インデペンデンス・デイ その1
最終章突入
今日か明日には投稿完了します
安アパートに戻ると、汗だくになりながら腹筋をしているスライの姿が玄関から見えた。相変わらず無意味な自己研鑽に余念がない男だ。その姿を鼻で笑い捨てながら、ぐっしょり濡れた靴を脱いでいると、俺の帰宅に気付いたらしいスライは「おお」と居間から声をかけてきた。
「そんなに濡れて、まさか傘を持たなかったのか?」
「それが悪いか」
「悪いとは言わないがな、あの空模様で傘も持たずに出るのは流石に馬鹿のすることだ」
「雨の日に傘を持たなきゃいけないってのは、誰が決めたんだ?」などとろくでもない言葉でスライの心配を両断し、服を脱ぎ捨てシャワーを浴びる。ドブのように混濁した感情が洗い流されていく。すると、脳内に大きな影が現れた。黒い十字の形をした恋の墓標である。
ツマランひと目惚れはもう終わった。これからはいくら身体を鍛えようと、いくらささみガムを食おうと、俺の思いはもう黒沢先輩には届かない。まあ、人生なんてどうせ、大抵のことは上手くいかないように出来ている。それが俺のものならなおさらのことだ。身を焦がす恋だなんて、成就するはずもない。それならいっそよかったじゃないか、これからは無駄なことに時間を使わずに済む。一過性の病に身をゆだね、夢見心地でいる日々は終わったんだ。明日からは真面目に生きよう。
後ろ向きに全力疾走する思考の到来を歓迎しつつ風呂を出ると、両腕を組んだスライが、さながら地獄の門番のように仁王立ちをして居間への入り口を塞いでいた。
「ラン、何があった?」
「何も」と脇を通り抜けようとするが、スライはいたずら猫を摘まみ上げるように襟首を掴んでそれを阻止する。
「何も無い男がそんな顔をするわけがあると思うか?」
「本人が何もないって言ってんだから何も無いんだ。その手、さっさと離せよ」
「お前が話すまで離さない。言えってんだ、何があった?」
その上から目線の態度が心底苛ついて、俺はつい「うるさいっ!」と声を荒げた。そこまでいくとさすがにスライはその手を離したが、一度火の点いた感情は止められそうにもなく、俺はさらにコンプレックスを爆発させた。
「だいたい、何なんだよお前は。知った風な顔しやがって、偉そうなことばっか言いやがって、何様なんだよ。上司かよ、教師かよ、兄弟かよ、親かよ。違うだろ? 放っておけよ、放っておいてくれよ。俺みたいにどうしようもないヤツのことなんか」
そこまで言い切った俺は、万年床に飛び込んで頭から布団を被った。少し後に、どっさりと腰を下ろす音がする。大方、得意の実力行使に移るつもりなのだろうと思って身体を丸めたが、予想とは裏腹にいやに静かである。そっと布団から見れば、スライは俺の枕元に敷かれた座布団に根を生やしたっきり動きそうもなく、布団をはがしにかかりそうな気配はない。
無言の時間が続く。聞こえるのは、雨が屋根を叩く音と自分の息づかいばかり。
いったいどれだけそうしていたのかはわからない。時間感覚が狂う暗闇の中、雨音による6畳半の支配を破ったのは、スライのしゃがれた声だった。
「確かに俺は、お前と一緒の家に住んでるだけで、親でもないし兄弟でもないさ。そりゃそうだ、俺は映画世界の住人で、お前は現実世界の住人。出会ったのも3ヶ月前、そんな俺達に大それた繋がりなんてあるわけがない。……でも、友達だ。友達は放っておけない、放っておけるわけがないだろ」
投げかけられたのは、筋肉臭が匂い立つ雄度の高い言葉だった。そのあまりに強烈な匂いは涙腺を刺激するほどで、俺の目からは大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。
バカ野郎。なんだよ友達って、人の気も知らずにふざけたこと言いやがって。こっちはお前を利用しようとしてたんだぞ。どうしようもない男なんだ。
「……恥ずかしくないのかよ、そんなこと言って」
そう言って布団から顔だけを出してみれば、スライの野郎は白い歯を見せつけるような笑顔で親指を立てている。どうしようもない男は、俺だけじゃないらしい。
根負けした俺は布団からずるずる這い出て、「せめて笑って聞けよ」と前置きした上で、先輩との一件をぽつぽつ語った。時折、嗚咽なんてこぼれたため、たいした話でもないのにずいぶん時間が掛かった。事の全てを語り終えたのは空が明らんできたころだった。
