マスター就任
ここは、とある都内のオフィス街。
その裏通りの一角に半地下となった喫茶店があった。
喫茶杯空
戦後期に純喫茶として営業を始めて、何度かの修繕と一度の大規模改修(二階建てからビルに変わった)を経て令和の今に続いている。
今は時の試練を受けて、純喫茶からサラリーマンのおすすめ昼食店と変化した。
創業者は銀座で修行したという私の曾祖父ちゃんだ。今は私の爺ちゃんが社長でマスターと呼ばれいる。
雇われの店長さんが実質切り盛りしていて、爺ちゃんはそこから収入を得ている。
私は世界一美味い喫茶店を作るために、製菓の専門学校に通いながらアルバイトをしていた。
もっとも、料理は雇われの店長が作るほうが美味いので、私は接客だけだ。
「操詩、儂は引退する。代わりにマスターをやれ。お前なら出来る」
「ちょ、いきなり言われても。お父さんがやるんじゃなかったの?」
操詩はバイトをしていて、客が誰もいない時間にいきなりマスターに言われてドキドキする。
「あやつは、別の仕事をやっていて忙しかろう。マスターと言っても、ほとんど帳簿とか経理とか今もやってくれておろう。儂がやっているのはハンコを押すくらいじゃろ」
祖父ちゃんはそんな風に穏やかに笑う。
「そうは言っても・・・そんな急に。お店は祖父ちゃんのやりがいじゃなかったの?」
「……婆さんが死んで、友人もいなくなりそろそろ終活とかいうやつをやらんとなと思ったわけじゃ」
「そんな」
「まぁ儂がすぐ死ぬとかそういう話じゃないんじゃ。今の内に色々やっといた方が操詩に渡せると税理士先生と相談した結果じゃ」
「まぁ。そういうことなら……」
そういう話は前から何となく聞いていたので、全部は飲みこめないけどと理解はする。
「よし、言質はとったぞ。今日からお主は喫茶杯空のマスターじゃ」
「マスター……」
ちょっとカッコいい響きに期待感が湧いてくる。
「あ、それと店長は今年度末で辞めるから頑張ってくれ。さて、儂は税理士先生の所に行くかの」
「ちょ……」
カランと、入り口のベルを鳴らしてさっさと祖父ちゃんは出て行った。
「店長……やめるってホント?」
「ええ、操詩お嬢さん。実はここの所、売上が落ちていますよね。このままじゃ生活が……それで以前から有名店に勤めてる友人の誘いがありまして、マスターいえ元マスターですね。相談したところ<行っちまえ>と来年度からそちらに行くことになりました」
「確かに……その方がいいかも」
帳簿を見ているとここ数か月で急に売り上げが落ちているのはわかっていた。
「店が大変な時期にすみません」
「そんな気にしないで。今までありがとう」
「私が辞めるまではもうしばらくありますので、その間に操詩お嬢さん……マスターにレシピを仕込むようにと言われております」
何となく客足が鈍いのはわかっていた。
オフィス街のあちこちのサラリーマンが店に寄ることが減った。
以前は昼時は常時混雑していたが、最近は席が空く時が出てきた。
リモートワークとかでオフィスビルに来ている人が減っているらしいと、食事に来た人たちは言っていた。
ブラック残業と言えば世間的によくないが、最近はホワイト化で夜残業する人も減った。
そうなるとオフィスビルで働いている人たちは夜ご飯は家に帰って食べる。
だから、わざわざ会社近くで食べたりはしない。
一応、夜営業をやっているからお酒が飲めたりするが、物価高で値段を上げざるを得ず、安い居酒屋には敵わない。
「どうしよう……」
マスター就任早々、操詩は途方に暮れる事となった。




