終章
屋敷へ戻ったころには、台所の火はほとんど落ちていた。
ヤナは裏口から入り、外套を掛けた。料理場には洗い終わった鍋が伏せてあり、奥で下働きの娘が明日の豆を水に浸していた。
「お帰り」
「ただいま」
それだけ言って廊下へ出た。
ミルカの部屋の前を通ると、灯りは消えていた。戸の下からも光は漏れていない。
ヤナは自分の部屋へ入り、髪をほどいた。水差しから一杯飲み、寝台へ腰を下ろした。
市庁の広間で聞いた声が、順に戻ってきた。
まず、ゲルトの顔が浮かんだ。
手首に指を当てられた。目を見られた。舌を出した。腕の皮膚を見られ、爪を一本ずつ確かめられた。
灰疫の呪ではなかった。
銀爪症でもなかった。
沈み熱でもなかった。
夕方の熱もない。灰色の斑もない。爪の濁りもない。指先の感覚もあった。
ゲルトはそう見て、疲労だと言った。
次に、ハウフの声を思い出した。
黒い粉には、第七類未同定残滓が含まれている。
長い年月のうちに人を害すると考えている。
それから、あの問い。
確認された害はあるのですか。
確認された症例はまだありません。
市庁でも同じだった。
確認された症例はありません。
ヤナは掛布を膝まで引いた。
三年使っている男がいた。
毎日店で使っている仕立屋がいた。
子どもも触っている家があった。
前の仕事場でも使っていた男がいた。
誰も何も起きていないと言った。
市場でも聞いた。
何度も触ったが何ともない。
半年使っているが何も起きていない。
フィオレも、黒い粉は払っておけばいいと言っていた。
市庁でフィオレは二枚の文を読み、名前を書いた。危険解析はしていないとも答えた。
五週間、刻印具に触らなかったことがあった。
途中でゲルトがもう一度来て、同じことを言った。
頭の重さは変わらなかった。
ヤナは指を折った。
一つ。
もう一つ。
次も。
その次も。
片手では足りなくなり、反対の手を使った。
自分はどうか。
頭が重い。
食べたくない。
夜中に目が覚める。
朝が遅れる。
ミルカも似たことを言っていた。
二人。
そこで指は止まった。
食堂の男。仕立屋の女。子どものいる家の女。荷運びの男。
四人とも別々に呼ばれ、別々に答えた。
ヤナはそこまで思い出してから、自分の手を見た。
自分とミルカは、同じ屋敷にいて、同じころから具合を悪くした。
けれど市庁で読まれた紙の中に、二人の名前はなかった。
係の者には、呼び出された人だけだと言われた。
市庁では、自分たちの名前は呼ばれなかった。
ハウフの名前は呼ばれた。
フィオレも呼ばれた。
使っている人たちも呼ばれた。
書記は一人ずつ紙へ書いた。
ハウフと同じ考えだという十四人は、一つの欄に入った。
最後に、請願は棄却された。
ヤナは折った指を開いた。
上着を椅子の背から取り、明日のために畳んだ。灯りを消して横になった。
翌朝も頭は重かった。
昼まで働き、午後は休んだ。
次の日も同じだった。
寝ている時間が増えても、朝はまだ起きにくかった。昼食は半分ほどで手が止まった。
それでも午前だけなら、皿を片づけ、銀器を数え、客間へ水を運べた。
三日目、サーラが大きな籠を抱えて階段を上がっていた。
「そこ、通るよ」
ヤナは壁際へ寄った。
「今日は多いね」
「客間を全部替える日だから」
サーラは止まらず上がっていった。
庭では少年が切った枝を縄で束ねていた。料理場の娘は昼の鍋を二つ洗い、片方を棚へ上げた。
洗濯場からオルガの声がした。
「これ誰の靴下」
誰かが奥から返事をした。
「私のです」
「名前つけなさいよ」
オルガは腰を片手で押さえ、もう片方の手で洗濯物を仕分けていた。
午後、ヤナが部屋へ戻ろうとすると、家令が廊下で呼び止めた。
「半日の扱い、今週までだったな」
「はい」
「戻せそうか」
ヤナは少し考えた。
「たぶん」
「無理なら言えよ」
「はい」
「明日、届出を作る。午後に小客間へ来てくれ」
翌日、午前の仕事が終わってから小客間へ行った。
机にはエギルと家令が座り、壁際には術者がいた。
ミルカは先に来ていて、隣の椅子に座った。
家令が二人分の紙を机に並べた。
「明日から元に戻す。具合が悪ければまた休ませる」
エギルも二人を見た。
「無理はするな」
「はい」
ミルカも頷いた。
家令はヤナの紙を取り上げた。
「市庁へ行ったそうだな。どうだった」
「棄却されました」
〈棄却されました。〉
家令は頷いた。
「ああ、掲示が出てたな」
「まだ、あの粉のことを気にしているのか」
ヤナは少しだけ黙った。
家令は紙の端をそろえた。
「気になるなら、また手で洗わせてもいい」
寝台で折った指を思い出した。
ゲルトに診てもらった。
三つとも違った。
確認された症例はなかった。
長く使っている人たちは、何ともないと言っていた。
「私は呪われているのではなく、疲れているんだ」
〈私は呪われているのではなく、疲れているんだ。〉
字幕は数秒で消えた。
誰も何も言わなかった。
家令が紙をヤナの前へ滑らせた。
「ここを」
ヤナは目を落とした。
「呪害の診断は受けていません」
〈呪害の診断は受けていません。〉
羽根ペンを取り、名前を書いた。
家令が紙を受け取る。
ミルカも自分の紙を読み、署名した。
「明日から朝からでいい」
「はい」
二人で小客間を出た。
翌朝は、鐘が鳴る前に台所へ下りた。
ミルカはもう来ていた。髪をまとめ、流し台の脇に布を重ねていた。
「おはよう」
「おはよう」
「眠い?」
「ちょっと」
ミルカはそう言って、大皿を一枚ヤナの前へ置いた。
流し台には昨夜の食器が積まれていた。
ヤナは棚から刻印具を出した。
皿を一枚取り、縁に残った汚れを濡れ布巾で拭う。
刻印具の平らな面を皿に当てた。
細い光が縁を一周した。
黒い粉がさらりと残った。
ヤナは皿を傾けた。
指先で二度、三度とはじく。
残った分を布で払った。
皿を棚へ戻した。
ミルカが次の皿を寄せた。
(終)