しかし、話が終わったというのに、スライは難しい顔して眉間にしわを寄せたまま口を開こうとしない。しばらく待ったが黙りきりであったので、手持ちぶさたになって「なんか感想は?」と尋ねれば、「馬鹿だな」と一言で両断した。
「そうだよ、バカだよ。だから笑えって言ったんだ。今まで生きてて聞いたことあるか? 二日酔いで床に這いつくばったまま、憧れの人に告白した情けない男の話なんて。惨めすぎて映画にもならないぞ」
「そもそもそれが間違っている。だから俺は馬鹿だと言ったんだ。ラン、お前は〝告白〟なんてしてないだろう」
何を言ってるこの男、鼓膜の筋肉を鍛え直したらどうだ。
「話を聞いてなかったのか? 告白したんだよ、俺は。好きですって、貴女にどうかしてるんですって、黒沢先輩にはっきり言っちまったんだよ」
「確かにお前は好きだと伝えたかもしれない。だが、それだけだ。お前がしたのはあくまで感情の羅列。それ以上でもそれ以下でもない。好意を伝えたその先を、つまりは〝付き合ってくれ〟とか、そういうことを言えてないんだよ。お前は」
心に五寸釘を刺されたようだった。確かに、本心と言えど好きだの何だのはその場の勢いで言ってしまっただけであって、あれを告白と呼ぶのは不可能だ。俺は「そうかもしれないけど」とスライの意見を一旦肯定するものの、すぐさま「でも」と言い返す。
「もしそうだとしても、俺の好意が先輩に受け入れられなかった事実は変わらないだろ。だったら、アレが告白かどうかだなんて関係の無い話だ。俺の恋はあそこで終わったんだ」
「受け入れられなかった? 馬鹿も休み休み言え。イエスともノーとも言わせる前に、お前が何も言わせなかっただけだろう。勝手な早とちりでどうせ断られると決めつけて、耳を塞いだだけだろう。それをクロサワのせいにするんじゃない」
今度は心にナイフを深く突き立てられたようだった。とても耐えられなくて、とっさに「でも」と言い返すが、次の言葉が見当たらない。
「でも」「でも」「でも」「でも」。
探していたのは言い訳だ。見つかるわけもないのに。
突き刺さったナイフで心を切り開く。ようやく姿を現した本心を、俺はその場に並べた。
「……ダメなんだ俺は。結局のところ、俺には勇気が無い。先に道が見えないと、一歩も進むことが出来ない。絶対っていう支えがないと、大事なところで踏み切れない。大事な人を傷つけたってのに、面と向かって謝ることすら出来やしない。男らしさの欠片もない、とんだ臆病者なんだよ、俺は」
情けない本音を聞かされたスライは、ただただ渋い笑顔をしていた。当然だ。俺だってこんなことを言われたら、どんな顔をすればいいかわからない。
「……そんなものさ、俺もな」
消え入るような声で返ってきたのは思いもよらない言葉だった。スライの顔に張り付いている、何度も見た覚えのある薄い笑顔は、下手な慰めを言っているようにも、冗談で言っているようにも見えなくて、俺は「なんだよ、それ」と尋ねる他なかった。
ふと俯いたスライは独り言のように語り始めた。
「……俺は映画の主人公でありながら、脚光を浴びることが出来なかった存在だ。だから、ウォーロックが演じた他の映画世界の主人公を眩しく思う。以前、ランにそう話したことがあったはずだ」
「あったな」と答えると、スライはさらに続ける。
「だがな、本当のことを言えば眩しいというのは少し違う。眩しく思っていただけじゃない、俺は彼らを羨ましく思った。妬ましく思った。自分も脚光を浴びたいと、歓声を浴びたいと、いや浴びてもいいはずだと、液晶越しで雄々しく戦うもう1人の自分に嫉妬を抱いた。何もせずに立ち止まったまま、ずっとずっと……そう思っていた」
そこで言葉を切って、スライは俺をじっと見た。その瞳に宿る光は弱々しく、いつものような猛々しさは微塵も感じられない。何も答えてやることは出来なかったが、その告白から逃げてはならないということは理解できたので、俺はスライの真っ直ぐな視線を正面から受け止めた。
「ラン、俺はお前が思うような男じゃない。人より少し筋肉があって、腕っぷしに覚えのあるのは確かだが、お前が見ている〝スライ〟は、女々しい男が少しでも主人公らしくあろうと見栄を張っているだけの、張子の虎に過ぎないんだ」
「……スライ」
