⭐︎第73話 スリーマンセル
巨大な石獣が頭を持ち上げても、三人はすぐには動かなかった。
胸部の奥では青白い光が規則正しく明滅し、そのたびに床や壁、幾本もの太い柱を走る線まで淡く輝いている。石を積み上げて作っただけの巨体なら、どこを壊せば動きを止められるのか考えればいい。
けれど、ヴェルシアナの目には、その身体よりも周囲を巡る魔力の方がよほど厄介に映った。
一つの場所から力を得ているわけではない。床へ潜った流れが別の柱から現れ、壁を伝ったものが途中で枝分かれし、また別の経路へ合流している。
川というより、いくつもの水路を重ねた網に近い。どこか一つを塞いだ程度では、別の道からいくらでも水が届くだろう。
以前、ヴィクトルが地下施設の流れへ手を入れた時もそうだった。一つの経路を外せば、施設はそれで止まらず、別の道を選び直した。
「……まだ、こちらへ来ませんね」
オルティアが小さな声で言った。
石獣の両眼にはすでに青白い光が灯っている。それでも襲いかかってくる様子はなく、太い四肢を床につけたまま、三人を測るように首だけをゆっくりと動かしていた。
ディルヴァンも短剣を抜いてはいるものの、構えを深くしない。
「戻れそう?」
「確認します」
ヴェルシアナは石獣から視線を外さないまま、背後へ意識を広げた。
先ほど開いた白銀の扉からは、まだ細く風が通っている。閉じる気配もなく、少なくとも今のところ退路そのものは残されていた。
「扉は開いています。刺激しなければ、このまま戻れるかもしれません」
「それなら、わざわざ相手をする理由もないね」
「珍しく穏当ですね」
「俺だって、戦わなくていい相手に突っ込むほど何も考えてないわけじゃないよ」
「少し安心しました」
「少しなんだ」
口調は普段と変わらない。
ただし、ディルヴァンの目は一度も石獣から離れていなかった。
「ゆっくり下がりましょう。背中は向けないでください。オルティア様は私の隣へ」
「はい」
三人はほとんど同時に一歩下がった。
石獣は動かない。
続けてもう一歩、靴底を滑らせるように後退する。
その時、ディルヴァンの肩から僅かに力が抜けた。
石獣の胸が強く明滅したのは、その瞬間だった。
「来ます!」
ヴェルシアナが声を上げるのと、巨体が床を蹴るのはほぼ同時だった。
速すぎて姿が消えたわけではない。ただ、人の背丈を遥かに越える石の身体が、見た目から想像する重さを裏切るほど滑らかに距離を詰めたことで、目の方が一瞬判断を遅らせた。
「右へ!」
三人が散る。
直後、巨大な前脚が床を叩きつけた。
轟音が広間の奥まで走り、砕けた石片が足元を跳ねる。つい先ほどまで三人がいた場所には蜘蛛の巣のような亀裂が広がり、その衝撃でオルティアの髪まで大きく揺れた。
「退かせる気はなさそうだね」
「ええ。しっかり扉との間へ入りました」
石獣は偶然そこへ着地したわけではない。
白銀の扉と三人の間を塞ぐ位置へ身体を滑り込ませ、再び低く身を伏せている。
門を開いた者を先へ通すためではなく、その資格を試すために置かれたものなのか、それとも単純に侵入者を逃がさないためなのかは分からない。ただ一つ確かなのは、こちらが下がれば済む段階は終わったということだった。
「だったら――」
ディルヴァンが短剣を握り直した。
「退いてもらうしかないか」
そう言ったあと、彼の視線が一度だけヴェルシアナへ向いた。
ほんの一瞬だった。
作戦を求めるでもなく、自分の意図を言葉にするでもない。けれど、その目を見ただけで、ヴェルシアナには何をするつもりなのか分かった。
倒せると決めつけているわけではない。まず自分が近づいて、どこまで刃が通るのか、どんな反応を返してくるのかを測るつもりだ。
森でも訓練でも、何度も見てきた目だった。
ディルヴァンは前へ出ることを躊躇しない。けれど、剣を持った時まで何も考えず突っ込むような人間ではない。
「……分かりました」
ヴェルシアナが小さく返すと、ディルヴァンの口元が僅かに上がった。
それだけで十分だったらしい。
次の瞬間には床を蹴っている。
真正面へは行かない。
石獣の左前脚を外側から回り込むように走り、巨体の頭がそれを追って向きを変えたところで、一度だけ歩幅を狭めた。
誘われるように前脚が上がり、爪が落ちる。その寸前、ディルヴァンは腰を沈め、爪先が床へ触れるより僅かに早く外側へ滑った。
その回避はそこで終わらず、落ちた前脚の横から懐へ入る踏み込みへ自然に繋がり、次の瞬間には短剣が肩と胴を繋ぐ青白い継ぎ目を正確に捉えていた。
甲高い音が一度響き、青白い線が弾ける。
短い刃では石材そのものを深く断ち切れなくても、魔力の通る細い境目には届く。
ディルヴァンは手応えを確かめるために止まらなかった。刃が入った瞬間にはすでに重心を後ろへ移し、石獣が反応を返すより先に間合いを外している。
切られた左前脚が僅かに沈んだ。
「効いて――」
オルティアが言いかける。
「待ってください」
ヴェルシアナは床を見た。
断たれたはずの青白い線へ、周囲から細い光が集まっている。
傷口へ水を注ぎ込むように床から魔力がせり上がり、欠けた部分をなぞると、石の継ぎ目がゆっくりと元の形へ戻っていった。
「……戻ってるね」
ディルヴァンもすぐに気づいた。
数秒とかからず、沈んでいた前脚が再び持ち上がる。
「再生、でしょうか」
「そう見えますが……」
ヴェルシアナは言い切らなかった。
石獣が再び踏み込んでくる。
