『生き残るために始めたこと』(1章から始める方向け・総集編)
気になった方は、ぜひ0章も読んでみてくださいませ。
ただ、0章はかなりゆったりと進む内容となっており、物語のテンポも牛歩寄りです。
山場の盛り上がりについても、1章以降と比べるとかなり控えめになっています。
そのため、
「ファンタジー世界での生活をじっくり読みたい」
「ヴェルシアナが令嬢として動き、活躍していくところを早く見たい」
「物語の盛り上がりを早めに楽しみたい」
という方は、1章から先に読んでいただくのがおすすめです。
一方で、0章にはヴェルシアナが今の考え方に至るまでの過程や、家族・使用人たちとの関係、そして悪役令嬢ヴェルシアナという人物がどう形作られていったのか、その土台となる部分が描かれています。
そのため、0章を読んでいただくことで、1章以降のヴェルシアナの言葉や選択、人との距離感にも、より深みを感じていただけるのではないかと思います。
気になる方は0章から。
テンポよく本編を楽しみたい方は1章から。
お好きな読み方で楽しんでいただけましたら嬉しいです!
始まりは、ひどく単純だった。
死にたくない。
ただ、それだけだった。
雨に濡れた路面と、目を焼くようなヘッドライト。耳の奥へ突き刺さったタイヤの悲鳴と、身体を横から打ち抜いた衝撃を最後に、次に目を覚ました時、俺は五歳の少女になっていた。
銀色の髪に、紅紫の瞳。
鏡の中にいたのは、事故に遭う前までの俺とは似ても似つかない、恐ろしいほど整った顔立ちの少女だった。
けれど、その顔を俺は知っていた。
ヴェルシアナ・アルセリード。
乙女ゲーム『リュミエールの天秤』に登場する公爵令嬢であり、容姿にも家柄にも魔力にも恵まれながら、高慢さと嫉妬心によって周囲との関係を壊し、やがて物語の主人公へ牙を剥く悪役令嬢。
その先に待っているのは、没落や追放、幽閉。そして場合によっては、処刑だった。
自分が女になったことについて考えるのは、ひとまず後回しにした。
男として二十年以上生きてきた人間が、朝起きたら五歳の公爵令嬢になっているのだから、本来なら人生最大の問題として何日悩んでもおかしくなかったと思う。けれど、処刑されれば性別について悩む時間すらなくなるのだから、物事には優先順位というものがある。
幸いだったのは、まだ五歳だったことだ。
原作の物語が本格的に始まるまで、およそ十年。それだけ時間があるのなら、未来なんていくらでも変えられると思った。
原作の主人公を虐めず、婚約者へ異常な執着をせず、使用人へ横暴に振る舞わない。身分を理由に人を見下さず、攻略対象には必要以上に近づかず、危険な出来事には首を突っ込まない。
礼儀も魔法もきちんと学び、感情に任せて敵を作らない。できることなら、そもそも原作と同じ場所へ立たなければいい。
完璧な計画だと思っていた。
少なくとも、五歳の俺は本気でそう思っていた。
けれど、この世界で最初に知ったのは、未来だけを見ていればいいわけではないということだった。
目を覚ました朝、俺のそばには一人の少女がいた。
ミレーヌ・エルヴァート。
当時七歳だった彼女は、父親を亡くした後、家の事情からアルセリード家へ預けられ、俺付きの侍女見習いとして働いていた。
まだ水差しさえ身体には少し大きく見えるような年齢だったのに、彼女は教えられた作法を一つずつ間違えないよう確かめながら、懸命に俺の世話をしていた。
そして、俺を怖がっていた。
声をかければ肩を強張らせ、少し語気が強くなるだけでも、その小さな身体へ緊張が走る。ゲームの中では短い設定文でしかなかった「幼い頃から我儘だったヴェルシアナ」という人物像が、そこで初めて現実の重さを持った。
五歳の子供が怒るだけなら、どこにでもある話なのかもしれない。
けれど、公爵令嬢の不機嫌は普通の五歳児のそれとは同じ重さを持たない。何気なく口にした「嫌い」が人一人の立場を変えるかもしれないし、泣き喚けば周囲の大人が望みを叶えてしまうことだってある。
だから、看病してくれたことへ礼を言った。
『ありがとう、ミレーヌ』
