第71話 迷宮
最初に動いたのは、床ではなく壁だった。
円形の部屋を囲んでいた石壁の一部が鈍い音を立てながら内側へ沈み、それと連動するように別の壁が横へ滑って、先ほどまで開いていた通路の入口を少しずつ狭めていく。
「全員、その場から動くな!」
ヴィクトルの声が響いた。
石同士が擦れる重い音の中でも、その命令だけは明瞭に届く。
ヴェルシアナは反射的に足を止めたまま、周囲の空気へ意識を広げた。
床下を走る魔力の流れは、先ほどまでとはまるで違っている。一定方向へ伸びていたものが途中で分岐し、複数の経路へ散ったかと思えば、別の場所で再び合流している。
まるで、目の前で水路の仕切りを何度も組み替えられているようだった。
「ヴェルシアナ様」
オルティアがすぐ隣にいる。
「大丈夫です。動かないでください」
「はい」
そう答えながらも、オルティアの視線は足元の青白く光る溝から離れていなかった。
ディルヴァンは二人より半歩前へ出た位置で、動く壁と通路を見比べている。
「ヴィクトル先生!」
「そのまま止まっていろ」
「でも壁が――」
「見えている」
返答と同時に、ヴィクトルの杖が動いた。
杖先から伸びた魔力は、せり出してくる壁へ正面からぶつかることなく、その周囲を走る流れへ薄く入り込んでいく。
押し返すつもりではない。
壁を動かしている魔力だけを切り離し、別方向へ逃がそうとしているのだと、ヴェルシアナには分かった。
しかし、右側の壁が僅かに速度を落とした直後、今度は左奥の床が沈み始める。
「止まりません!」
研究魔術師の一人が声を上げた。
「先生の術が効いていないのですか?」
ヴェルシアナが思わず尋ねる。
「違う」
ヴィクトルは壁を見たまま答えた。
「一つの流れを外せば、施設側が別の経路へ切り替えている」
その間にも、別の壁が動いた。
ディルヴァンが眉を寄せる。
「一箇所を止めればいいんじゃないのか」
「施設全体が連動しています」
少し離れた場所から、ルシアンの声が聞こえた。
彼は護衛騎士の近くに立ち、床の模様と壁の動きを見ている。
「兄上、右側も動いています!」
ディルヴァンが振り返る。
「ルシアン、そこから動くな!」
「分かっています!」
兄弟が声を交わした直後、その間を横切るように石壁がせり上がった。
「――ルシアン!」
ディルヴァンの身体が反射的に前へ出かける。
「止まれ!」
ヴィクトルの声が飛んだ。
ディルヴァンはぎりぎりで足を止める。
目の前では厚い石壁が上がり続け、向こう側にいたルシアンの姿が徐々に隠れていった。
「兄上、大丈夫です!」
壁の向こうから声だけが届く。
「こちらには父上たちもいます!」
ディルヴァンは歯を食いしばったまま、それ以上は動かなかった。
ヴェルシアナは、その横顔を見る。
駆け寄りたいに決まっている。
それでも止まれたのは、ヴィクトルの命令を聞いたからというだけではないだろう。今ここで無理に飛び込めば、別の壁へ挟まれるか、動いている床へ巻き込まれ、かえって状況を悪くする。
ディルヴァン自身も、それを理解している。
「ディルヴァン様」
「分かってる」
低い声だった。
「ルシアンは向こうにいる。護衛もいるし、父上もいる」
自分へ確認するように言ったあと、彼は視線をこちら側へ戻す。
「今は、こっちを見た方がいい」
「はい」
ヴェルシアナも頷いた。
◇
「レオルディス公爵!」
研究魔術師が叫ぶ。
「中央の流路が分断されます!」
「こちら側に何人いる」
レオルディスの声が、移動する壁の向こうから返ってくる。
「ヴェルシアナ様、ディルヴァン様、オルティア様、それと護衛が二名――」
報告が終わるより先に、足元が大きく震えた。
護衛騎士の一人がすぐに三人の前へ出る。
「お下がりください!」
しかし、その騎士と三人の間へ床から細い石柱がせり上がり、進路を遮った。
もう一人の騎士もこちらへ来ようとしたが、今度は床そのものが横へずれ、立っていた場所との間に細長い溝が生まれる。
落とし穴ではない。
床板ごと別方向へ動いている。
「動くな!」
ヴィクトルがもう一度叫んだ。
声はまだ聞こえる。
ただし、姿はもう見えない。
壁が増え、円形だった部屋の形は完全に崩れていた。通路が新しく生まれ、別の場所では石壁がせり出し、床の高さまで変化している。
そして、そのたびに風も変わった。
「先生!」
「聞こえている」
「こちら側に、奥へ抜ける空気の流れがあります」
「強さは」
ヴェルシアナは目を閉じ、周囲にある風だけを拾う。
こちらから押さない。
流れを作ろうともしない。