今度は前脚だけではない。
首を横へ振る動きに合わせて頭部の青白い線が強く輝き、目に見えない圧力が広間を横切った。
「伏せて!」
三人が身体を沈める。
頭上を通過した衝撃は、そのまま背後の柱へ叩きつけられた。太い石柱の表面が大きく削れ、舞い上がった石粉が白い霧のように広がる。
「……あれは受けたくないな」
「同感です」
ディルヴァンは立ち上がる流れをそのまま前進へ変え、今度は右前脚へ回った。
最初と同じように継ぎ目を狙い、刃を入れる。
「ディルヴァン様、離れて!」
ヴェルシアナの声が届いた瞬間、彼は理由を聞かなかった。
短剣を抜きながら身体を引き、その直後、切断した場所から逆向きに青白い魔力が噴き出した。あと一瞬留まっていれば、短剣を握る手まで巻き込まれていたかもしれない。
「今の、切ったところから?」
「いいえ」
ヴェルシアナは膝を僅かに曲げ、床を這う魔力の筋を追った。
また流れ込んでいる。
ただし、先ほどとは違う。
一度目は左側の床からだった。今度は右側の柱を上り、途中から床へ潜って傷へ繋がっている。
ヴィクトルが施設の流れを外した時と同じだ。
経路を壊されたから戻しているのではない。
別の経路から必要なものを送り直している。
「傷が治っているのではありません」
ヴェルシアナが言うと、二人の視線が集まった。
「外から、流れ込んでいます。この獣自身が再生しているのではなく、広間から補われているんです」
「広間から?」
「はい。失った部分を、施設の方が作り直しているように見えます」
そう考えれば、一つの傷へ執着しないことにも説明がつく。切られた経路が使えなくなれば、別の経路を探せばいい。
この石獣だけを一体の敵だと思うこと自体が間違っているのかもしれない。
広間全体が一つの身体で、目の前にいる巨大な獣は、そこから伸びた牙のようなものなのだ。
「だったら、床の流れを全部止めれば――」
ディルヴァンの言葉に、ヴェルシアナはすぐ首を振った。
「数が多すぎます。それに、一つ止めても別へ切り替わります」
石獣が前脚を持ち上げる。
「また来ます!」
今度は、床へ爪を叩きつけただけでは終わらなかった。
打ち込まれた場所から青白い光が放射状へ走り、その筋に沿うように石床が盛り上がる。
「床です!」
三人が飛んだ。
次の瞬間、細長い石槍が何本もせり上がる。
ディルヴァンは一本目を避けた勢いを殺さず、二本目の側面へ足をつくと、そこを蹴って身体の向きを変え、三本目が伸び切る前に間を抜けていった。
一方、オルティアの正面にも二本が伸びる。
「左へ!」
ヴェルシアナは彼女自身を押さず、足元へ流れる空気の向きを左へ寄せた。
オルティアがその変化を感じ取って踏み込み、石槍の先端が裾を掠める。
「ありがとうございます」
「まだ――」
続く一本へ魔力を伸ばしかけたところで、銀紫色の光が視界の端に灯った。
オルティアの手。
そこに、先ほど扉の前で消えたはずの《織環の針》が現れている。
本人も一瞬だけ驚いたように指先へ目を落とした。
「オルティア様?」
「私も、まだ分かりません」
そう答えた彼女の視線は、すぐに針から離れた。
石槍ではない。
その下、床を走る青白い流れへ向いている。
「……これ、先ほどまでとは少し違って見えます」
「違う?」
「線が重なっているのは同じです。でも、表へ出ているものと、その下を通っているものが分かるんです。どこで潜って、どこからもう一度表へ戻るのかまで……前より、ずっとはっきりしています」
ヴェルシアナの呼吸が一瞬止まる。
紙片を見た時、オルティアは誰にも読めなかった線を、刺繍の表と裏として読み解いた。
あれは《織環》を得る前だ。
彼女自身が長く続けてきた刺繍の経験だけで、魔術師たちとは違う構造を見つけていた。
そして今、その見方を《織環》がさらに奥まで押し広げている。
「再生へ向かう流れも分かりますか?」
「……見てみます」
オルティアが答えた直後、石獣の胸が低く震えた。
声というより、内部を通る魔力が石の空洞を鳴らした音だった。
「ゆっくり考えさせてはくれないみたいだね」
ディルヴァンが二人の前へ出る。
「俺が引きつける。二人は見てて」
「無茶はなさらないでください」
「しないよ」
返事をした時には、もう石獣の右へ走り出していた。
巨大な爪が床を叩く。
ディルヴァンは外側へ抜ける。
続いて石の節でできた尾が横薙ぎに迫ると、今度は身体を沈めて片手を床へつき、そのまま転がって速度を殺すのではなく、腕を支点に重心を返して次の一歩へ繋げた。
石獣が首を振り向けた頃には、すでに逆側へいる。
ヴェルシアナはその動きに目を引かれたものの、すぐオルティアへ意識を戻した。
「どこから入っています?」
オルティアは《織環の針》を胸元へ近づけた。
左肩の紋が淡く光る。
「……多いです」
その声に、初めて苦しさが混じった。
「全部を追わなくて構いません」
「分かっています。それでも……三本、いえ四本。今は五本あります」
「そのうち一本だけで大丈夫です。触れられそうですか?」
オルティアは床の一点を見つめた。
「やってみます」
針先が小さく動く。
大きく振りかぶる必要などなかった。
刺繍で布の目を拾う時のように、床を走る青白い一本へ銀紫色の先端を差し込む。
光が裂けた。
その瞬間、石獣の右肩へ向かっていた流れが途切れる。
「止まった!」
ディルヴァンが戦いながら声を上げた。