俺にとっては、ごく普通の言葉だった。
けれどミレーヌは、信じられないものを聞いたように目を見開き、深く頭を下げた。その時の声が少し震えていたことを、今でも覚えている。
たった一言の礼で、七歳の少女があれほど驚いた。
その事実だけで、何かを変えなければならないと理解するには十分だった。
それから俺は、礼法や読み書き、この国の歴史、それに魔法まで、学べることはできるだけ学ぶことにした。
最初は全部、生き残るためだった。
知らないということが怖かったのだ。
ゲームで知っているアルヴェネア王国と、実際に存在するこの国は、当然ながら同じものではない。画面の外にも人は生きていて、貴族には貴族の事情があり、一つの家にも歴史があり、使用人にだってそれぞれの生活がある。
ゲームなら名前さえ表示されなかった人間にも、家族がいて、好きなものや嫌いなものがあり、その人自身の人生がある。
そんな当たり前のことを、俺は少しずつ知っていった。
その中には、原作で重要な役割を持つ人間もいた。
たとえば、アレクシス。
いずれ王太子となり、原作ではヴェルシアナの未来を大きく左右する存在だ。
ゲームを知っている俺からすれば、できるだけ余計な影響を与えたくない相手だった。少なくとも最初は、近づきすぎず、嫌われもせず、将来の破滅に繋がらない距離を保てればそれでいいと思っていた。
けれど、実際に会ってしまえば、それだけでは済まない。
王子という立場の向こう側に、考えて、迷って、笑う一人の人間がいる。
それを知ってしまえば、「攻略対象だから」という理由だけで相手を一枚の札のように扱うことは、少しずつ難しくなっていった。
もちろん、何もかも順調だったわけではない。
むしろ最初の頃は、自分が正しい方向へ進んでいるのかすら分からなかった。
礼法を学び直し、できていないことを指摘されれば直そうとしていた俺へ、それとはまったく逆の言葉を与える人もいた。
『お嬢様は、何も間違えてなどおられませんから』
甘い言葉だった。
叱られるよりずっと心地よく、自分は悪くない、自分は正しい、間違っているのは周囲の方なのだと認めてもらえる。
けれど、その言葉を受け入れ続けた先にいる人物を、俺は知っていた。
原作のヴェルシアナだ。
だからこそ、ナディアという女性の存在は無視できなかった。
彼女とのことをすべて思い返そうとは思わない。
今ここで言葉にするには、少し複雑すぎる。
ただ、一つだけ確かなのは、過去のヴェルシアナがあの性格になっていった理由は、俺が最初に思っていたほど単純ではなかったということだ。
生まれつき性格が悪かったから。
甘やかされていたから。
我儘だったから。
それだけで片づければ、たぶん見落としてしまうものがあった。
誰かの言葉が少しずつ価値観を作り、誰かの態度が「それでいいのだ」と教え、それが幼い子供の中へ積み重なっていく。
もちろん、それで原作のヴェルシアナがしたことのすべてが許されるわけではない。
けれど、理由があることと、責任がなくなることは別の話だ。
俺が知ったのは、悪役令嬢というものも、ある朝突然出来上がるわけではないということだった。
ナディアとの一件は、優しい言葉が必ずしも人を正しい場所へ連れていくとは限らないことも教えてくれた。
毒というものは、苦いとは限らないのだ。むしろ甘く、口当たりがよく、自分からもう一口欲しくなるものほど、気づかないうちに深いところまで回っていることがある。
そして反対に、耳へ痛い言葉をくれる人間が、自分を傷つけようとしているとも限らない。
誰を信じ、何を正しいと思うのか。
その判断まで誰かへ預けてはいけない。
たぶん俺が本当の意味で「原作通りにしない」と決めたのは、転生した朝ではなく、そういうことを一つずつ知った後だった。
その途中で、ヴィクトルから魔法を学ぶようにもなった。
あの人には、魔力量が多いだけでは何の自慢にもならないと、これでもかというほど思い知らされた。
俺は確かに、ヴェルシアナという身体が持っていた膨大な魔力を受け継いでいる。けれど、持っていることと使えることはまったく別だった。
