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「内科から回ってきた話なんですがねえ、どうもねえ、最近、やたらITP(突発性血小板減少性紫斑病)の患者さんが多いようなんですねえ。まあ、ITPなんて、そう珍しい症例じゃあないですけどねえ、そう多くもない症例ですからねえ、これが急に増えたなんてことになると、ちょっと気になるねえという話が向こうで出ているそうなんですねえ。まあ、うちは外科が専門ってわけじゃあないですからねえ、内科から脾摘(脾臓摘出手術)を頼まれることはないわけですから、うちにはあまり関係ない話ではありますがねえ、一応はねえ、心に留めておいてくださいねえ」


 そう言えば、部長は消化器外科の出身だった、と井崎は思い出していた。肝心のことを最初に報告しない部長に苛立ちが募るが、今に始まったことではないので黙って耐えた。


「それで、問題は狂犬病……ですか」


 狂犬病、という一言を部長が呟いた瞬間、医局の雰囲気が変わった。全員が穴が空くほど部長を見つめている。部長は落ち着かない様子でメガネの位置を調整し、書類を捲る。


「ええ……保健所に連絡を入れてみたんですがねえ、はい……残念ながら、まだ何とも言えないとのことでした、はい……」


 一同に落胆の色が強く出る。見かねて、井崎は立ち上がった。一同の視線が集まるが、気にしてはいられない。


「うちの病院で狂犬病を疑わせる所見の犬に噛まれたと分かっているのは、現時点で木村真幸君と、夏川響也君の二名です」


「どちらも都合よく井崎先生の担当ですね」


 大野が冷たい声音で横槍を入れてきて、条件反射で苛立った。


「僕が患者を選んだわけではありません。言いがかりはよしてください」


「話によれば、後から来たほうの患者は井崎先生を直々にご指名だったそうですけど?」


「彼は車に興味があるらしく、駐車場で僕の車を見ていたんです。気になって声をかけて、そのまま成り行きで主治医になりました」


「へえ、大層立派な車に乗ってるんですね、井崎先生は」


「……何の変哲もない国産車ですけどね」


 そして、医局の雰囲気に気付いて井崎と大野は同時に口を閉じた。誰もが皆、何ともいえない顔で自分たちを見つめている。井崎は軽く咳払いした。


「響也くんには、今現在、狂犬病を思わせる症状は出ていません。問題は真幸くんです。彼は入院した日、明らかに水分を嫌がる反応を見せました。その後、やはり看護師が監督していなければ処方された薬をきちんと飲まない、などの行動は変わっていません。咽喉部の炎症も確認できていますので、飲まないのではなく飲めないのだという可能性もあります」


「どうしようもないでしょう」


 堀内がポツリと言った。


「狂犬病は発症したら助からない。医療機関が打てる手はない」


 そんなことは百も承知だ。井崎は表情を変えないよう努めた。


「真幸くんが緊急搬送されてきた時、彼は明らかに狂騒状態でした。その後、意識は鮮明ですが、いつまた狂騒状態に陥るか分かりません。なので、なるべく早い段階で感染拡大防止のために彼を個室に移したいと考えています」


「ええ、そうですね。それがいい」


 部長が頷いた後、少し置いてから井崎は大野を見た。


「今更ですが、大野先生が担当された患者さん……、遠野久子さんは、狂犬病で亡くなられた可能性も否定できないのでは?」


 てっきり言い返してくるだろうと思ったのだが、大野は何も言わずに腕組みをしただけだった。これ以上待っても返答は何も無さそうだと判断し、井崎はいったん席についた。


「はい、狂犬病に関しては以上ですね。では、申し送りを始めたいと思います。ええっとお……」


 部長の視線が医師たちの上を幾度か彷徨った。どうやら、夕べの当直が誰だったのかさえ分かっていないようだった。いつものことだから、何も言う気になれない。井崎は再び立ち上がった。


「では、僕から報告させていただきます」


 積み上げられたカルテのひとつを開き、ざっと内容を復習した。


「夕べの午後九時半ごろ、十九歳の男性が服毒自殺をはかり、ERに搬送されてきま

した。幸い、患者が口にしたのが有機リン剤だったので、催吐、胃洗浄とオキシム剤で対処しました。今現在は、後方病棟で回復を待っています」


 患者が口にしたのが解毒薬のある有機リン剤であったことが、果たして幸運なことなのかどうか、井崎には分からない。だが、かの有名なパラコートを飲まなかったことだけは、不幸中の幸いと言っていいかもしれない。


「この患者さんの全身には、特徴的な紫斑が出ていました。それに、歯ぐきからの出血などの所見から、ITPの可能性もあります」


 ついさっき部長の口から出た「ITP」という病名が臨床に現れ、医局の中に微かな緊張が走った。


「患者の回復に合わせて、内視鏡検査を適用しようと考えています。こちらの患者について以上です」


 井崎はカルテを置き、別のカルテを取り出した。


「続いて、午後十一時過ぎ、交通事故患者が二人、搬送されました。三十代の男女で、身元は不明です。女性は車外に投げ出され、頚骨骨折で、即死でした。男性の方も、ハンドルに胸を強く打ち付けたらしく、心臓破裂していました。よって、午

後十一時十三分、死亡を確認しました」


 女性の手足は、異様な方向に捩じれ、内臓のレイアウトは狂い、顔面は誰か分からないほど損傷していた。男性の方は、追突してきたトラックとの間に挟まれ、胸は完全に潰れていた。


 その上更に、ここのERに運ばれてきたときにはすでに、救助作業のために一時間以上が経過していた。打てる手はない。警察の話によれば、乗用車を運転していた男女の信号無視が原因の事故で、相手のトラック運転手は軽症であるとのことだ。


「まったく、事故に自損(自殺)が多いですねえ」


 部長が疲れたような声で言っていた。その通りだとは思ったが、医者には市民の交通事故を防げる能力などない。


「当直からは以上です」


 井崎が席に着くと、今度は看護師長の鈴木が難しい顔で挙手した。


「……またです。またやられました」


 彼女の一言で、その場にいる全員が同じ人物の顔を思い浮かべていたに違いない。


「館山さんです。午前二時三十五分、いきなりERのナース・ステーションに怒鳴り込んできました。うちの看護師が性欲処理に応じなかったことがお怒りの原因だということです。実際は、呼吸器外科の看護師が迫られて突き放したそうですが」


 鈴木はこれみよがしな溜め息をついてみせる。


「暴れまわって棚の中のものをブチまけるだけならともかく、顔を真っ赤にして、次から次へとパッケージを破って中身を放り投げていくんです! 今月は二度目ですよ。おかげで医事課から嫌味をくらいました」


 部長が沈黙している。


「呼吸器外科に監視をきつくするように言うしかないでしょう」


 大野の一言に、鈴木はただ項垂れていた。

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