先ほど彼が傷つけた場所で、閉じかけていた石の継ぎ目が途中の形のまま止まっている。
「できました……!」
オルティアの表情が明るくなる。
けれど、その喜びが形になるより早く、ヴェルシアナは別の光を見つけた。
「待ってください」
左側の柱が光る。
切られた経路を避けるように青白い魔力が床下へ潜り、まったく違う場所から石獣へ繋がった。
止まっていた傷がまた閉じ始める。
「別の道へ移りました」
オルティアの表情が引き締まる。
「では、こちらも」
二本目を切る。
また再生が止まる。
だが、今度は壁から別の光が立ち上がった。
そこを断てば床の奥から、さらにその先を断てば今度は別の柱から流れ込んでくる。
一本の糸を切るたび、巨大な布の裏側で見えない手が別の糸を選び直し、縫い目を続けているようだった。
「これでは終わりません」
オルティアの左肩の紋が先ほどより強く輝く。
「オルティア様、もう止めてください」
「ですが、あと少しなら――」
「今の方法では、こちらより施設の方が早いです」
ヴェルシアナが手首を取る。
触れた肌は、想像していたよりもずっと熱かった。
「……熱くなっていますよね」
「少しだけです」
「これは少しとは言いません」
オルティアは言い返さず、唇を噛んだ。
力を得たばかりなのだから、使い方など分からなくて当然だ。それでも、自分にも前で役割を持てると分かった瞬間、手放したくなくなったのだろう。
今まで二人に守られる場面が多かった彼女なら、なおさら。
ただ、ここで無理を重ねれば、その役割自体を失う。
「切るだけでは駄目です」
ヴェルシアナは石獣へ視線を戻した。
ディルヴァンが一人で引きつけている。
短剣では致命傷を与えられない。それでも関節や継ぎ目へ浅い傷を残し、石獣が大きく振り向くたびに位置を変えながら、こちらへ攻撃が向かないよう動き続けていた。
切れば、施設が別の道を選ぶ。
そこをまた切れば、さらに別の経路が開く。
その繰り返しを追っているうちに、ヴェルシアナの中で別の光景が重なった。
地下で荒れた巨大な魔力を前にしたヴィクトルは、正面から押し返さなかった。
壁を作って止めるのでもなく、流れを分け、別の道へ送り直した。
『流れを利用することと、流れへ任せることは別です』
あの言葉の意味が、今の状況へ繋がっていく。
「……切るのではなく」
「ヴェルシアナ様?」
「オルティア様。切るから、施設は切られたところを避けて別の道を探すんです」
オルティアの目が床へ向く。
「では、切らずに……?」
「行き先を変えます。入口を塞ぐのではなく、流れそのものを別の場所へ送るんです」
「そんなことができますか?」
「長くは無理です」
ヴェルシアナは自分の指先を見る。
「でも、流れているものへ触れて、少しだけ向きを変えることならできます。ただし、私だけではすぐ元の道へ戻ります」
オルティアがゆっくりと顔を上げた。
「そこを、私が留めればいい」
「……できそうですか?」
即答はなかった。
《織環》を得てから、まだろくに時間も経っていない。そんな使い方を試したことなど、一度もない。
オルティアは手の中の銀紫色の針を見た。
その向こうで、石獣の前脚が床を叩きつける。
飛び散った石片の一つがディルヴァンの頬を掠め、細い赤い線を残した。
「ディルヴァン様!」
「大丈夫。続けて」
振り返らずに返す。
オルティアはその背中をしばらく見たあと、一度だけ目を閉じた。
再び開いた目から迷いがすべて消えたわけではない。それでも、足は下がらなかった。
「やります」
「無理だと思ったら、すぐ離してください」
「それは先ほど聞きました」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
「今は、どうすればよいかを教えてください」
ヴェルシアナの口元も僅かに緩んだ。
「分かりました」
そして前を向く。
「ディルヴァン様!」
「聞こえてる!」
「大きめの傷を一つ作れますか。再生の流れをはっきり出したいんです」
「場所は?」
「どこでも構いません。ただし、深く」
「分かった」
返事をした直後、ディルヴァンの動きが変わった。
それまでは引きつけることを優先し、浅い傷だけを残していたのが、今度は石獣の正面へ向かって踏み込んでいく。
巨大な前脚が上がった。
逃げるなら外側へ抜けるのが自然だ。
けれどディルヴァンはそうしなかった。
爪が落ちる寸前、その内側へ身体を滑り込ませ、回避で沈めた重心をそのまま踏み込みへ繋ぐ。低い姿勢から立ち上がる力を短剣へ乗せ、肩口の継ぎ目へ深く刃を入れると、石の接合部を横へ大きく裂いた。
青白い光が一気に溢れる。
「今です!」
傷を補おうとして、周囲の魔力が動いた。
床から二本。
柱から一本。
その中でも右後方から来る流れが最も太い。
「右の柱から来るものを見てください!」
「見えています!」
ヴェルシアナはそこへ魔力を伸ばした。
真正面から押さない。
強い流れへ力で逆らえば、こちらの方が先に弾かれる。
川の中へ板を斜めに差し込むように、走っている魔力の端だけへ触れ、その行き先をほんの僅か横へ向ける。
風とはまるで違う重さが、指先から腕へ伝わってくる。
長い年月、同じ場所を通り続けた水が川底を深く削るように、この施設の魔力にも本来の道へ戻ろうとする強い癖がある。それでも正面から押し返さず、流れの勢いを残したまま横へ逃がせば、ほんの僅かな時間だけなら道を外せる。
「今!」