大量の水を持っているからといって、それを必要な場所へ必要なだけ注げるとは限らない。むしろ量が多いからこそ、少し間違えただけでも周囲を巻き込んでしまう。
ヴィクトルはそこを一切甘やかしてくれなかった。
公爵令嬢だから、まだ子供だから、あるいは魔力量が多いからといって評価を上乗せすることはなく、できていなければ、できていないとそのまま言われた。
当時の俺にとっては、その方がありがたかった。
褒められるために魔法を学んでいたわけではないし、生き残るために必要だから学んでいたのだから、曖昧に持ち上げられるより余程いい。
……もっとも、今思えば、あの人の基準を「一般的な魔術師の基準」だと思っていたことについては少々言いたいこともある。
あれを普通だと思って育ったら、大抵の人間は自信をなくすのではないだろうか。
本人へ言えば、おそらく表情一つ変えず何かしら理屈を返されるので、わざわざ言うつもりはないけれど。
魔法だけではなく、公爵令嬢という立場そのものについても、俺は少しずつ現実を知っていった。
その中でも、領地の村を実際に訪れた経験は大きかったと思う。
紙の上で見る領地と、そこに暮らしている人々の顔を見ることはまるで違う。
帳簿には数字として並んでいる税や支出も、村へ行けば家の修繕になり、道になり、作物になり、誰かの暮らしへ繋がっていた。
逆に、帳簿の数字が少し狂えば、その向こう側で困る人間がいる。
数字は数字のまま終わらない。
それを知った。
村の人々から向けられる視線も、俺には新鮮だった。
ヴェルシアナ・アルセリードという名前は、俺一人だけのものではない。
俺が何かを言えば、それが公爵家の意思だと受け取られることがある。俺が何かを約束すれば、子供の思いつきでは済まないこともある。
相手から見れば、俺は五歳や六歳の少女である前に、アルセリード公爵家の令嬢なのだ。
自分が望むかどうかとは関係なく、その立場には重さがある。
それを村で初めて、頭ではなく実感として理解した。
帳簿を見ることも増えた。
最初は単純に、何がどこへ使われているのか知りたかっただけだった。
けれど数字を追っていけば、その領地がどこに困っているのか、何を優先してきたのか、誰かが何を守ろうとしてきたのかまで少しずつ見えてくる。
一冊の帳簿は、文字だけを見れば地味なものだ。
それでも、そこには人の暮らしが折り畳まれている。
そう思うようになってから、俺は数字の向こう側を見ることを意識するようになった。
それは人についても同じだった。
この身体で過ごす時間が増えるほど、俺はたくさんの人と関わった。
屋敷で働く使用人たち。
家族。
友人と呼べるようになった人たち。
そして、俺が転生する以前のヴェルシアナに、決して良い感情を持っていなかった人たちとも。
過去に何があったのか、俺にはすべてを知ることはできない。
この身体で目を覚ました時、それ以前の五年間の記憶を持っていたわけではないからだ。
だから、俺が知らないところで傷つけられた人もいたのだと思う。
それでも、その過去を「自分は知らないから」と切り離すことはしたくなかった。
俺がやったことではない。
そう言えば、それはたぶん事実なのだろう。
けれど、相手から見れば、目の前にいるのは同じ顔をしたヴェルシアナ・アルセリードだ。
そこにできた傷まで、転生したから消えるわけではない。
だから、一つずつ関わった。
謝るべきことがあるなら謝り、話せるなら話し、今の自分を見てもらう。
すぐに許してもらえるなどとは思わなかったし、全員に好かれる必要もない。
ただ、過去をなかったことにして前へ進むのだけは違うと思った。
そんなふうに過ごしていくうちに、屋敷の空気も少しずつ変わっていった。
最初は俺の一挙手一投足を警戒していた使用人が、何気ない会話を返してくれるようになる。
こちらから尋ねなければ何も言わなかった人が、必要なことなら自分から意見を伝えてくれるようになる。
そういう小さな変化は、派手ではない。
けれど、俺にとっては大きかった。