「だから何を言いたいのかって言えば……ランには、俺のようになって欲しくない。意地を張って、見栄を張るばかりで、何にも出来ない俺のようなくだらない男になって欲しくないんだ」
俺は今までこの男のことを、どこか偶像的に見ていた。人の手によって作られた、悩みなんて文字は辞書に無い、どんなことがあっても最後には必ず成功が約束されているご都合主義の塊――ヒーローだとばかり思っていた。でも、違うんだ。こいつだって人間で、俺と似た者同士なんだ。
この筋肉が似た者同士――そう思うと、なんだか笑いがこみ上げてきた。ただ笑うだけじゃつまらないなと思い、歯をむき出しにしてわざとらしく大きく笑ってみた。
スライといえば、始めのうちは「気でも狂ったか」とでも言いたげに俺の顔を覗き込んでいたが、しばらくすると根負けしたように同じ顔して笑い始めた。早朝の安アパートは笑い声で大きく震えたが、たまたま留守にしていたのか隣人から壁を叩かれることはなかった。
一仕切り笑った後、俺は「行くか」とヤツの背中を目一杯の力で叩いた。何を話さずとも、俺が何をしたいのか瞬時に理解したらしいスライは、「ああ」とだけ答え俺の背中を負けじと叩いてきた。
それから俺達は豪快に服を脱ぎ捨て、トレーニング用の服装に着替えた。黒いノースリーブと黄色いハーフパンツに身を包んだバカがスライ。上下グレーのウェアを着込み、黒のヌンチャクをネックレスの如く首に掛けているアホが俺である。
戦闘準備を万端にした俺達は、安アパートを飛び出して巣鴨の街を当てもなく走り始めた。
低く広がっていた灰色の雲は、いつの間にかどこへやらと消えている。朝の青い光がコンクリートに反射して目に沁みる。ひと気のない住宅街に2人分の小気味よい足音が響く。郵便局の配達員が物珍しそうな視線を一瞬だけこちらに向けてすぐさま目を逸らす。母親と共に歩く子どもが容赦なく指さしてくる。汗が絶えず吹きだし我慢ならなくなってくる。しばらく行くと駅前の地蔵通り商店街に突入して人の目も多くなったが、一向に構わない。
むしろ見ろ! 俺達の走る姿をしかとその眼に焼き付けろ!
俺達は示しを合わせたように同時にスピードを上げ、土曜の商店街を疾走した。
雨上がりのコンクリートから香る甘い匂いを肩で切る。歩道にはみ出して展示してあるミセス洋品店のブラウスをなびかせる。高岩寺から漂う線香の煙を一気に振り切る。八百屋の親父から飛んできた冷やかし混じりの「がんばれよ!」の声に強く腕を振る。飛んできたトマトを受け取ってかじる。太陽の光は昨日までの遅れを取り戻すかのように輝き、猛烈に暑い。頭の中にはロッキーのテーマが絶えずリピート再生されている。
夢中に走るといつの間にかいつもの場所――染井吉野桜記念公園まで来ていた。休憩もそこそこに、俺達は筋トレを開始する。腕立て腹筋背筋スクワットで筋肉を徹底的にいじめ抜き、続けざまにファイトアクションのトレーニング、ヌンチャクだってぶんぶん振り回す。汗だくになった五体を地面に投げ出せば、空の色は橙である。何かのパフォーマンスと勘違いしたのか、遠巻きに人垣が出来ているのが視界の端に映る。
朝からぶっ通しで動き続けたせいで、もう一歩も動きたくないほどの疲労感が身体を包んでいる。が、一皮剥けば身体中活力で充ち満ちている。
俺は「ウォォッ!」と力強く咆哮した。共鳴するように、スライも「ウォォッ!」とこれまた力強く吠えた。巣鴨の狼になった俺達を見て、潮が引くように人が去っていく。いいから好きなだけ見ていけよ! と叫んでやろうとしたが、息が切れて叶わなかった。
荒い呼吸が落ち着いてきたころ、俺は「スライ」と声を上げた。疲れのせいで大きな声は出ないが、代わりに気合いだけは無駄に込めた。
「やるぞ、俺は。くだらない男になって欲しくないってお前が言ったんだからな。今さら何言われたって、俺はお前を越えてやる。黒沢先輩に告白して、しかも成功させてやる。先輩と2人で旅行に行って、お前に土産を買ってきてやる」
「ああ、やってみろ。越えてみろよ、俺を。それで、クロサワを連れて旅行なりなんなり行けばいい。ただ注意しろ、下手な土産を買ってきたら承知しないぞ。温泉まんじゅうやタペストリーなんて断固拒否だ」
「わかってる」と唸るように答え、俺は両腕を高く突き上げた。
「やるぞ、俺は! やってやる!」
天を睨みつけた俺は、臆病者からの卒業の言葉を力の限り叫んだ。