オルティアの針が動く。
銀紫色の光が、ずれた流路と隣を走る細い線の間へ渡った。
布なら見落としてしまいそうな一針だった。
だが、その一針が通った途端、元の道へ戻ろうとしていた青白い魔力が止まり、そのまま隣の経路へ静かに流れ始める。
ヴェルシアナの目が見開かれた。
自分一人なら、もう戻されている。
無理に押さえれば消耗し、少しでも力を抜けば元の場所へ引かれるはずだった。それなのに今は、止められているのではなく、別の道を当然のものとして選び直している。
堰で水を止めたのではない。
途中から新しい水路を掘り、川そのものの行き先を変えてしまったようだった。
「……すご」
声は、考えるより先に漏れた。
オルティアはこちらを見る余裕もないまま、針先を支えている。
「その感想は、後でお願いします」
「ええ。今は次ですね」
ヴェルシアナもすぐ床へ視線を戻した。
ゲームで知っていた《織環の針》は、古い仕掛けや閉ざされた場所を進むために使われる重要な道具だった。
少なくとも、画面の外から見ていた自分にはそう映っていた。
けれど、目の前で起きていることは、そんな説明だけでは到底足りない。
オルティアは古代施設そのものが使っている魔力経路へ手を入れ、ヴェルシアナが一瞬だけ外した流れを受け取って、その先を別の場所へ繋ぎ直した。
ゲームの中で見えていた用途より、ずっと広い。
ただ、道具そのものが違うとは限らない。
むしろ違うのは、それを扱う側なのかもしれなかった。
自分の目で構造を読み、刺繍として理解したオルティアだからこそ、同じ針から別の縫い方を見つけている。
同じ道具を手にしても、何を縫えるかまで同じとは限らないのだ。
「次、左下から来ます!」
「見えています」
ヴェルシアナが二本目の流れへ触れる。
端だけを外し、ほんの少し別の方向へ誘う。
そこへオルティアの針が入り、銀紫色の光で隣の経路へ縫い留めた。
続けて三本目が動いた時には、施設側の切り替えの方が早かった。
「下からです!」
「少し遠いです……!」
オルティアが針を向ける間にも、石獣の傷が閉じ始める。
「ディルヴァン様、もう一度お願いします!」
「分かった!」
ディルヴァンが石獣の横へ踏み込み、再び刃を入れる。
だが、今度は浅い。
巨体が激しく首を振った。
避け切る前に肩口へ重い衝撃が入り、ディルヴァンの身体が横へ飛ばされた。
「ディルヴァン様!」
石床を滑り、肩から一度転がる。そのまま膝をついて勢いを止めると、すぐ顔を上げた。
「動ける。続けて」
立ち上がったものの、左腕を一度だけ振った。
痺れている。
無傷ではない。
その様子を確認する間もなく、石獣の胸が今まで以上に強く輝いた。
「床が来ます!」
先ほどの石槍だ。
ただし、今度は光が広間の一部ではなく、足元から一気に周囲へ広がっていく。
「オルティア様、こちらへ」
ヴェルシアナが彼女の手を取る。
直後、床から何本もの石槍がせり上がった。
最初の一本を身体を捻って避け、二本目は伸びる直前の魔力へ触れて方向を僅かに外す。
三本目がオルティアの前へ出た時、横から短剣の柄が叩きつけられた。
まだ形を作り切っていなかった石槍の先端が逸れる。
「今、抜けるよ!」
ディルヴァンの声で三人が走った。
だが、床を走る青白い筋はさらに増え、逃げ道そのものを狭めていく。
前にも、右にも、左にも次々と石槍が立ち上がる位置が決まり、ほんの数秒後には完全に囲まれる。
「ヴェルシアナ!」
「見えています!」
正面に二本。
その根元へ魔力を伸ばす。
完成した石を曲げる力はない。けれど、まだ魔力が形を作ろうとしている段階なら、流れる向きを僅かに外せる。
二本の石槍は予定されていた位置より少し外側へ伸び、狭かった間に人一人が通れるだけの隙間が生まれた。
「そこから!」
ディルヴァンが先に抜けた。
そのまま走り去らず、反対側で振り向いて手を伸ばす。
「オルティア、こっち」
「はい!」
オルティアが隙間を抜ける。
続いてヴェルシアナが滑り込んだ直後、背後で二本の石槍がぶつかり合い、砕けた破片が辺りへ飛び散った。
ようやく安全な位置まで離れたところで、三人はほとんど同時に足を止めた。
冷たかった地下の空気が、荒くなった呼吸のせいで熱を帯びているように感じられる。
ここへ来て初めて、はっきりと押されていた。
ディルヴァンが一人で前を保てても、短剣では決定打にならない。ヴェルシアナが流れを読めても、それをいつまでも外し続けることはできず、オルティアが《織環》を得たからといって、初めて扱う力で無数の経路すべてを縫えるわけでもない。
誰か一人が強ければ解決する相手ではなかった。
むしろ、それぞれができないことばかりを突きつけてくる。
「全部を縫うのは無理です」
オルティアが左肩へ手を当てた。
紋は先ほどより濃く光っている。
「今、同時にどれくらいなら追えますか?」
「三本までなら、まだはっきり分かります。四本目からは重なって見えて、どれを留めているのか自信がありません」
「三本で十分です」
「ですが、あの獣へ入っているのは五本以上あります」
「全部を止める必要はありません」
ヴェルシアナは石獣の胸を見る。
傷へ集まる魔力、その奥で脈打つ核、そして、その前まで走れる人間が一人いる。
「一度だけ止まればいいんです」
ディルヴァンがこちらを見た。
「どれくらい?」
ヴェルシアナはオルティアへ視線を移す。
オルティアも意味を悟り、《織環の針》を握り直した。