いま存在しているものがどこへ向かい、どこから戻ってくるのかだけを見る。
「かなり安定しています。急に引き込まれている感じではなく、道が開いたことで自然に奥へ抜けているようです」
「なら追うな」
ヴィクトルの返答は早かった。
「戻る道を探せ」
「はい」
「無理に突破しようとするな。施設の構造が動いている最中に壁を壊せば、別の場所まで崩れる可能性があります」
声の位置が少し遠くなる。
ヴィクトルたちも向こう側で別の変化に対応しているらしい。
「こちらから経路を探します。そちらは三人で固まっていなさい」
三人。
その言葉で、ヴェルシアナは初めて現在の人数をはっきり認識した。
自分と、ディルヴァンと、オルティア。
護衛二名は、既に別の壁の向こうへ分断されている。
「先生」
ヴェルシアナが声を張る。
「護衛の方々とは離れました」
一瞬だけ間があった。
「怪我は」
「ございません」
「ディルヴァン」
「ない!」
「グランセル嬢」
「私も大丈夫です!」
ヴィクトルの返事はすぐに来た。
「その場で待機しなさい。構造が止まってから動くこと」
ディルヴァンが顔を上げる。
「先生、もしこっち側が崩れたら?」
「その時は自分で判断しろ」
「了解」
ヴィクトルはそれ以上何も言わなかった。
ヴェルシアナには、その沈黙が妙に重く感じられた。
放置されたわけではない。
助けることを諦められたわけでもない。
外側から大人たちが道を探す間、自分たち自身でも危険を見て判断し、生き残るだけの力はあると見なされている。
ありがたい。
同時に、かなり重い信頼でもある。
「……先生も随分なことを仰いますね」
ヴェルシアナが小さく言う。
ディルヴァンが隣で笑った。
「でも、俺はこっちの方がいい」
「何がです?」
「何があっても絶対動くなって言われるより、自分で見て決めていい方が」
「それは、まあ……そうかもしれませんけれど」
ヴェルシアナが返した直後、床がもう一度震えた。
三人とも同時に会話を止める。
まだ終わっていない。
◇
オルティアは、動き続ける床から目を離していなかった。
恐ろしくないわけではない。
足元が自分の意思とは無関係に形を変え、先ほどまであった壁が沈み、代わりに別の場所から石が現れる。そんな状況で平然としていられるほど、彼女も鈍くはなかった。
それでも、見なければ分からない。
紙の模様を見つけた時と同じように、今も何かしらの規則があるように思えた。
「オルティア様?」
ヴェルシアナが気づく。
「何か分かります?」
「まだ完全には……」
胸元には、先ほどまで確認していた紙の写しを抱えている。
けれど、いま彼女が見ているのは紙ではなく実物の床だった。
「さっきから、同じところを何度も魔力が通っています」
「同じところを?」
「はい」
オルティアは床の一本を目で追った。
「こちらへ来たあと中央へ入り、別の線から戻っています。ただ、戻るたびに少しずつ位置が違います」
ヴェルシアナも流れを見る。
確かに。
一度目に使っていた線と、今光っている線は隣り合っている。
「形を変えるたび、通す場所そのものを変えている?」
「そう見えます」
オルティアは頷く。
「刺繍なら、同じ模様を作る時でも、途中で布の張り方が変われば糸の通し方を調整することがあります。でもこれは、それ以上に大きく変えていますわ」
ディルヴァンが床を見ながら尋ねる。
「じゃあ、全部閉じようとしてるわけじゃない?」
「少なくとも、閉じるだけが目的には見えません」
「どうして?」
「閉じたいだけなら、もっと簡単ですもの」
オルティアはそう答えてから、少し言葉を選んだ。
「刺繍をほどけないようにしたいだけなら、最後に糸を留めれば済みます。それなのに、これは何度も通す場所を変えていますから、何か別の形へ作り直しているように見えます」
その説明は、ヴェルシアナにも理解できた。
「つまり、施設は閉鎖しようとしているのではなく、経路そのものを組み直している?」
「私は、そう思います」
「何のために?」
ディルヴァンが尋ねる。
「そこまでは分かりませんわ」
オルティアは素直に答えた。
ヴェルシアナは周囲へ意識を広げる。
確かに自分たちのいる空間は狭くなっている。
けれど完全に閉じられているわけではない。
奥へ向かう通路だけは、一本残されていた。
そして、その奥から風が来ている。
「……誘導されているのでしょうか」
口にした途端、あまり気持ちの良い想像ではないと自分でも思った。
「それは嫌だな」
ディルヴァンも同じらしい。
「行かない方がいい?」
「先生は戻る道を探せと仰いました」
