、「ならいいじゃん」と開き直った学生は彼女に謝る素振りを見せない。調子づいた学生の言動に気圧されたタカクラは、「そうですよね」と力なく肩を落とす。
ミフネはその姿に悔しくなり、学生の態度に怒りを覚えるものの、いざ彼らを呼び止めても次の言葉が出てこない。自らの心の弱さに憤りを覚えるミフネ。
と、その時であった。学生はいつの間にか筋骨隆々の巨漢に姿を変え、「それでも男か」とミフネを煽ってくる。何も本当にそうなったわけではなく、それはミフネの弱気が作り出した幻影である。
力なく「そうだ」と答えたミフネに、「だったら俺を倒せ」とさらに煽る筋肉男。ミフネは拳を硬く握り、20年余り育て続けてきた『弱気の自分』という最大の敵に立ち向かう……。
これから撮るのは、その最大の敵との一騎打ちのシーンである。具現化したミフネの弱気を演じるスライを俺が打倒するというのは、なんと因果なことだろうかと思う。
先輩と共に会話も無く歩いていると、やがて決戦の地まで辿りついた。
正門から正面を見れば、まず目につくのは噴水も備えた水場である。5号館まで緩やかに伸びる幅の広い階段を二分する、狭い水路から水を引いてきており、生意気なことに夜になるとライトアップされる。学費の無駄遣いと言わざるを得ない。
左手にはコンクリート造りの塀を挟んで、スロープが伸びている。階段の途中には踊り場があり、そこには植樹を囲むようにベンチが設置されている。
スライは腕を組んで踊り場に立っていた。その姿はさながら巌流島で武蔵を待つ佐々木小次郎で、闘志に満ち溢れている。ちょうど2限目が始まる時刻なので、これから授業を受けようという学生が大勢歩いているのだが、モーゼの十戒よろしくスライの半径2mには誰も寄りつかない。
カメラを構えた三池先輩が音もなく俺に近寄ってきている。スタートの声もかかっていないし、カチンコの音も鳴っていないが、もう〝始まっている〟。
――コーヒーを浴びたタカクラは、苦い香りを漂わせながら「ミフネくん」と心配そうに声をかけてくる。深くゆっくり頷いて、それを返事とした俺は、弱気の自分を睨み付けた。
「……お前が、俺の〝弱気〟か」
「そんな呼び方無いだろう。そうだな……ナカダイなんて呼んでくれれば光栄だ」
「知るか」と、俺はゆっくり階段を昇り、踊り場でヤツと対峙する。「態度も身体も、ずいぶんデカいよな。……同じ俺のはずなのに」
「だからこそだ。ミフネ、今まで生きていて、人に対して強気に出たことはあるか? 人に意見を言えたことは? 一歩踏み出そうとしたことは? 何一つ出来ないくせに、そんな自分を良しとしただろう、お前は。そんなお前のおかげで俺は成長した。お前が臆病であったからこそ、俺は大きく、強くなれた。感謝するぞ、世界一の臆病者」
「……そうだ。俺は臆病者だ。でも、そんな自分がもう嫌なんだ。俺はタカクラをあんな目に遭わせた奴らにひと言言ってやらなくちゃならない。だから、頼むからここで消えてくれ、〝俺〟」
「そう言うなよ。目の前で人が倒れても無視しよう。列に割り込まれても気が付かないフリをしよう。誰かに言いなりになって、言われたことだけをやって生きていこう。そっちの方がずっとラクだ。これからも温く仲良くしようじゃないか、〝俺〟」
差し伸べられた右手を力いっぱいに跳ね除けると、ナカダイは喉の奥でククっと笑った。
「本当にやる気か? 参ったな、自分で自分を痛めつけなきゃならないなんて」
「いいから来い」と拳を構える。腕の震えは止まらないが、武者震いだと思い込め。越えろ、越えろ、超えるんだ、自分を。
身体を半身に捻り先制の横蹴りを繰り出す。腹筋に向けて直進した足刀は、寸前のところで受け止められる。ナカダイは蹴りを受け止めた左腕を無造作に振り、そのせいで俺は情けなく尻餅を突いた。
「そんなものか、〝俺〟。そんなひ弱な一撃で俺を消せると思うのか?」
ナカダイの右脚が、一本の糸で吊り上げられるように。ゆっくりと天に向かって伸びていく。来る、と思うより先に、踵落としが脳天目がけて打ち下ろされた。
