おやすみなさい
翌日。フランベルク商会王都支店、応接室にて。
ジルトが婚約者の件を了承したことを告げると、ミュールはジルトの両手をとって、上下に振って喜んだ。ジルトはその膂力に慄き、そばにいたクライスに助けを求める。
本日、姿を現させるための脅し文句は特にない。クライスが自主的に姿を現してくれたからだ。
なんでも、ミュールに直接言いたいことがあるらしい。クライスは無言でジルトとミュールを引き離し、ミュールを見据えた。
「日取りは、二日後。それで宜しいですね?」
「ええ。意図を汲んでいただけたようで何よりです」
意味深な会話をする二人に、ジルトは困惑する。二日後? 二日後に、何があるんだ? なんだか、妙に嫌な予感がする。
「そういうことですので、すみません」
「!?」
ひゅっ、と飛んできた拳。それをジルトは飛び退って避ける。クライスは、ジルトを真っ黒な瞳で見てくる。
「二度目は喰らいませんか」
「あ、ああ当たり前じゃないですか!? お手軽に人を気絶させようとするのやめてくれません!?」
動揺で吃ってしまう。ジルトはクライスのことを油断なく見据えた。と、その時。
「はぁ〜、私のジルト様を傷付けようとしたんですか? これだから、ドブネズミの従者は」
低い声が聞こえたかと思えば、金属音。それは、クライスが出した小刀をミュールが蹴り飛ばした音である。
ミュールは紫炎色の瞳を、静かな怒りに染めていた。
「今ここで殺してもいいんですよぉ? ここは私の領域ですし、人一人死んだところでどうにかできますからね」
「あれがあの女の本性です」
クライスが替えの小刀を装備してジルトに言う。
ジルトは、どっちもやばいな、と思った。刀を蹴り飛ばすミュールもミュールだが、それをされて冷静に解説するクライスもまた、怪物と言えるだろう。
ーーうっわ、帰りてえ。
剣戟、否。剣戟と肉弾戦の応酬を見ながら、ジルトは遠い目をしていた。
帰って一切を忘れて寝たい。なんで俺はこんなところに来てしまったんだ。
というか、なんでクライスさんは俺を気絶させようとしたんだ? そう思った時、小さく、誰かの声が、聞こえた。
「四年前に、出会ったあの子の名前は?」
ーー誰、だっけ。
頭がぼうっとする。あれ、この現象、前にもあったような気が……。
「ジルト様っ!!」
ミュールの声が遠くから聞こえて、その後に、腹に重い一撃。ジルトの意識は落ちていく。
脳裏には、蜂蜜みたいな金色の髪をした女の子。
『やっと、笑ってくれた』
顔も思い出せないあの子に、ジルトはそう言った。そうして、なにか、大切な約束をした。
『ね、ジルト。聞かせて……あの子と、ーーと、どんなお話をしたの?』
母さんに、話してあげたいのに。あの子と仲良くなったこと、褒めて欲しいのに。なんでか名前が出てこないんだ。
それなのに、アイツのことだけははっきり覚えてる。血と炎の海を作り、俺に勝手な期待を押し付けた、生きてる資格もない奴。俺の生き方を変えたアイツのことだけは。
『お姫さまと、しあわせになって下さい。あなたにかけた呪いを解いてあげます』
あの子の声じゃない。違う人の声が聞こえた。
ナニガシに予知をさせたリルウは、赤い瞳を細めた。
ジルトのことを知る、主人を失った迷い犬。ミュールがもたらした波乱は、魔女の呪いをも解こうとしていた。
「先に動いたのは烏でしたか」
リルウの傍に立つナニガシは、声こそ平静だが、握った拳は震えていた。この英雄信者、わりとわかりやすい。
「一度ならず二度までも……」
リルウとしても同感だが、なんだか先に憤られると、こちらとしては憤りにくい。
「それにしても、ジルト様の動きが一瞬固まったように見えました。あれは一体」
「さあ? 何故かしら?」
訝しむナニガシに、リルウは惚けてやった。
ナニガシが視たものだ。リルウが直接見れるわけではない。だが、予想はつく。
ーー呪いへの抵触。
かつて孤児院への道中、トウェル王のことを口にしようとしたジルトが動きを止めたように、今回もそれが働いたのだろう。
問題は、誰が引き金を引いたかだ。
クライスとミュール。あの二人は戦いあっていた。とすれば、引き金を引いたのは第三者。その第三者は、ジルトにかけられた呪いを把握していて、かつ、クライスに味方をしようとしたことになる。やはり、
「そろそろ、潮時ね。貴方の欲しいもの、手に入るわよ」
呟けば、ナニガシが恭しく、リルウの足元に傅いた。
リルウは芝居がかった動きにうんざりしつつ、それを唱える。
「薔薇の魔女ローズの名において、汝に祝福があらんことを」
偽物だが、それがいいらしい。どうせ効力なんてないが、これでナニガシは彼を切ったことになる。
「貴方と私の利害は一致している。英雄という昏き道にお兄様を引きずり込んで、“運命”を辿らせる」
「それは、貴女にしかできないことです」
「そうね」
リルウは自嘲気味に笑った。優しい思い出が胸の内に甦り、泡のように浮かんで消えた。
彼は、漆黒の瞳を半眼にして、どっかの従者が置いていったそれを見た。
灰色の髪の少年は、教団本部の一室のベッドを占領し、ぐうぐうすやすやと気持ちよさそうに寝ている。憎らしくなるくらいの安らかさ。
シンスはそれをじっくり眺めた後、呟いた。
「俺んちは荷物置き場じゃねーんだぞ……?」
ある意味信頼されている教祖