「三本だけなら……三秒ほどは持たせられると思います。それ以上は、今の私には分かりません」
「三秒」
ディルヴァンは一度だけ石獣を見た。
不安を隠すような仕草ではない。
距離と、踏み込む角度と、そこまでに邪魔になるものを見ている。
「それなら足りる」
短い言葉だったが、無理に強がったようには聞こえなかった。彼の中では、すでに三秒でどこまで行けるかが決まっているのだろう。
オルティアが僅かに眉を上げる。
「足りるのなら、使い切る前に終わらせてください」
「もちろん」
ヴェルシアナも息を整えた。
「狙うのは胸です。表面ではなく、その奥に全部の流れが集まる場所があります」
「見えてる。でも、外側が厚いね」
「一度割ってください。その瞬間、修復しようとして流れが集中するはずです」
「そこで二人が止める?」
「はい」
ディルヴァンが頷いた。
「分かった」
ヴェルシアナは次にオルティアを見る。
「私が三本を外します。オルティア様は、それを別の経路へ留めてください」
「やります」
「四本目が来た場合は?」
少しの沈黙。
オルティアは床へ視線を落とし、《織環の針》を指先で僅かに持ち直した。
「その時に、見て決めます。今から四本目まで考えて三本目を落とす方が危険です」
ヴェルシアナは一瞬だけ彼女を見る。
分からないものを前にして、それでも自分が見るべき場所を選んでいる。
「……分かりました。お願いします」
「はい」
三人の間に、それ以上の確認は必要なかった。
ヴェルシアナが流れを外す。
オルティアが、その道を縫い留める。
ディルヴァンが、開いたわずかな時間を走り切る。
誰か一人でも失敗すれば終わる。だからこそ、自分の役割以外へ手を伸ばす余裕はない。
「行きます」
石獣の胸が鳴った。
同時に、ディルヴァンが走る。
真正面からだった。
巨体の注意を完全に自分へ集めるためだと、今度は説明されなくても分かる。
巨大な前脚が高く持ち上がる。その爪が床へ落ちれば、まともに受けて無事では済まない。
それでもディルヴァンは速度を落とさず、むしろ一歩を深くした。
爪が迫る。
その外側へ逃げれば安全だった。
彼は内側へ入った。
腰を沈めて攻撃を躱す動きと、懐へ潜り込むための踏み込みが一つに重なり、そのまま肩口へ短剣を叩き込む。
最初の試し斬りより深い。
青白い継ぎ目が大きく裂けた。
施設がすぐさま反応する。
傷へ向かって、三本の流れが一斉に強くなった。
「右から!」
ヴェルシアナは右の柱を走る流れへ魔力を触れさせ、その勢いを殺さないまま行き先だけを僅かに横へずらした。
「留めます」
銀紫色の針が、その先へ一筋の光を通す。
一本目が別の経路へ移る。
「次は下です!」
二本目。
床下を走る魔力へ触れ、ほんの少しだけ角度を変える。
オルティアは迷わずそこへ針を入れ、元へ戻ろうとする流れを別の道へ縫い付けた。
「後ろ、来ます!」
三本目は太かった。
触れた瞬間、ヴェルシアナの腕だけでなく肩まで引かれたような重さが走る。
押してはいけない。
真正面から争えば負ける。
必要なのは流れを止めることではなく、勢いを残したまま行き先だけを迷わせることだった。
ヴェルシアナが魔力を流れの端へ滑らせると、青白い筋が本来の経路から僅かに外れる。
「オルティア様!」
「見えています!」
銀紫色の針が走った。
三本目が隣の流れへ接続され、石獣の胸を満たしていた光が目に見えて弱まる。
「ここから三秒です!」
オルティアの声が広間へ響いた。
その瞬間、ディルヴァンはすでに石獣の正面へ走り込んでいる。
けれど、施設もただ待ってはいなかった。
三本の経路を奪われた直後、別の柱が青白く明滅する。
想定より早い。
「もう別の道が……!」
オルティアの顔が強張った。
新しい魔力が床を走り、開いたばかりの傷へ向かっていく。ここで再生が始まれば、ディルヴァンが届く頃には外殻が閉じる。
「ヴェルシアナ!」
呼ばれて顔を上げる。
ディルヴァンは止まっていない。
戻るつもりもない。
なら、こちらも止めるわけにはいかない。
ヴェルシアナは新たな流れへ魔力を伸ばした。
先ほどまでの三本より太く、しかも遠い。まともに抑えれば、こちらの魔力ごと引き込まれる。
だから、走ろうとする流れの外側だけへ触れ、ほんの僅かに横へ導いた。
青白い光が揺れる。
一度は外れたものの、すぐに元の道へ戻ろうとする力が指先を引いた。
ヴェルシアナは息を詰め、さらに一度だけ深く触れる。
今度は先ほどより大きく逸れた。
ほんの一瞬。
それでも、オルティアは見逃さなかった。
「ヴェルシアナ様、そのまま!」
「三本で限界では?」
「四本目を増やしません」
オルティアの針は、新しい場所へ向かなかった。
すでに縫い留めた三本目の経路へ向けられている。
銀紫色の光が、そこへ重なった。
「一本ずつ別の場所へ縫う必要はありません。同じ場所へ通せるのなら――」
針先が僅かに沈む。
「重ねられます」
新たな魔力が大きく揺れた。
新しい行き先を作るのではなく、すでに縫った三本目の経路へそのまま重ねていく。
刺繍なら、同じ穴へ一本しか糸を通せないわけではない。布を傷めないよう厚みを読み、必要な場所だけへ糸を重ねて模様を作る。
オルティアが何年も積み重ねてきた感覚が、《織環》の使い方へそのまま流れ込んでいた。
「入った……!」
二つの流れが同じ道へ合流する。
銀紫色の光が激しく震え、オルティアの左肩の紋も強く輝いた。