その中でも、ミレーヌはずっとそばにいた。
最初は俺が声をかけるだけでも緊張していた少女が、いつしか俺の見落としたものを拾うようになった。
俺が前だけを見ていれば、その横を見る。一つの答えへ寄りすぎれば、別の可能性を持ってくる。こちらの言葉へ何でも頷くのではなく、自分で考えて、自分の言葉を返してくれる。
だからこそ、彼女から言われた言葉を、俺は今でも覚えている。
『わたしは、お嬢様に助けていただいたから、お傍にいるのではありません』
『お嬢様だから、お傍にいたいんです』
あの時は、随分と困った。
俺としては、彼女がここにいる理由をもっと現実的に考えていたからだ。恩があるから、アルセリード家に預けられているから、俺付きになる予定だから。そういう理由なら理解できた。
けれど、彼女は違うと言った。
『尊敬しています』
真正面からそんなことを言われる人生になるとは、前世では考えたこともなかった。
しかも、言っている相手は俺が何を考えているかをかなり知っている人間だ。
俺は立派な聖人ではない。今でも危険なことは避けたいし、面倒事にはできるだけ巻き込まれたくない。何かをするときには損得を考えるし、自分が生き残るためなら使える情報は使う。
それでもミレーヌは、そういう俺を見た上で言ったのだ。
だから、あの言葉はたぶん、俺が思っていた以上に嬉しかった。
家族とのことも、似たようなものだった。
ゲームの中で見ていた「アルセリード公爵家」と、実際にその家で暮らすことはまるで違う。
お父様は感情を大きく表へ出す人ではなく、何を考えているのか分かりにくい時もある。けれど、見ていないわけではなかった。
必要な時には動き、俺が子供であることを忘れず、それでいて何も考えられない子供として扱うわけでもない。
一方で、お母様は愛情を隠すという発想そのものが、たぶんあまりない。
時々――いや、かなりの頻度でその勢いに負けそうになるものの、自分が愛されていることを疑わずに済むというのは、思っていた以上に大きなことだった。
転生した朝の俺にとって、二人は「悪役令嬢ヴェルシアナの両親」でしかなかった。
ゲームの設定に書かれた人物だったはずなのに、気づけばそれぞれの仕草や言葉を知り、いつの間にか俺の中でも、お父様とお母様になっていた。
変わったのは二人ではない。
たぶん、俺の見方の方だ。
最初の頃、俺が人をよく見ようとしていた理由は単純で、敵を作りたくなかったからだった。
相手が何を嫌がり、何を望んでいるのか。どんな言葉なら怒らせずに済み、どう動けば原作から危険な方向へ外れずに済むのか。
そういうものは全部、生存のための情報だった。
ゲームを攻略する時と根本的にはそれほど変わらない。情報を集め、危険な選択肢を避け、失敗条件を潰して、できるだけ安全な道を通る。
けれど、人間を見続けていると、生存計画には必要のないことまで覚えるようになる。
何を好み、何を苦手とし、どんなことが得意なのか。どういう時に笑って、どんな言葉を受け取ると少しだけ嬉しそうにして、どんな時に無理をするのか。
そういうものは、十年後の処刑を避けるために必要な情報ではない。
それでも、一度知ってしまうとなかなか頭から消えてくれなかった。
だから困っている人を見れば、何とかできないかと考えるようになったし、危険な目に遭いそうなら、放っておく方が気になるようになった。
何かを成功させた人がいれば一緒に嬉しくなることもあるし、誰かが傷つけば後味が悪い。
使用人と話し、村の人々を見る。
友人と時間を過ごし、過去のヴェルシアナを知る人と向き合う。
帳簿を開けば、その向こうに暮らしが見え、誰かの言葉を聞けば、その裏に積み重ねてきた時間がある。
そうやって世界を見るようになると、最初に立てた「破滅を避けるための計画」は、少しずつ形を変えていった。
それらを全部、破滅回避のためだと言い張ることもできる。
人間関係を良好にしておけば将来敵になりにくいし、公爵令嬢としての評判を改善しておけば、原作のように孤立する可能性も下がる。