ヴェルシアナは奥の通路を見る。
「少なくとも構造が動いている間に、わざわざ進む必要はありません」
「じゃあ待つ?」
「ええ。止まってから判断しましょう」
そう答えた直後、床の振動が弱まった。
三人とも動かない。
石が擦れる音も次第に遠ざかり、やがて完全に消えた。
「止まった?」
ディルヴァンが小さく言う。
「おそらく」
ヴェルシアナは空気の流れを確認する。
先ほどまで数秒ごとに方向を変えていた風も、いまは奥から一定方向へ静かに流れている。
「先生!」
声を張った。
「こちらは止まりました!」
返事はない。
もう一度呼ぶ。
「先生!」
それでも聞こえなかった。
壁が厚すぎるのか、それとも区画そのものが別の位置へ動いたのか。
ディルヴァンが壁へ耳を寄せる。
「何も聞こえない」
「叩かないでくださいね」
「まだ何もしてない」
「念のためです」
「本当に信用ないなあ」
口調は軽いものの、彼も冗談だけを言っているわけではない。
オルティアが紙を開く。
「元の入口は、こちらでしたわね」
三人が振り返る。
そこには、もう壁しかなかった。
先ほどまでヴィクトルたちがいた方向は完全な石壁へ変わっており、継ぎ目こそあるが扉らしい場所は見えない。
「……これは」
ヴェルシアナは壁へ近づきすぎない範囲で風を探る。
向こう側から流れ込む空気は感じない。
「先生たちのいる側が塞がれたというより、私たちのいる区画そのものが別の位置へ繋ぎ直された可能性があります」
「部屋ごと?」
ディルヴァンが眉を寄せる。
「そんなことができますの?」
オルティアが尋ねる。
「さっき床も壁もかなり動いていました。通路を閉じただけでないなら、別の経路へ接続された可能性はあると思います」
ディルヴァンも奥を見る。
「で、残ってるのはあっちだけ」
「はい」
「分かりやすく嫌だな」
「同感です」
それでも、ここに立ち続けるだけでは戻れない。
「まず周囲を確認しましょう」
ヴェルシアナが言った。
「遠くまで行かず、この場所から確認できる範囲だけです」
「了解」
「分かりましたわ」
三人は離れすぎないように周囲を見る。
壁、床、天井。
崩落しかけている場所はない。
強い熱気もなければ、焦げたような臭いや血のような匂いも感じない。魔力についても、奥から細い流れが続いているだけで、身体へ圧力を感じるほど強い反応はなかった。
少なくとも、今この瞬間に逃げなければならないような危険は見当たらない。
「奥から来る風は安定しています」
「じゃあ、行ける?」
ディルヴァンが尋ねる。
「通ることはできそうです。ただ、通れることと進むべきことは別でしょう?」
「そうだな」
ディルヴァンは少し考え、奥を見る。
「でも、元の道がなくなったなら、何か探さないと戻れない」
「ええ」
ヴェルシアナもそこは同意した。
ヴィクトルが言ったのは、奥へ進むな、ではない。
戻る道を探せ。
今いる場所で何も見つからない以上、慎重に別の経路を確認すること自体は、その指示から外れてはいない。
「オルティア様」
「はい?」
「大丈夫ですか」
問いかけると、オルティアは少しだけ奥を見た。
「怖くないと言えば嘘になります」
その答えには無理がない。
それでも紙を持つ手は震えていなかった。
「ですが、私にも見えるものがあります。でしたら、何もせずお二人の後ろへ隠れているだけではなく、見えるものはきちんと見たいですわ」
ヴェルシアナは一瞬だけ何かを言いかけて、やめた。
危険だから守る。
それだけでは駄目なのだろう。
オルティア自身が、自分にできることがあると言っている。
「分かりました」
ヴェルシアナは頷く。
「では、三人で戻る道を探しましょう」
「うん」
ディルヴァンが腰の短剣の位置を確認する。
「でも前は俺が行く」
「それは構いません。ただし、勝手に走らないでくださいね」
「走らない」
「本当に?」
「……たぶん」
「ディルヴァン様」
「分かったって」
オルティアが小さく笑った。
それだけで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
◇
奥の通路は、先ほどまで歩いていた区画とは造りが違っていた。
壁の石材はさらに古く、青白い流路も多い。ただし、その大半は途中で切れており、現在も光っているものはごく一部しかない。
オルティアは歩きながら、ときどき足を止めて線の重なりを確かめる。
ヴェルシアナは空気と魔力の流れを見る。
ディルヴァンは前方だけでなく、床や壁の傷まで視線を動かしていた。
三人とも見ているものが違う。