熱に耐えるように眉が寄る。
「オルティア様」
「まだ大丈夫です。ほどけていません」
針を離さない。
その姿を見た瞬間、ヴェルシアナははっきり理解した。
《織環》そのものが凄いだけではない。
オルティアが扱っているから、ここまでできる。
目の前にある構造を刺繍として読み、自分が積み重ねてきた技術から、その場で新しい縫い方を見つけている。
「ディルヴァン様!」
ヴェルシアナが声を上げる。
「道は開いています!」
返事はなかった。
必要がなかった。
彼は、もうそこまで来ていた。
石獣が残った力で前脚を振り上げる。胸へ走り込むディルヴァンの進路を潰すための一撃であり、まともに避けるなら進路を変えるしかない。
進路を変えれば、速度が落ちる。
速度を落とせば、オルティアが縫い留めた三秒が消える。
だからディルヴァンは、落ちてくる爪へ向かってさらに一歩踏み込んだ。
爪の内側へ肩を沈める。
石の先端が頬のすぐ横を通り抜けた。
回避のために捻った肩は、その動きが終わるより先に短剣を振るための位置へ収まり、沈めた腰もすでに次の踏み込みへ移っている。踏み込んだ足は斬撃のために止まらず、刃を振り抜くために生まれた身体の捻りさえ、その先へ身体を運ぶ力へ変わっていった。
その一連を目で追いながら、ヴェルシアナはようやく分かった。
ディルヴァンが恐ろしいのは、ただ速いからではない。
人は普通、一つの動作から次の動作へ移る時、どれだけ僅かでも間を挟む。
避けてから踏み込み、踏み込んでから斬り、斬り終えてから次の姿勢へ移る。
けれど彼には、その境目がほとんど存在しない。
回避は終わる前から踏み込みへ変わり、踏み込みは斬撃の最中に次の位置へ身体を運んでいる。いくつもの動作を繋いでいるのではなく、最初から最後まで一本の線として身体の中へ通しているようだった。
まだ子供だ。
身体は成長の途中で、握っているものさえ普段の長剣ではなく、調査のために持ち込んだ短剣にすぎない。
それでも、開いた道を走り切るという一点だけなら、その技量はもう、年齢という言葉では説明しきれなかった。
短剣が胸の外殻へ入る。
最初の一撃では浅い。
石獣が身体を捻り、ディルヴァンを振り落とそうとする。
普通なら、一度離れて態勢を整えるところだろう。
ディルヴァンは退かない。
刺した短剣を一瞬だけ支点にし、石獣が自ら身体を振った勢いを利用して胸元へ身体を引き寄せると、割れかけた石の継ぎ目へ片足を掛けた。
踏み込む。
最初の一撃が作った亀裂へ、二撃目の刃が寸分違わず重なった。
硬い音とともに外殻が割れ、その奥から青白い光が溢れる。
胸の中心。
いくつもの流れが集まり、脈打っている核。
「そこです!」
ヴェルシアナが叫んだ時には、ディルヴァンの手首はもう返っていた。
けれど、その瞬間に分かった。
短い。
刃先の軌道は正しい。
踏み込みも足りている。
それでも、調査用の短剣ではあと僅かに届かない。
半歩もいらない。
ほんの少し、刃が最後まで走り切るための何かがあればいい。
ヴェルシアナは考えるより先に魔力を伸ばしていた。
ディルヴァンの身体を押すのではない。
強引に速度を上げれば、あれほど精密に組み上げられた動きを自分の風が壊してしまう。
だから、彼がすでに作っている流れへ沿わせる。
踏み込んだ足から腰へ、腰から肩へ、肩から腕へと伝わり、最後に短剣の切っ先へ集まっていく力。その動きを追い越すのではなく、すぐ後ろへ薄い風を滑り込ませた。
刃の進む先から空気が退く。
同時に背後から流れ込んだ風が、彼の一撃をほんの僅かだけ先へ送った。
ディルヴァンの目が細くなる。
振り返らない。
何が起きたのかを確かめもしない。
ただ、自分の刃へ加わった一筋の風を当然のように受け取り、その分だけ軌道をさらに深く修正した。
ヴェルシアナが作った風の道を、ディルヴァンの剣が走る。
短剣が胸の奥で脈打つ核へ届き、そのまま中心へ突き立った。
青白い光が大きく膨らむ。
広間を満たしていた無数の線が、一斉に明滅した。
オルティアが縫い留めている銀紫色の光まで激しく震える。
ディルヴァンがさらに一歩、踏み込んだ。
ヴェルシアナも風を離さない。
ほんの僅かな距離を、二人で押し切る。
核の中央へ入った細い亀裂は、すぐに枝を伸ばすように広がり、内部を満たしていた青白い光を次々と割っていった。
「離れてください!」
ヴェルシアナが叫ぶ。
ディルヴァンは短剣を抜く動きのまま石獣の胸を蹴り、後方へ身体を投げた。
しかし、崩れ始めた巨体の前脚が最後の力で横へ薙がれる。
空中では避けられない。
ヴェルシアナは、先ほどまで刃へ沿わせていた風の向きをそのまま切り替えた。
吹き飛ばすほどの力はいらない。
ディルヴァンが落ちていく軌道を、爪の外側へほんの少しだけずらせばいい。
風が身体を撫で、石の爪が衣服の端を裂く。
けれど、その奥の身体には届かなかった。
ディルヴァンは床へ落ち、肩から一度転がると片膝をついて止まった。
その向こうで、オルティアがようやく針を下ろす。
銀紫色の糸が震えながらほどけ、行き先を変えられていた古代の魔力が、石獣を避けて別の経路へ流れていった。
三人が作り出したものは、たった数秒だった。
ヴェルシアナが流れを外し、オルティアがその道を縫い留め、ディルヴァンが開かれた時間を最後まで走り切った。
そして最後に足りなかった僅かな距離へ、ヴェルシアナの風が追いついた。
石獣の胸から光が消える。