領地のことを理解しておけば、将来困る可能性も減る。
理屈ならいくらでもつけられるし、俺はそういう理屈を考えるのが得意だった。
けれど、ミレーヌが笑っているのを見て安心することまで、本当に破滅回避なのだろうか。
ヴィクトルに少しだけ認められれば嬉しいと思うことも、お父様やお母様が自分のために動いてくれた時、胸の奥が温かくなることも。
村の人が安心した顔を見せてくれた時に、よかったと思うことも。
誰かとの関係が少しだけ良くなったことを、素直に嬉しいと思うことも。
それらは本当に、十年後に死なないための準備なのだろうか。
窓の外で、風が木々を揺らした。
陽を受けた葉が重なり、また離れて、そのたびに庭へ落ちる影の形がゆっくり変わっていく。俺はしばらくそれを眺めてから、手元の紅茶へ視線を戻した。
答えを出す必要はないのかもしれない。
少なくとも、すぐに答えなければ困る問題ではなかった。
俺は死にたくなかったから、変わろうとした。
礼儀を覚え、魔法を学び、人を見るようになった。帳簿を読み、領地を歩き、知らなかったことを知るたびに、自分の立場についても考えるようになった。
間違えたと思えば考え直し、分からなければ誰かへ尋ね、時には自分が知っているはずの原作そのものさえ疑った。
そうして歩いているうちに、いつの間にか一人ではなくなっていた。
それだけは確かだった。
もし、五歳の朝、鏡の中にいた銀髪の少女へ今の俺が会えるのなら、最初に伝えるべきなのは破滅を避ける方法ではないと思う。
王太子へ近づくなとも、攻略対象を警戒しろとも、原作の主人公を敵に回すなとも言わない。そんなことは、あの頃の俺でも十分すぎるほど考えていた。
代わりに、一つだけ教えてやりたい。
これから出会う人たちは、画面の中に置かれた登場人物ではない。
攻略対象や脇役、まして破滅を避けるために配置された安全装置などではなく、それぞれが笑い、怒り、間違えながら自分の人生を生きている。
こちらの予想を外し、計画を狂わせ、それでも時には手を差し伸べてくれる。
そしてきっと、俺自身もその人たちにとって同じなのだと。
五歳の俺は、そんなことを言われても困るだろう。
もっと具体的な情報を寄越せ、十年後に死ぬ可能性がある人間へ精神論を語るな、とでも思うかもしれない。
……うん。
やっぱり、そう思う。
そこだけは、たぶん変わっていない。
思わず小さく笑うと、紅茶の表面にできた僅かな揺れが、窓から入ってきた風とともにゆっくり広がっていった。その風は俺の銀色の髪を一房だけ持ち上げ、頬を撫でてから窓の外へ抜けていく。
生き残るために始めたことだった。
それは今も変わらない。
俺は死にたくないし、破滅するつもりもない。原作で待っている未来を、大人しく受け入れてやるつもりなど最初からなかった。
ただ、あの朝とは一つだけ違う。
守りたいものが、自分の未来だけではなくなっていた。
ここまで歩く間に出会った人たちがいる。
家族がいて、使用人がいて、友人と呼べる人たちがいる。最初は俺を警戒していた人もいれば、過去のヴェルシアナに傷つけられ、それでも今の俺と向き合ってくれた人もいる。
その人たちと交わした言葉があり、一緒に過ごした時間があり、時には迷い、思い通りにならないこともあったけれど、それでも最後に残ったものを、俺は失いたくないと思っている。
破滅を避けるために歩き始めた道の上には、気づけば俺一人では残せなかった足跡がいくつも並んでいた。
だったら、これまで選んできた道も全部が間違いだったわけではないのだろう。
五歳の朝、俺は未来を変えるために生き方を変えようと決めた。
けれど、こうして振り返ってみると、未来より先に変わっていたのは、きっと俺の方だった。
それが良いことなのかは、まだ分からない。
ただ、あの朝と同じ問いを今の自分へ投げかけるのなら、答えだけは迷う必要がなかった。
――生き残りたいか。
もちろん、生き残りたい。
そして今度は、できることなら一人ではなく、ここまで出会った人たちと一緒に、その先まで歩いていきたいと思っている。