横に転がり必殺の一撃を何とか避けたが、続けざまに左脚で二撃目が放たれる。また避ければ逆の脚で三撃目、それも避ければ四撃目。
容赦のない攻撃を辛うじて避け続けていると、硬い感触が背中に当たり、俺の逃げ道を塞いだ。塀まで追いつめられたのだ。そんな俺の顔面をギリギリ掠めるように繰り出されたナカダイの前蹴りは、「もう諦めろ」と雄弁に語る。
こんなところで諦めてたまるか。距離を取って立ち上がった俺は、シャツを脱ぎ捨て上半身を太陽の元にさらけ出し、ポケットからヌンチャクを引っ張り出した。いつの間に俺達を囲んでいたギャラリーから、「おおうっ」という歓声めいた叫びが聞こえる。
「いいぞ、映画オタク。やれるものならやってみろ」とナカダイは俺をあざ笑った。
答える代わりに、敬愛するブルース・リーの如き勢いでヌンチャクを振り回した俺は、自らを鼓舞するため怪鳥音を上げる。
それから、しばしの睨み合い。周りから飛ぶ「いいぞ」「やれやれ」の野次が、集中力でかき消されていく。
限界まで高まる緊張感の中、先に動いたのは俺だった。振りかざしたヌンチャクを肩口から斜めに切るように振り下ろす。上体を僅かに逸らしてそれを躱したナカダイを追うよう横一閃に腕を振れば、ヤツは身体を横に回転させカウンターの回し蹴りを放ってきた。間一髪のところでヌンチャクを使って蹴りを受ける。震動が伝わり、手のひらだけじゃなくて腕まで痺れる。
逃げたい、逃げない。ここで退いたら元の俺に逆戻りだ。
震える脚に力を込め、再び猛進。先制はナカダイ、顎先を狙った右ストレート。ヌンチャクの鎖でそれを絡め取った俺は、両足を揃えた飛び蹴りで応戦。受けたナカダイ、僅かに怯むが不敵に笑ってハイキック、そのまま蹴り足を振り下ろす。二撃とも俺の身体を捉えるに至らないが、次に放たれたフェイントを交えた二段蹴りがヒットしダウン。手を使わずに身体の反動だけで立ち上がった俺は、口元を拭って口角を上げる。
幾度と繰り返した動き、寸分の狂いもない――と、ほんの一瞬だけミフネの魂が乖離し、役者としての檜山蘭が顔を出す。スライの野郎も、演技だか本気だかわからない心底楽しそうな笑顔を浮かべてやがる。だからダイコンなんて言われるんだ、馬鹿野郎め。なんて思う俺も気づけば笑っている。
ナカダイ、大振りの攻撃、右腕、左腕、右腕、右脚の順。後退して避けた俺、ヌンチャクで顔に一撃。笑うナカダイ、さらにヒートアップ。前蹴りでけん制した後、一気に距離を詰めると同時に首を掴みにかかり、俺の身体を塀に押し付ける。
「よく頑張ったな。でもこれで終わりだ」
「どうかな」と答え、ヌンチャクを投げ捨てた俺は、ナカダイの膝に蹴りを入れる。巨体のバランスが崩れたところで腕を振りほどき、腹筋目がけて左右の拳で乱打を浴びせる。
響く怪鳥音、肉を打つ音。乱打を受けて大きく揺らぐナカダイの身体。それを確認した俺は、背後に迫っていた塀を蹴って、その反動で宙に駆け上がる。勢いそのまま横回転、遠心力がついた踵をナカダイの顔面に叩きこむ。
最後の一撃は必殺の、胴回し回転蹴り。支えを失ったように膝から崩れたナカダイは、どこか満足そうな笑みを浮かべながらまぶたを閉じていく。
カットの声は掛からないが、〝終わった〟ということは理解できた。なら、今度は個人的な用事だ。脱ぎ捨てたシャツを着直した俺は、まずは倒れたままのスライに声をかけた。
「何とかやりきったな。大丈夫か、スライ」
「平気だ。それより、お前にはやるべきことがあるだろう?」
赤くなった頬をさすりながらスライは上半身を起こす。例にもよって満面の笑みである。強がりとかではなく、本当に問題無さそうだ。この男の丈夫さに半ば呆れながら笑った俺は、続いて、大仕事が終わってホッとした様子の黒沢先輩に歩み寄る。
「黒沢先輩、お疲れ様です。先ほど話した通り、ちょっとお時間貰っていいですか?」
「い、今でしょうか?」と先輩は表情を強張らせる。
「今です。今じゃなくちゃ、ダメなんです」
先輩は少し迷ったように何も無いところを2、3度見た後、「それなら」と小さく頷く。それに対し「ありがとうございます」とまず礼を述べた俺は、続いて深々と頭を下げる。