四肢を繋いでいた青白い線も、遠くから夜の灯りを一つずつ消していくように順番に暗くなり、最後までこちらへ向けられていた両眼から輝きが失われると、巨大な身体は支えをなくしたように石床へ崩れ落ちた。
轟音が広間を揺らした。
太い柱の間を低い反響が何度も往復し、やがて遠くへ消えていく。
その音が完全に収まるまで、三人は誰も勝ったとは口にしなかった。
ヴェルシアナはまず床へ目を向けた。
石獣へ集まっていた魔力は消えたのではなく、行き先を失ったまま、オルティアの縫い直した経路を通って別の場所へ静かに流れている。
再び石獣へ戻る様子はない。
「……今度こそ、終わった?」
片膝をついたままディルヴァンが聞く。
「おそらく。ですから、まだ動かないでください」
「もうあれは動いてないよ」
「石獣ではなく、ディルヴァン様です」
一拍遅れて、彼が自分の身体を見る。
「ああ、そっち」
ヴェルシアナは周囲の魔力に急な変化がないことを確かめてから、ようやく彼のところへ駆け寄った。
「怪我を見せてください」
「頬は擦っただけ」
「左腕は?」
ディルヴァンが僅かに目を逸らした。
「……そこまで見てた?」
「見ています。先ほど一度振っていたでしょう」
「少し痺れてる。でも、指は動く」
言いながら手を開閉する。
短剣も問題なく握れている。
骨に異常があるかまでは分からないものの、すぐ命へ関わるような状態ではなさそうだった。
そこでようやくヴェルシアナは息を吐き、今度はオルティアを振り返った。
「オルティア様」
返事がない。
白銀の扉の近くで立ったまま、左肩を右手で押さえている。
「オルティア様?」
「……少しだけ、待ってください」
その声に、ヴェルシアナはすぐ立ち上がった。
近づく頃には《織環の針》は消えている。
「熱いのですか?」
「かなり」
「見せてください」
肩口の紋は消えていなかった。
ただ、先ほどより色が濃く、銀紫色だった線の一部が熱を持った金属のようにゆっくり明滅している。
「使いすぎましたね」
「おそらく……そうだと思います」
「痛みは?」
「我慢できる程度です」
「我慢できるかではなく、痛いかどうかを聞いています」
オルティアは少しだけ視線を外したあと、諦めたように答えた。
「……痛いです」
「最初からそう仰ってください」
「はい」
その後ろからディルヴァンが歩いてきた。
左腕を庇うほどではないが、いつもより僅かに肩が低い。
「でも、最後のは助かった」
オルティアが顔を上げる。
「最後?」
「四本目。あれが戻ってたら、たぶん間に合わなかった」
「……同じ場所へ通しただけです」
「その場でそれを思いついたんでしょう?」
大げさに褒める言い方ではなかった。
自分が斬れたのは、そこに道が残っていたからだと、ただ事実を口にしている。
だからこそ、オルティアは少し言葉に詰まった。
「それでも、やったこと自体は単純です」
「単純でも、俺にはできないよ」
ヴェルシアナも頷く。
「私にもできません。あの流れは、何度外しても私だけではすぐに戻されていました」
床へ視線を落とす。
そこにはまだ、銀紫色の細い光が残っている。
自分一人が作った道ではない。
自分が一瞬だけ示した行き先を、オルティアが消えない形へ変えたものだ。
「オルティア様がいなければ、あの三秒は作れませんでした」
「俺も、斬ったところで直され続けて終わりだったと思う」
オルティアは二人の顔を交互に見た。
守られて生き残っただけの戦いではない。
自分がいなければ成立しなかったものが、今、目の前で倒れている。
その事実を自分から言葉にすることはなかった。ただ、左肩を押さえていた右手から、少しだけ力が抜けた。
「……でしたら」
オルティアは倒れた石獣へ視線を向けた。
「次は、もう少し綺麗に縫えるようにしておきます」
「もう次のことを考えてるんだ」
「次がないとは限りませんから」
「それはそうだけど」
オルティアはそこで一度だけ《織環》の痕へ触れ、それからヴェルシアナへ目を戻した。
「少なくとも、次は最初から切ろうとはしません」
「ええ。それだけでも随分違うと思います」
「その前に、先生へ確認してください」
「もちろんです」
返事をすると、オルティアはようやく僅かに笑った。
その笑みが、張り詰めていた広間へ柔らかく落ちる。
勝利を喜ぶというより、ようやく三人とも同じ場所で息をつけたことへの安堵に近かった。
それでも、長く休んでいるわけにはいかない。
ヴィクトルたちとは、まだ分断されたままだ。
「先生方と合流する方法を探しましょう。ただし、その前に無理はなしです。ディルヴァン様は左腕を使いすぎないでください。オルティア様も、しばらく《織環》は出さない方がいいです」
「ヴェルシアナは?」
「私は――」
「かなり魔力を使ってたでしょう」
ディルヴァンに先を取られ、ヴェルシアナは言葉を止めた。
「多少です」
「四本目の時、顔色変わってたよ」
「……よく見ていますね」
「そっちも俺の腕を見てたでしょう」
オルティアが二人を見比べる。
「では、三人とも無理をしない。それでよろしいのでは?」
ヴェルシアナは反論を探したものの、見つからなかった。
「……公平ですね」
「ええ。とても」
オルティアの返事には、ほんの少しだけ満足そうな響きがあった。
ヴェルシアナは呼吸を整え、それから改めて広間の中央へ視線を向けた。
倒れた石獣の向こう側。
先ほどまで巨体に隠れていた場所に、円形の台座がある。