だからこそ、一人で全部を確認しようとする必要がなかった。
「止まって」
ディルヴァンが右手を上げた。
ヴェルシアナとオルティアも即座に足を止める。
「何かあります?」
「あそこ」
通路の少し先。
床の一部に、ほんの僅かな段差があった。
「踏まない方がいい」
「罠ですか?」
「分かんない。でも、この石だけ擦れ方が違う」
ヴェルシアナもその場所を見る。
魔力を流さず、周囲にある空気だけを拾うと、石の縁からごく細い風が下へ抜けていた。
「隙間があります。下に空間がありそうですね」
オルティアも壁面の流路を確認する。
「線も、その場所だけ避けておりますわ」
「じゃあ踏まない」
ディルヴァンは左側へ身体を寄せ、段差を避けて進む。
三人が通り過ぎても何も起こらなかった。
「正解だった?」
「何も起きなかったことを正解と呼ぶのは難しいですけれど、少なくとも踏まなくて困ることはありませんでしたね」
「じゃあ正解でいいじゃん」
「随分と前向きですね」
短いやり取りを交わしながら、三人はさらに奥へ進んだ。
そして通路の終わりで、一枚の扉を見つける。
これまで見てきた石扉とは違った。
金属にも石にも見えない白銀色の素材で作られ、表面には細い溝が幾重にも刻まれている。
その模様を見た瞬間、オルティアの足が止まった。
「……紙と似ていますわ」
ヴェルシアナも写しを見る。
完全に同じではない。
けれど、何本もの線が上下へ潜り、別の線と重なりながら中央で一つの輪を作る構造は、あの紙片とよく似ていた。
「これが元なのでしょうか」
「分かりません」
オルティアは扉へ近づかず、少し離れた場所から模様だけを追う。
ディルヴァンも隣から覗き込んだ。
「開ける?」
「触らないでください」
「聞いただけ」
「念のためです」
「やっぱり信用ないな」
少しだけ、いつもの調子が戻る。
ヴェルシアナは扉の向こうから流れてくる空気へ意識を向けた。
細い流れではあるが、今までよりもはっきりしている。完全に密閉された壁ではなく、向こうには一定の広さを持った空間が存在しているらしい。
「扉の先に、空間はあります」
「大きい?」
「そこまでは分かりません。ただ、空気は動いています」
オルティアはまだ扉の模様を見ていた。
紙と扉。
何度も視線を行き来させるうちに、やがて表情が変わる。
「これ……途中までしか出来ていません」
「途中まで?」
ヴェルシアナが近づく。
オルティアが中央の輪を示した。
「ここです。最後に戻ってくるはずの一本がありません」
「壊れている?」
「いいえ。周囲の線には削れた跡がありませんから、なくなったというより、最初から空けてあるように見えます」
そこまで言った時だった。
扉の中央にある空白へ、ごく淡い光が灯った。
三人とも動きを止める。
光は細く、まるで一本の銀糸が空中へ浮かんだようだった。
それがゆっくりと伸びていく。
扉から。
三人の方へ。
いや。
正確には。
オルティアへ向かって。
「オルティア様、下がってください」
ヴェルシアナがすぐに声をかける。
オルティアが一歩下がる。
光も、わずかに方向を変えた。
ディルヴァンの目つきが変わる。
「追ってる」
「そのようですね」
ヴェルシアナはオルティアの前へ出ようとした。
だが、その瞬間。
「待ってくださいませ」
オルティアが言った。
「何かあります?」
「この光……」
彼女は自分へ伸びている銀色の線を見つめる。
「さっきの床とは違います」
「どう違うのです?」
「追いかけているのではなく……」
オルティアは言葉を探した。
そして。
扉の模様を見る。
中央に残された空白。
そこへ続くはずだった最後の一本。
「これ」
静かに息を吸う。
「私を通そうとしているのではありませんか」
ヴェルシアナは一瞬、意味が分からなかった。
けれど、オルティアは自分の指先と光を見比べながら続ける。
「最後の糸が足りないのです」
銀色の光は、まだオルティアへ触れていない。
手前で静かに浮かび、まるで返事を待つように揺れている。
「オルティア様」
ヴェルシアナの声が少し低くなる。
「触らないでくださいね」
「分かっております」
オルティアも頷いた。
ディルヴァンは二人の横で、扉と通路の両方を見ている。
まだ何も起きていない。
だからこそ。
三人とも、動かなかった。
遠く離れた場所では、大人たちがこちらへ続く道を探しているはずだ。
それでも、彼らが辿り着くより先に。
長い間、最後の一本だけを欠いたまま残されていた古い模様が。
今。
オルティアの前で、初めて続きを求めていた。