「すいませんでした、黒沢先輩。俺、貴女に嘘を吐きました」
「嘘……ですか?」
「はい。俺、この前、愛してますなんて言葉は冗談だって、言い訳だって、誤魔化しだって言いました。でも、それも嘘だったんです。貴女の口から返事を聞くのが怖くって、どうしようもなくなって、それで結局逃げたんです」
「……檜山くん」
「俺、本当は、本当に貴女のことが大好きです。会った時から惚れてます。貴女のことを考えるとバカになります。どうかしてるんです、俺。だからお願いです、先輩。『大嫌いだ』でもいいんです、『ふざけんな』でもいいんです。どうか、返事を下さい。これは、ミフネの言葉じゃありません。タカクラに宛てた言葉でもありません。檜山蘭から黒沢あきらへの、告白の言葉です」
そこで言葉を切った俺は、長いこと借りっぱなしになっていた花柄のタオルハンカチをポケットから取り出した。四つ折りになったそれをそっと広げれば、中には新文芸坐で行われるオールナイト上映会の前売り券が包まれている。
沈黙が続く。世界から音が消えたのかと思うくらいにシンとした時間。静寂の中で心臓は馬鹿になったみたいにドクドクと脈打っている。不安だ。でも、不思議と怖くは無い。
やがて、黒沢先輩が覚悟を決めたように口を開く。
「えっと……その、わたし、今、すっごく驚いてます……。こういうことって、生まれて2回目で……1回目も檜山くんで、その、だから、なんて答えるのが正解なのかはわからないんですけど――」
先輩は両手で顔を覆い隠し、そのまま少しだけ俺の方を向いた。
「『……知ってる』」
「はい」でも「いいえ」でもなく、「知ってる」。返されたのはあまりに予想外の言葉で、俺はなんと答えればいいのかわからず、思わず「え?」なんて聞き返した。
そう言われるのが予想外だったらしい黒沢先輩は、「え? え?」なんて可愛らしい声を上げ、恥ずかしそうに指の隙間から俺の方を覗いた。僅かに見えた頬のみならず、先輩は耳まで紅く染めている。
「わ、わかりませんでしたかっ?! その、えっと、スターウォーズでっ! レイアさんとソロさんのやり取りなんですけどっ! その、ソロさんが『愛してる』って言った時、レイアさんがこう答えてっ! えっと、でも、レイアさんが告白した時も、ソロさんはそう答えてたんですけどっ! と、とにかくですね、えと、えっと、ですから――」
髪の毛の端を引っ張ってみたり、地団太を踏んでみたり、ほっぺたをつねってみたり、せわしなく両目を動かしてみたりした先輩は、突如、気を付けの姿勢を取ってから、もう一度「知ってる」と呟いた。
ここまでされて気が付かないほど俺は大馬鹿というわけではない。安堵と歓喜がミックスされた感情の波が心を満たし、俺は声にならない雄たけびを上げて拳を握った。
しかし、告白が成功したというのに、ここからどうすればいいのかわからない。あれか、とりあえず抱きつけばいいのか? 映画では、告白が成功するや否や抱きつくのがお約束だ。よし、抱きつこう、抱きついちゃおう。なんていうレベルの低い考えが久しぶりに顔を出したところで、「おい」という声が割り込んできた。空気の読めないことには定評のある、三池先輩の声であった。
「ラン坊、逃げるぞっ! 園から連絡で、警察呼ばれたってよ!」
言うや否や一目散に駆けだす三池先輩の逃げっぷりは、まさしくトンズラこくという表現がぴったりであった。その後ろ姿で瞬く間に現実に引き戻された俺は、抱きつく代わりに「逃げましょう」と黒沢先輩の手を握った。先輩も、俺の手をきゅっと握り返した。
ふと周りを見れば、とんでもない数のギャラリーが周りを囲んでいる。さながらここは、人の海に浮かんだ陸の孤島である。しかしこれが却って人避けになるだろう。
先輩を先導してなんとか人波をかき分け、正門を抜けたところには小津監督がいた。
「どうした、檜山、黒沢。カットはかけてない、もう少しそのラブシーンを続けていればよかったろう」
冗談のように言ってくつくつ笑った監督は、俺の背中を強めに叩いた。
「さて、まだ気を抜くなよ、2人とも。惚けるのもNGだ。撮影はまだ残っているんだからな」