その表面を無数の青白い線が走っていた。
床や柱だけではない。
広間の外へ、さらにその先へ向かって、いくつもの線が石の盤面に刻まれた地形へ伸びている。
「……あれ、地図じゃない?」
ディルヴァンも気づいたらしい。
三人は慎重に近づいた。
オルティアは《織環》を出さない。
ヴェルシアナも手を触れない。
少し離れた場所から見るだけでも、その精密さは十分に分かった。
以前の施設で見たものより、はるかに細かい。
川らしき線や山地の起伏、古い街道に見える筋が刻まれ、その下を縫うように無数の魔力経路が走っている。
まるで国土そのものを一枚の布に見立て、その裏側へ巨大な糸を通したようだった。
ヴェルシアナの視線が、その中の一本で止まる。
他より太い。
幾つもの細い流れを途中で集めながら、ほぼ一直線に一つの方向へ伸びていた。
見覚えのある方角だった。
「……王都」
声が自然と低くなる。
ディルヴァンが隣へ寄る。
「前に見たものと同じ?」
「おそらく。ただ、こちらの方がずっと詳しいです」
ヴェルシアナは触れないまま、その線を目だけで追っていった。
王都へ入る。
けれど、そこで終わらない。
幾つもの流れを束ねながら、さらに中心へ向かっている。
盤面中央に刻まれた大きな区画へ近づいたところで、ヴェルシアナの指が空中で止まった。
この国の地図を一度でもきちんと見たことがある人間なら、その場所を間違えるはずがない。
オルティアも同じことに気づいたらしく、盤面へ向けていた視線を僅かに細めた。
「……まさか」
王都へ向かっていた古代の流れは、街の地下で終わっていなかった。
複数の経路を束ねた太い一本が、そのまま中心部へ潜り込み、大きな区画の真下へ伸びている。
王城。
その地下へ。
先ほどまで残っていた戦いの余熱とは別の静けさが、三人の間へ落ちた。
ヴェルシアナは盤面を見つめる。
以前見つけた地下施設と、北で起きていた異常。閉ざされた古い経路に、ミレーヌが記録の中から拾い上げた、およそ九十一年前まで続いていた不自然な支出。
ゲームでは、別々の出来事として記憶していたものばかりだ。
けれど現実では、その間に一本の線が通り始めている。
誰が作ったのかは分からない。
今の王家がどこまで知っているのかも分からない。
九十一年前に何が行われ、その後どうして記録から姿を消したのかも、まだ推測するには材料が足りない。
ただ、王都へ続く古代の流れが実在し、その先が王城の地下へ伸びていることだけは、もう見間違いでは済まなかった。
「……お城の下まで、続いているように見えます」
オルティアが静かに言った。
「ええ。私にもそう見えます」
答えながらも、ヴェルシアナは盤面の中心から目を離せなかった。
王城と聞いて思い浮かぶ人間は、一人ではない。
国王も、王妃もいる。
けれど、それでも最初に浮かんだ顔はアレクシスだった。
この世界へ来たばかりの頃なら、それだけで身構えていただろう。
ゲームの攻略対象であり、将来は王位を継ぐ王太子。近づき方を間違えれば、自分の知らないところで何かが原作の形へ戻っていくかもしれない相手なのだから、余計な関わりを増やさない方が安全だと考えるのは当然だった。
けれど、実際のアレクシスは画面の中にあった肩書きだけの存在ではなかった。
話せば、自分の立場について考えていることがあり、これから進む道についても、綺麗な言葉だけで済ませずに話せる。ヴェルシアナもまた、そういう話をする時には、相手が攻略対象だということを忘れそうになるほど自然に言葉を返していた。
何か特別な約束をしたわけではない。
それでも、互いに自分のことを少しずつ話し、相手の考えを聞けるくらいには、すでに近いところまで来ている。
恋愛という話になれば、今でも困る。
攻略対象であることを抜きにしても、王太子との婚姻など考えただけで胃が重くなるし、そもそも自分から男性との恋仲へ進みたいとは思っていない。
けれど、それと友人であることは別だ。
アレクシスと話すこと自体を嫌だと思ったことはない。むしろ、自分の進む道について話し、向こうが考えていることを聞く時間は、王太子という立場さえ一度横へ置けるのなら、かなり話しやすい相手だとさえ思っている。
だから今さら、友人になれるかどうかを考える必要はないのかもしれない。
もう、とっくにそうなっている。
ただ、その友人がこの国の王太子であるというだけで、普通の男友達と同じようにはいかない。
そして、おそらく厄介なのはそこなのだ。
ヴェルシアナは盤面を見つめたまま、ほんの少しだけ息を吐いた。
恋仲にならないよう気をつけることと、友人として彼を大切にすることは、たぶん両立できる。
少なくとも、今まではそうしてきた。
ならば、王城の地下に何かがあるからといって、アレクシスそのものから距離を取る理由にはならない。
むしろ。
これが王城に関わることなら、いつか彼とも話すことになるのだろう。
王太子として聞かなければならない話になるのか。
それとも、互いの進む道について話した時のように、アレクシス自身の言葉を聞くことになるのか。
まだ分からない。
盤面の上では、そんなこちらの事情など知るはずもなく、古い青白い線が王都の中心へ向かって淡く光り続けている。
これまで二人が、それぞれの立場を抱えたまま少しずつ話してきた道の、そのさらに先へ。
今度は古代の流れが、王城の地下から続きを差し出していた。




